閑話七十七 柴田権六 那古野城
那古野城の家老を務める柴田権六視点での話です。
天文十八年四月 柴田権六
冬が過ぎそして春になったが、未だ信勝様は大殿からの赦しを受けられぬ。
大殿が尾張一国の守護代となり、以前にも増して多忙であると云うのも一因であろうとは思う。
しかし、跡取りたる嫡男を謹慎状態のまま何故放置為されているのか。
表立っては誰も言わぬが、廃嫡をするのではないかと噂する者も居る。
先の信濃での大殿の話では、戻れば改めて沙汰をする、という話であったと思うのだが…。
そして去年より話は聞いておったがいよいよ伊勢を攻めるというに、信勝様に汚名返上の為の声は掛からなんだ。
しかし謹慎中とはいえ、信勝様が那古野の城主である事は変わらぬ。兵は養わねばならぬし、那古野の城下街の運営や領地経営など、城主としての仕事は幾つもある。
ただ、その仕事さえも信勝様はあまり関わろうとは為されず無気力に日々を送られておる故、見かねたお方様が率先して差配し、林佐渡守殿が腹心としてそれを支えるという形が出来上がってしまっておる。
仕方なき事とはいえ、今やお方様が那古野の主の有様なのだ。
お方様の差配で仕事は滞りなく、いやお方様が嫁いで来られる前より、那古野の城下は活気づき、領地は豊かになっておるのだ。
つまり、それはマムシの娘たるお方様の非凡さの表れではあるのだが…。
お方様が居らねば、那古野は今頃どうなって居たか。
恐らく美作殿亡き後、信勝様に不興を買っていた林佐渡守殿はお役御免を言い渡されたかも知れぬ。
そうなれば、儂が家老として一人支えねばならなんだが、儂自身も先の戦で美作殿を救えず敗戦した責を信勝様に問われ不興を買っている身。
とても、支えられたとは思えぬ。
今の心を閉じてしまった信勝様を支える事が出来る者など居るのであろうか…。
この様な那古野の有様を、大殿が全く知らぬとは思えぬのだが。
そんな那古野にも慶事があった。
お方様がご懐妊なされたのだ。
大殿や御前様、吉姫様などのお身内の他、多くの方から祝いが届き、決して皆様が信勝様やお方様の事を蔑ろにしているわけではないという事ははっきりした。
そうでなければこれ程の祝いは届かぬであろう。
ところが信勝様は、自らの初子となるかも知れぬご懐妊に笑顔は見せられたが、どうにもその目は笑っておらなんだ。
信勝様の心中は分からぬが、何故心から喜べなんだのだろうか。
そんな信勝様にはっきりと変化があったのは、二月のある日であった。
政務に関わらぬのは相変わらずであるが、ある時より機嫌よく満足げに笑みを浮かべる様になったのだ。
何があったのかわからぬが、気分が上向かれたのであれば儂は良いことだとその時は単純に喜んでおったのだ。
ところが三月に入ったある日を境に、何が起きたのかは分からぬが以前にも増して不機嫌になり、儂の顔を見るや忌々し気に睨みつけられたのだ。
睨みつけられるような事をした覚えは無く、如何なされたのか聞いたのであるが、忌々し気に何でもないと言い放つと行ってしまわれたのだ。
その日から、信勝様はたまにお見掛けしても終始不機嫌な様子で、また籠りがちになられたのだ。
流石にもうこのお方にこのままお仕えするのは無理ではないか。
儂はこの先如何するべきか思案しておった時、ふと姫様の顔が思い浮かんだ。
以前はお供としてお仕えしておったが、信勝様の下に来てよりすっかり疎遠になっておったのだ。
儂は姫様の事を思い出すと、居てもたっても居られず、訪ねる事にしたのだ。
聞けば、今は清洲にお住まいではあるが、以前と同じく古渡によく居られるらしい。
早速と使いを出すと、姫様にお会いすることになった。
「姫様、すっかりご無沙汰してしまい申し訳ござらぬ」
「変わらずお元気そうで何よりです。
久しぶりに訪ねてくれ、嬉しく思います。
権六殿は今は那古野の家老職なのですから、それだけ励まれているという事でしょう」
姫様は変わらず優しいお方よ。
半介と儂が、この方のお供をしておった頃は今思えば楽しき日々であった。
それに比べ今の儂は…。
「恐縮に御座りまする…」
「今日はどうしたのですか?
用事も無く、ただ訪ねて来た訳では無いのでしょう?」
姫様は自ら忍びの者を抱え、情報収集をしておられる。
儂の知らぬ事も良く知っておられる。
もしや、信勝様の変化の理由も知っておられるのではなかろうか。
「姫様にこの様な事をお聞きするのは、筋違いかもしれませぬ。
ですが、他に相談する相手も居らず…。
知恵者であられる姫様のお知恵を拝借できればと…。
罷り越した次第にござりまする…」
姫様は不思議そうな表情を浮かべられた。
「私でお役に立てるかどうかわかりませんが。
どんなお話なのでしょうか」
「じ、実は…。
今お仕えしておる信勝様の事に御座りまする…」
「弟の事ですか…。
弟がどうかしましたか?」
明らかに姫様の声色が変化した…。
御前様と姫様は和解なされたが、信勝様は姫様の事を未だ嫌っておられる…。
「ご存知かと思いまするが、信勝様は先の甲斐信濃での戦の失敗を叱責され、謹慎の身なのでござります。
あの戦より以前は重用しておられた側近の林美作殿が居った事もあり、林佐渡殿を筆頭に那古野城はそれなりにうまくやっておったのでござりまするが、その美作殿が信濃で討ち死にして以来、信勝様は心を閉ざしてしまわれたのでござる」
「謹慎は知って居ましたが、そんな事になっていたのですね…。
今、那古野は大丈夫なのですか?」
「はい。
お方様が非凡なお方故、信勝様を懸命に支え、佐渡殿がお方様を良く補佐し、何とかやっておりまする」
「確かに、帰蝶姫は非凡な方だと思っておりましたが、城主の良き妻として弟を支えてくれているのですね」
本当の事はさすがに言えぬ…。
「はっ」
「わかりました。
それで、弟は未だ心を閉ざしたままなのですか?」
「はい。
相談したき事とは、その事に関係する事なのでござりまするが…。
実は二月のある日、それまで塞ぎこんでおられた信勝様がよほど良い事があったのか、急に上機嫌になられ満ち足りた表情で終始笑みを浮かべるようなられ、拙者も信勝様のお気持ちが晴れられたのかと、喜んでおったのでござります」
「二月ですか…」
「はい。
しかし、その後三月に入ったある日、それ迄の上機嫌ぶりが嘘であったかのように、急に不機嫌になられ、また塞ぎこまれる様になったのでござりまする…。
拙者もよくよく頭を巡らせたのでござりまするが、その理由が皆目見当がつきませぬ…。
それで、姫様に何かご存じないかとご相談に参ったのでござりまする…」
姫様は一通り儂の話を聞かれた後、暫し思案顔になった後、口を開かれた。
「わかりました。
私も離れて住んでおりますし、直ぐにその理由を話す事は出来ません。
何かわかれば、また知らせます。
兎も角今は、弟のもとでこれまで通り励んでください」
ふむ…。
流石に姫様でも離れて住んでおられる信勝様の事は分からぬか…。
しかし、はっきりわからないとは仰られなんだな。
それに儂は何も言っておらぬのに、これまで通り信勝様の下で励めと言われた。
いずれにせよ、今答えを教えて頂くことは出来ぬのだろう。
今日は戻って、信勝様の勘気を被らぬよう気を付けながら役目に励むとしよう…。
「はっ。わかりました。
姫様、お時間を取っていただきありがとうござりました。
知らせをお待ちしておりまする」
「はい。
今日は訪ねてきてくれ、以前半介殿とお供をしてくれていた時の事を思い出し、懐かしく思いました。
また機会があれば訪ねてきてください」
「ははっ。
今度は半介と共に訪ねて参りまする」
やはり、儂がお仕えすべきはこのお方なのでは無いのか…。
だが、今の儂は織田家の家臣であり信勝様の家老。
姫様が男子であられたならばご嫡男、今頃は織田家の次代も盤石と大いに期待されておるだろう。そして、儂は信勝様ではなく姫様の家老になっておったかもしれぬ…。
…このような事考えても詮無き事か。
勘十郎の下、気苦労が絶えぬ権六です。