閑話八十二 真田幸綱 合戦
いよいよ北畠の軍勢との合戦です。
天文十八年六月 真田幸綱
いよいよ儂が手掛けておった伊勢調略の総仕上げとも云える合戦が始まる。
まさか儂が大将として一手を率いる事になるとは思わなんだが、村上殿に言われてみれば、確かに儂が調略を掛けてお味方に引き入れた伊勢国人衆らと全て面識があるのは儂だけ。
それに伊勢国人衆が主力とは言え、何かと競い合う伊勢国人衆の中より大将を選ぶよりは、儂が大将を務める方が理にかなっているのであろう。
だが、伊勢以外から陣借りに来ている武士らも併せて三千もの兵力というが、個々の武勇は兎も角、内実は烏合の衆と言わざるを得ぬ。
個々の顔見知りや縁筋は勿論居ろうが、この軍勢で一堂に会したのはこの場が初めてなのだから。
逆に村上殿が武田の元家臣らと共に引き連れて参った尾張の兵らは個々の武勇はわからぬが一糸乱れぬ行軍、陣立ての素早さ手際の良さを見れば正に精兵といえよう。
村上殿はその辺りをよくよく考慮し策を考えた様で、我らの伊勢国人を主力とする軍勢を囮に使って敵勢を陽動し、その隙に敵の対応出来ぬ速さで織田の軍勢を一気に側面に回り込ませ、混乱するであろう敵陣に喰らいつく、という思い切った手だ。
そして、我らの軍勢は尾張の軍勢と敵勢が戦い始めたところで背後より攻めかかる。
これであれば、例え烏合の衆の軍勢であったとしても何とかなるのではないか。
少し気になるのが、此度村上殿は本陣に櫓を立てて戦場を俯瞰しながら伝令を飛ばして全体の指揮を執るそうだ。
本陣櫓の周りは無防備に見えるが、更に何か策があるのであろうか。
敵の布陣が完成した所で、頃合いよしとゆっくりとした調子で陣太鼓が叩かれる。
「よし、各々方。
我らの役目は囮じゃ。
急ぐ必要はない。
陣太鼓の調子に合わせてゆるゆる進むぞ」
「「応!」」
矢盾を前に陣太鼓に合わせてゆるゆると軍勢が進んでいく。
それを見て敵の軍勢も動き出し、特に正面に展開していた軍勢が槍を前にこちらに動き出したのが見えた。
しかし、敵勢との距離はまだかなりあり、この調子では実際に槍を交わすのはまだまだ先になるだろう。
四半刻経っても我らは未だゆるゆるとしか進まず、また織田勢が動かぬのを見て敵が焦れたのか本陣と後詰を残し、陣を押し進めるべく全軍が前へと動き出した。
やがて我が隊の位置が、正面の敵と動かぬ織田勢の中ごろ迄進んだ。
その頃には敵は我が隊の正面の敵を先頭に斜行気味に陣を進め、奇しくも村上殿が策として話した斜行陣と合わさる様な陣形に変化しつつあった。
つまり烏合の衆たる我が隊を崩せば、そのまま敵勢は織田勢側面に突出して正面と側面から包囲して攻め立てることが出来る。北畠勢がそう考えていたとしても不思議ではないだろう。
だが、不気味に動かぬ織田勢に策の気配を感じ、警戒しているのは間違いない。
それも村上殿の策のうち。
敵がすっかり動き出したところで、織田勢の最右翼が我が隊に追いつく勢いで前進を始め、斜行陣を描くように時間差を取って織田勢の全部隊が前進を始めた。
敵はそれに気づくと慌ただしく陣立てを変更しはじめ、我が隊はすっかり忘れられたかのように、蚊帳の外へと追いやられる。
恐らく、我が隊と敵との距離がまだかなりあるのがその理由だろう。
織田の軍勢は敵の動きなど気にせぬが如く、見事な行軍で斜行陣を描くと、軍議で語っていた様に、あっという間に敵の正面から敵左翼へと移動し縦行陣へと陣を変化させた。
その疾きこと風の如く、あれほど迅速な行軍というのを儂は初陣よりこの方見た事が無い。
敵が対応しようと懸命に陣を組み替えている最中にも最右翼に居た隊を先頭に敵左翼の斜め後方へと陣を進め、回れ左と草原に風がそよぐように一斉に陣を敵軍勢の左側面へと向けた。
その後は、策の通り激しき事火の如く、未だ陣の組み換えをやっている敵勢の側面より一気呵成に攻め込んだ。
散発的に射かけられる敵の矢を矢盾で防ぎつつ、重歩兵を正面に押し立てて弩の斉射を繰り返しながら敵の正面を崩し、長槍兵が敵の槍兵を牽制しながら突き倒す。
その連携の取れた戦ぶりは見事としか言いようがない。
「各々方、そろそろ頃合いであろう。
敵の背後に食いつき、手柄としようぞ」
「「応!」」
我が隊は寄り合い所帯の烏合の衆ではあるが、正面の敵と戦うのみという事であれば問題は無い、それぞれがそれぞれの武勇を発揮してくれればよいのだ。
織田勢の見事な戦に触発された我が隊は士気旺盛に敵の軍勢を背後より挟撃。
正面に居た神戸ら北畠側の国人衆は背後より攻めかかられて崩れそうになるが、流石に北畠の軍勢は上手く陣変えをして凌いでみせる。
それを見た国人衆らも何とか総崩れとならぬ様に踏ん張る。
やはり、芯となる者が崩れなければ、総崩れとはいかぬ様だ。
だが、織田勢の攻勢は激烈であり、我が隊も敵の背後を突くという好機を無駄にはせぬとばかりに懸命に攻めかかっており、敵方の劣勢は明らか。
このまま推移すれば北畠勢が総崩れとなるは必至であろう。
そんな中、起死回生と北畠勢の一隊が抜け出て我が本陣へと急襲を掛けんとした。
織田勢も我が隊も戦っている最中であり、下手に動けばそこから崩れかねない。
織田勢の中で一番左翼に居た村上殿の直卒隊なれば一番外側故動けるのではないかと思われたが、後を追う様子もなく本陣への急襲を許してしまったのであった。
がら空きに見える本陣に向け、五百名程の敵勢が突入していった。
しかし、やはり村上殿は本陣の陣幕に兵を伏せており、敵勢は本陣に取り付く前に伏兵の弩兵に射すくめられ、本陣前に伏せらていた重歩兵を突破する事も出来ず、殆どが討ち取られるか捕らえられるかされたちまち無力化されたのであった。
村上殿はこれを誘っていた訳では無かろうが、念の為に兵を伏せていたのだろう。
急襲に失敗すると北畠勢は後詰をすべて投入し、軍勢を下げだした。
これを待っていた村上殿は騎馬によって編成された弓騎兵隊を投入。
後詰も出し、馬回りのみになっていた敵本陣を急襲させた。
この弓騎兵隊は守護様の家臣である太田殿という弓大将が開発したという馬上でも取り回し良く、通常の弓より射程、威力に勝る滑車弓という弓を装備した隊だ。
馬の機動力を活かし、ここぞという時に敵に痛打を与える為の隊だとの事だが、気が付けば敵の本陣をその射程に収めてその強弓にてつるべ打ちにし、総大将を護らんと果敢に壁になる馬回り衆を次々と討ち取り、遂に敵の総大将である北畠晴具を生け捕りにしたのだった。
総大将を失った北畠の軍勢は雪崩を打つように引き上げていくが我らはそれを追撃はせず、かわりに村上殿はここぞとばかりに神戸氏の居城である神戸城を攻めた。
神戸氏ら北畠氏に従う国人らの軍勢は既に総崩れであり、わずかな留守居が居るのみの神戸城を軍勢で囲み、戻って来た当主の神戸長盛らを包んで捕縛すると、城も開城し神戸氏は降伏した。
最大勢力の神戸氏が降伏すると、他の国人らもみな降伏し、此度の戦に関わらなかった南伊勢の国人らも北畠の大敗を知り、臣従を誓う使者をこぞって送って来た。
神戸一族は尾張へと送り、神戸城は関氏へと引き渡した。
元々、神戸氏は関氏の一族でありこの辺りの土地は関氏の所領だったのだ。
手負いの収容や治療、国人らの処理など後始末を終えると、我らの軍勢は降伏した南伊勢の国人らの軍勢を吸収し、雲出川まで軍を進めそこで一先ず陣を敷いた。
北畠家の当主である北畠晴具を捕縛したが、嫡男である具教は軍勢と共に逃げおおせ、難攻不落と名高い霧山城にて籠城の構えという。
霧山城は城への七つの経路全てに峠越えが必要な難所に位置し、正に天然の要害。
平時にすら往来に難儀する為詰めの城とし、普段は麓の多気御所に住んでいるほどだという。
武田の要害城の様な物であろうか。
村上殿は一先ず捕虜にした敵の当主北畠晴具を備後守様の下へと送り、条件を示して臣従を促すようであるが、何しろ国司の家柄故な…。
いずれにせよ、力攻めはせぬ方針故、臣従が成らねば兵糧攻めと相成ろうか。
一先ず村上義清率いる織田勢の勝ちですが、嫡男ら多くを取り逃がしてしまいました。