第百六十五話 雪斎和尚来訪
春先に来る予定だった雪斎和尚が訪ねてきました。
『雪斎和尚の訪問』
天文十八年六月、元旦頃に藤三郎殿が、雪斎和尚がまた春先に尾張を訪れる、という話をしていましたが、忙しかったようで初夏になってからやってきました。
先に守護様や父上らと会見を行い色々な話し合いをした様です。
その後で、雪斎和尚が私を訪ねてくるという事になったのですが、清洲ではなく前回と同じく古渡でお会いする事になりました。
暫らくぶりにお会いした雪斎和尚は変わらずお元気そうです。
古渡での面会と言う事で、藤三郎殿が是非雪斎和尚にお見せしたいというので、今も改良中の蒸気機関車を動かして見せたり、ガラス器具を見て貰ったりしたのですが、蒸気機関車を見た雪斎和尚が父上と同じく少年の様にキラキラと目を輝かせ、義元公にも是非お見せしたい、と話していました。
その義元公が年内にまた尾張来訪を計画しているとの事で、その申し入れを先の守護様と父上との会見の時にしたそうです。
現在駿河は尾張から東海道沿いに続く商圏の一番東の端にあり、商圏と関東以東との中継地として多くの品物が集まり、経済的に随分成長したのだとか。
また駿河の清水湊は元々活気がある大きな湊街だったそうですが、以前より一回り大きくなったと感じるほどだ、と雪斎和尚は話してくれました。
地道さが要求される農業に比べ商取引は敏感ですからね。
例の黒ボク土に対する施肥も去年の秋ごろから試験的に始めており、肥料として使う鶏糞の供給元として幾つもの養鶏場が駿河国内に作られ、鶏が大々的に飼われ出したそうです。
その結果、今や庶民でも卵が食べられるようになり、尾張から伝播した卵料理が流行っているのだとか。卵は栄養価が高いですから、駿河の健康状況が改善しそうですね。
「和尚様、暫らくぶりですね。
息災そうで何よりです」
「久しぶりにござります。
最近は戦も無く平穏にて、国を富ますべく内政に精励しておりまするぞ。
姫の言われた通り、まだまだ駿河は豊かになれる。
そう実感しておるところにござります」
「昨日は蟹江で尾張丸を見聞されたそうですね」
「左様、蟹江の造船所と先日完成したという巨船を見せて貰いましたぞ。
開所したばかりの頃に見た造船所の設備が更に素晴らしくなっており、また其処で造られた尾張丸の大きさにはただため息ばかりにござります。
もしや、あの大きな船は日ノ本の外に行く為の船ではござりませぬか」
「そうです。
あの船で外の国と交易を考えているのですよ」
「どんなものを持って帰るのか楽しみにござりまするな」
「ええ、私も楽しみにしています」
「ところで吉殿…。
その後、輿入れの話は如何でござりましょうか。
備後守殿にもお聞きしたのですが、うまくはぐらかされて答えては貰えませなんだ」
「輿入れの話は、特に何もありませんよ。
良い相手を考えると言われているだけで、具体的には何も」
「吉殿程の器量良しともなれば、恐らく備後守殿の下へは多く申し込まれていると思いまするが、中々に難しゅうござろうな」
「器量良しだなんて。
和尚様にお世辞を言われるなんて思いもしませんでした。
でも、有難うございます。うふふ」
「お世辞だなどと。
はっはっはっ」
雪斎和尚が苦笑いします。
「ですが…、行き遅れる前には輿入れしたいものですね…」
それを聞き、雪斎和尚が一瞬キツネにつままれた様な表情を浮かべ、ややして噴き出します。
「あっはっはっ、戯れを言われる。
はあ、久しぶりに大笑いしましたわい。
ところで吉殿、北条氏康という御仁をご存知か」
「相模国を領する北条家のご当主でしょうか?」
「左様。
昨年の武田勢の遠江攻めはその北条との甲相同盟、そして半ば形骸化しておったが甲駿同盟の二つの同盟を後ろ盾になされた事にござります。
しかし、斯波家の反撃に遭い武田は敗退、甲斐まで攻め込まれる有様に相成ったのはご存知の通りにござりましょう」
「はい」
「武田はこの様に、北条と、そして今川と同盟関係がござりましたが、北条と今川は河東の地を巡り争っている間柄にござります」
「ええ、存じています」
「吉殿は北条氏康殿を如何評価される?」
「氏康殿は
戦上手で内政にも長けた傑物であると聞いております。
特に内政にはただならぬ手腕をお持ちだと思います」
「ほう。高く評価しておいででござりまするな。
されば信用にたる人物にござりまするか?」
「恐らくは、裏切るという事はあまりされぬ方だとは思います。
ですが、自らの生き残りの為には同盟相手であれ見殺しに出来る冷徹さも持ち合わせているでしょう。
実際、同盟を結んでいるにも拘らず、甲斐が攻め落とされるに至っても武田に後詰を送る事はしませんでした。
実は、以前より織田家と交流があったとはいえ、武田が遠江を攻めた時には早々と父宛てに、北条は動かない、と手紙が来ていたのですよ」
「なんと、そのようなことが…。
されば、北条に対して今川は今後どう当たるべきでござりましょうか」
「今川が攻められるという事態になれば、織田は必ず後詰を出しましょう。
それが農繁期であれ、農閑期であれ、尾張の軍勢は馬車を連ねて短期間で駿河まで行きますよ。
今や駿河は、私たちの商圏の大事な一部ですから」
「遠江での織田家の見事な用兵の話を聞いて、味方であればこれ程心強い事は無い、と
我が殿もそう仰っておいででござりました」
「ですが、北条は戦上手ですからそのうち関東に、大きく国を拡げていくでしょう。
その前に打ち負かすのか、それとも和解するのか、選ぶ必要が出てくるでしょうね」
「拙僧も、吉殿と同じ見立てにござりまする…。
吉殿なら如何対処なさる」
「私であれば、既に今川は河東の地を取り戻しているのですから、現状線を変更しない事を目指し、北条と和議を結び同盟を組むでしょう。
そうすれば、更に商圏を東へと進めることが出来ます。
そして北条の領内が商いで潤うようになり、人の行き来が増えれば、それをわざわざ壊して迄駿河と戦をしたいとは考えなくなるのではないかと思うのです」
「…なるほど、我が殿と同じ考えにござりまするな」
「義元公も同じ考えでしたか。
ですが、北条が同盟締結を拒むのであれば、父と相談して援軍を得て、大きくなる前に潰してしまうのが後の為です」
「吉殿は苛烈な事も考えるのでござりまするな」
「大きな戦になれば大勢の人が傷つき或いは討ち死にし、多くの民百姓が苦しみますから。戦が避けられぬのであれば芽の内に摘むべきだと私は思います」
「然り…。
此度、伊勢へと出兵しておる様子にござるが、早期に決着が着く事を祈っておりますぞ。
早く戦が終われば我が殿もその分早く尾張を訪れる事が出来ますからな」
「ええ、本当に。
私もそれを願っています」
「此度の尾張訪問も色々と収穫がござりました」
「それは良かったです。
和尚様も息災でいらしてください」
「お気遣い有難く。
吉姫も息災で。
では、これにて」
「はい。お気を付けて」
雪斎和尚は河東の地を狙っている北条を警戒している様です。
今の今川の動員可能兵力はかつてほどではありませんから、北条としては駿河に攻め込むチャンスだと考えても不思議ではありません。
しかし、北条氏康殿は父と長らく手紙のやり取りをする間柄で、しかも遠江に手を出した武田がどうなったのかを見ていれば、下手に我等に手を出してきたりはしないとは思うのです。
それよりは、寧ろ我等と同盟を結んで自ら東海道の商圏の一角に加わり、後顧の憂いを無くして関東に集中した方がより前向きなのではないかと、そう思うのです。
伊勢での戦が終わったら、再び義元公が訪問予定です。