第百六十一話 六角氏動く
伊勢の情勢が進む中父信秀が訪ねてきます。
『伊勢出兵』
天文十八年四月、寒かった時期も終わり春めいてきました。
去年末から真田殿を中心に北伊勢の調略を進めているのですが、まだ戦も起きていない今の時点で、北畠氏が動き出したようです。
流石、英君と名高い晴具様です。調略が進んでしまえば不利になるのは見えていますから、先に動いたのでしょう。
またこの機会に、先手を打って尾張勢を挫けば北伊勢を制する事も見えてきますから。
我が家としては伊勢が安定し商圏の一部となるならば、それを武衛家ではなく北畠氏が治めていようと気にしないのですが、それを晴具様に理解させるには、頭を冷やして貰って聞く耳を持って貰わないと難しいでしょう。
戦準備などで慌ただしくなってきた頃、父が訪ねてきました。
「吉よ、最近はあまり会えなくて済まんな」
「いえ、父上は今や守護代を務める多忙の身ですから。
寧ろ私は父上が過労で体調を崩されないか心配です」
父が苦笑いします。
「はは…。
佐吉が連れて帰った玄庵という医者にも診て貰ったが、今のところは健康に問題は無い様だ。
ただ、吉と同じことを言っておったわ。
まだ若いが、いつまでも無理の出来る歳でもないと。
それは、儂も実感しておる事だ。
だが、まだまだ頑張らねばならぬからな。身体の事は十分留意しておる」
「はい。それを聞いて少し安心しました。
ところで、お話があったのではありませんか?」
「おお、そうだ。
吉も話は聞いておるだろう、伊勢の件よ」
「はい、北畠氏が動き出したのでしょう」
「うむ。思ったより早く動いた。
ここ数年長野氏と戦続きだったと聞いたが、もしかすると我らと関係なく長野氏と戦をするつもりだったのやも知れぬな」
「なるほど、それはありえますね。
とはいえ、実際兵を動かすとしても農繁期を過ぎてからでしょう」
「そうであろうな。
だが、我らがそれに合わせてやる必要はない」
「そうですね。
直ぐに動かせる軍勢だけで攻めるならば、それ程の兵力は必要ないでしょう」
「その通りだ。
故に、孫三郎を総大将に任じて、戦支度をして居る」
「甲斐信濃から来た者達に仕事をさせるのですね」
「左様、今の扶持で食うには困らぬだろう。
しかし、手柄の無いままでは居心地が悪かろうからな。
この辺りで、手柄を立てさせてやれば落ち着くであろう」
「はい。それが良いでしょう。
それで、私と話をしたい事というのは、伊勢事情の事でしょうか?」
「はっはっはっ。
本題はこれからよ。
吉、六角氏が戦支度を始めた。
聞きたいのは六角氏の思惑よ。吉は六角氏はどう動くと思う?」
わざわざ手紙を寄こしたのですから、伊勢には来ないでしょうね。
とはいえ、その事を話すのはちょっと憚られます。
「私は六角氏に臣従している国人に手を出さない限りは伊勢には来ないと思います。」
「ほう。その理由は?」
「現在の六角氏は我が家と同じく商いに特に力を入れています。
街道を整備し、関所を廃し、誰であれ自由に商いが出来る楽市楽座など、我等と同じ新しき取り組みにも以前より取り組んでおります。
おかげで今の観音寺城下をはじめ六角氏の勢力圏は大変豊かになっています」
「うむ。その辺りの話は、五郎左衛門や近江の商人から聞いておる」
「はい。
そんな六角氏が望むのは領内の近江商人達の商圏の拡大でしょう。
そして尾張へと商圏を広げるためには伊勢の安定は不可欠です。
つまり、この度我等が伊勢を安定させるために手を入れたというのは、六角氏にも利になるのです」
「ふむ。なるほどな。
それで動かないと。
だが戦支度をはじめておる」
「北畠晴具様の御嫡男具教様の御正室が定頼様の娘ですから、まったく動かないという訳にはいきません。
恐らくは伊勢に近い城に軍勢を入れ、北伊勢の六角氏に臣従している国人たちを護る様な体を見せますが、伊勢までは軍を進めないでしょう。
それに、北畠氏はここで六角氏の力を借りて借りを作ってしまえば、今後伊勢に口出しをされる口実が出来てしまいますから、避けるのではないでしょうか」
「という事は、北部に抑えの兵を置いておけば、それで十分という事だな」
「おそらくは。
万が一の時は尾張や三河から援軍を出す事も出来るでしょう。
ですが、戦の数は少ない方が良いですから」
「うむ。その通りだな。
吉よ、参考になった」
「はい、お役に立てれば幸いです」
父は微笑むとまた慌ただしく仕事場へ戻っていきました。
綺羅星の様な武田の旧臣達の活躍をこの目で見られないのは残念ですが、加藤さんにまた代わりに見てきて貰うとしましょう。
今回信秀はバックアップです。