閑話七十六 真田幸綱 北伊勢調略
真田幸綱の調略は進みます。
天文十八年四月 真田幸綱
儂は殿に命じられた伊勢の調略を進めておったが、服部殿を介して手を入れてみれば伊勢国人衆とは想像以上に纏まりがないという事がわかった。
服部殿は伊勢国人衆の実態というものを良く知っておるようで、儂がどのように調略を進めるのか談合した時に、そのように話してくれたのだがまさかこれほどとはな。
外敵に対しては伊勢国人衆は合力する、と殿は話しておられたが、表立って脅威が無ければ、たとえ外敵が見えていても国人らはそれぞれの利害だけで動くのだ。
そこでまず手始めに、服部殿の年来の知己であった桑名の伊藤殿に使者を立てた。
此度、桑名湊に矢銭を要求している国人衆の一人がこの伊藤氏なのだ。
桑名湊への介入をやめる事を要求すると共に、武衛様に従えばどれほどの恩恵があるのかを説いて見たところ、服部殿を介しての調略である事も功を奏したのか、あっさりと臣従を約束し、幼き次男を人質として送って来た。
殿からは人質は無用と言われておるが、殿は人質など必要なくとも調略された側からすると臣従した武衛家との間に「何も無い」というのは非常に不安であるから人質を送って来るのは仕方がない。
いずれこの人質は伊藤殿に返すとしても、一先ず事の次第を殿にご報告した。すると、人質が幼少であれば熱田の学校に預ける様に、と指示を頂いた。
人質として送られてくるのは大抵嫡男以外の男子で、余り歳の行かぬ子を送ってくる場合が多いから、これからは人質は熱田の学校に預ける事にする。
伊藤家が武衛家に臣従した事が伝わると、矢銭を要求していた他の木曽川流域の十三家があっさりと臣従してきた。
結局、攻めれば抵抗するが利を示して臣従を求めれば、今や多くの国を従える斯波武衛家に盾突いても何ら良いことは無く、すんなり臣従する事で少しでも心証をよくしておいた方が良いという判断なのであろう。
これで、桑名湊へ矢銭を要求していた国人衆をすべて従える事が出来、一つ目の目標は達成したと言える。
しかし、我らが伊勢へと手を伸ばしたことが明らかになった事で、他の国人らが警戒を強め出した。
我等が員弁川を越えて調略を進め、毛利家、沼木家、野村家と臣従させ、春日部家の調略に着手したところで、北畠氏に近い有力国人である神戸氏が動き出したと知らせがあった。
それに伴い、神戸氏に近い赤堀家、楠家などの国人らも動き出した。
直ちに殿に報告をすると、村上義清殿ら甲斐信濃で新たに臣従した者達に戦支度を済ませる様に命じられた。
思ったより北畠氏が動き出すのが早かった為、儂は姫様が言われていた有力国人の調略を進める事にした。
まず調略するのは関氏で、神戸氏や北畠氏から度々攻められ争った間柄。この機会に北伊勢が平定され安定する事は寧ろ関氏の望みでもあろう。
関氏と縁戚関係のある国人を介し、話し合いの席を伊勢のとある寺で持ってみると、寧ろこれを機に斯波武衛家に臣従の使者を出すべきでは、との話し合いを家中でしていたところであったらしい。
北畠氏はこの農繁期後に大兵力を動員し、更に神戸氏の軍も加えて長年争ってきた関氏を攻め滅ぼし、その勢いで伊勢国人らを糾合して侵入してきた斯波武衛家を一気に伊勢から叩き出すつもりであり、関氏は北畠氏から降伏するか武士の意地を見せるかを決めろと言われている、との事。
しかし、遺恨ある北畠氏や神戸氏に今更下るなど出来る訳も無く、かといって武士の意地を見せたところで多勢に無勢、そうなっては北伊勢の国人衆が自分達に味方するかは怪しい。
それ故、一縷の望みを斯波武衛家に臣従する道に賭けようと、そう話し合いが進んでいたそうだ。
後日関氏より尾張の守護館に臣従の使者が訪れ、関氏は武衛様に臣従する事になった。
その後関氏と同じく、長年北畠氏と争ってきた有力国人である長野氏とも話し合いの場を持つ事が出来た。
その際、臣従した場合の安堵の条件を伝えた後、既に関氏が武衛家に臣従している事を伝えると長野氏側は非常に驚いていた。
そして、近く北畠氏、神戸氏と決戦の見込みだという話を伝えると、長野氏側はこれまでの争いにケリをつけるいい機会だと、その場で臣従に応じた。
やはり殿の方針で臣従の条件がかなり緩い事、また臣従した後に得られる利が大きい事、何より名門である斯波武衛家に臣従するという事で名分が立つ事が大きく、この度の北伊勢での調略は非常に楽に事が進んだ。
以前仕えておった晴信様の下では、恐らくこんな風には行かなかったろうな。
結局、武衛家が伊勢に手を入れるのを歓迎しない北畠が動き出しました。