閑話七十八 村上義清 伊勢出陣
村上義清視点の話です。
天文十八年五月 村上義清
儂が尾張は清洲へと移り住み早や半年余り。
来た頃は驚かされる事ばかりであったが、ようやっと慣れて来た気がする。
儂は殿に“戦上手を眠らせるのは惜しい、儂に仕える様に”と言われて尾張へ参ったのだが、
それは表向きの話で、実質的には信濃村上家の人質として尾張に来たのだと思っておった。
しかし、いざ清洲へと来てみると尾張守護代の城である清洲城への出仕を命じられ、殿から戦ばかりでなく諸事についての相談を受けるなど、人質ではなく家臣としての働きを求められたのであった。
儂は隠居の身であり、与えられた屋敷には信濃より付き従った郎党など家人はおるが、今は銭による禄のみで領地は無く、以前の様に手勢を用意できるわけでもない。
それ故、儂の役目は城詰かと思っておったが、殿からもう一つ役目を与えられた。それは織田の常雇いの兵らの練兵であった。
とはいえ、儂は織田家の用兵など知らぬ。
兵を鍛え備えを整える訓練を施す事は出来るが、どうやら求められている事はそう言うものでは無いようであった。
殿の真意がわからなんだが、勝手のわからぬ儂の下へ付けられた常雇いの兵の大将が儂の屋敷を訪れ、織田の常雇いの兵、こちらで言うところの常備軍について詳しく説明をしてくれた。
それによると、織田の常備軍は常に雇われている兵達の集団であり、一番小さな単位が兵四人と組頭一人の計五人で編成される“伍”と言い、伍の組頭を伍長と言う。
そこから四つの伍で二十人からなる“分隊”でその組頭は分隊指揮官という。
更には五つの分隊百人で小隊、五つの小隊五百人で中隊、という具合に単位が大きくなっていき、五つの中隊二千五百名で大隊。
この大隊が常備軍の最大編成だという。
それぞれの単位の隊には隊長がおり、同じ兵が同じ隊長の下常に行動を共にする。
その兵は重歩兵、長槍兵、槍兵、弩兵、弓兵と兵科ごとに編成されて居て、一個大隊はそれらすべての兵科を内包するが、それぞれの必要な兵科を抽出して使う事も出来る。
つまり、重歩兵だけ抽出して前面に分厚い壁をつくる、或いは長槍兵を前面に押し出して敵を制するなどというやり方も出来るのだ。
これは、儂がやりたいと思っていた戦のやり方の理想形が正に実現していると言えるだろう。
そして、それらの大隊の下位組織として兵站を担う荷駄専門の装備を持った兵まで居るというのだから至れり尽くせりというものだ。
故に、常備軍を指揮する場合、その隊の隊長に命じて指揮をするだけでよく、単位以下の兵達もそれぞれの隊長が指揮する為、命令伝達が早く崩れにくい。
儂に与えられた役目というのは、儂に預けられた大隊を指揮し、儂がこれ迄培ってきた戦の仕方が出来る様に仕込むことであるらしい。
それと同時に、儂の下に付けられた若い武士に、儂の戦を見せ学ばせてほしいという事だ。
目端の利きそうなこの若者達は恐らく儂のお目付け役も兼ねておるのだろう。
一通りの話を聞いた儂は、殿から与えられた役目を果たすべく儂に預けられ大隊の大隊長や儂の下に付けられた若者達と相談しながら練兵の場所を選び、様々な地形や場面で存分の働きが出来る様に練兵を始めた。
儂は最初、常備軍の兵士達は銭雇いの傭兵程度だと思っておったが、さにあらず。
彼らは兵士として日々鍛錬を重ねており、更には普請など土木工事を請け負ったりもしており、それぞれが高い武勇を持つばかりか、五人で協力し合って戦うことに慣れており、また野外で陣地を築くにしてもその作業の段取りの良さと速さ、そして技術の高さは素晴らしい。
普通の農兵とは比較にならぬ能力だ。
故に指揮を執るのも楽であり、策を考え大隊長にその意図を伝えれば、大隊長がそれぞれ配下の指揮官に必要な役目を伝達し、末端に至るまで手足の様に動くのだ。
これは大隊長を任されておる者が優れたる武将である事も間違いないが、その配下の武将から組頭に至るまでそれぞれが己が役割を良く理解し、自らの頭で考え動けるという事が大きいのであろう。
これ程の者らの指揮を任されるなど、なんという幸運であろうか。
こうして儂は城への出仕を続けながらも、多くの間彼らと共にあり、彼らと共に練兵を重ねて来る日に備えたのだった。
儂は城へ出仕した折には、次なる戦場であろう伊勢の事情や調略の進み具合などを殿から聞かされており、近々戦になるのであろうと意を強くして居ったが、三月に入りいよいよ出陣が近いと聞かされた。
総大将は殿の弟である孫三郎殿で、これ迄数々の戦を勝ち抜き殿配下でも名将と名高き御仁だ。
しかし、此度の戦は総大将は孫三郎殿であるが、殿は実質的な差配は儂に任せるというのだ。
率いる軍勢は、儂の直卒の常備軍一個大隊に更に四個大隊が追加され、また甲斐信濃で新たに殿に従った者達の郎党も加わるので、これを合わせ総勢一万を超える軍勢となった。
更に孫三郎殿の下には後詰として一万の兵が控えており、状況に応じていつでも後詰を出せるとの事だ。
今現在、農繁期であるにも関わらずこれ程の兵を出せるというのは、やはり常備軍を備えている織田家の強みであろう。
伊勢で調略に応じなんだ伊勢の国人や神戸、北畠らの大名も、農閑期にならねば兵がまともに集まるまい。
それにしても、かつて信濃で敵味方として争った者同士がこうやって織田家の下で一つに集い共に戦に出るなどと、人生面白い事が起きるものだ。
我らは出陣の準備を進め殿の下知を待った。
四月に入り、現時点での伊勢の状況が知らされ、いよいよ出陣と相成った。
殿曰く、敵が兵を集める前に攻めてしまえと。
確かに、わざわざ敵に合わせてやる必要など無いが、それが出来る織田家はやはり強い。
儂は出陣の前に、殿に此度の戦に持参する予定の新たな城攻めの兵器を見せて貰った。
これを拵えたのは古渡の職人衆らしいが、発案したのは殿の姫君だという噂だ。
尾張に来た頃、先の甲斐信濃での戦の絵図面を引いたのは“賢姫”と呼ばれる殿の姫君だという噂を聞いたとき、そんな馬鹿な話があろうかと鼻で笑ったものだ。
しかし、その後色々な御仁から聞いた話をまとめれば、どうやら真の話らしいのだ。
殿は姫君の話を全くなされぬが、儂が殿の立場であったとしても人には決して語らぬであろうな…。
野外で絡繰屋清兵衛の指揮の下、兵士たちがきびきびと動きその攻城兵器を組み上げた。
この兵器の難点は備え付けに時間がそれなりに掛かる事と、備え付けてしまうと簡単には動かせぬ事だろう。
大きな竿の如き腕の先端には石を詰める為の網が吊るされ、そしてその竿の根元には大きな槌状の重りが備え付けられている。
兵士らが先端の部分に結わえ付けられた滑車に掛けられた縄を巻き取り機で巻き取っていき留め金に固定する。
そして、先端の網に岩を詰めると、留め金を外して岩を放つのだ。
留め金を外した瞬間、引き絞られた腕はごうっと音を立てると岩を投擲する。
するとおよそ四町(400m)もの先へと岩は飛んで行き、地面にめり込んだのだった。
あれほどの岩があの様に当たれば、大手門すらも無事では済まぬ気がする…。
先の甲斐信濃での戦では殿は城攻めを回避したので城攻めは無かったと聞いたが、伊勢ではこの様な物を使う機会もあるという事なのであろうか…。
一先ず攻城兵器は置いていくとの事だが、城攻めが起これば運び込んで使う事になるのだろう。
四月中旬、我らは清洲にて出陣式を行った。
守護様が儀式を執り行い、お言葉を下されたのだ。
孫三郎殿は後詰として長島の城へと入り、我らは一隊を近江への抑えとして上木城に入れ、残りの軍勢は臣従した伊勢国人の浜田家の城である浜田城へと向かった。
そこで調略に応じなかった国人である楠家と対陣するのだ。
吉姫が作らせた攻城兵器は所謂トレビュシェットというやつです。
大砲程の威力も射程も無いですが、割と長く使われていた攻城兵器だと思います。