第百五十八話 堺へ
吉姫は川田夫妻の家を訪ねます。
『ソリ』
甲斐信濃から子供たちが沢山学校にやって来た話を聞いた時には特に気にも留めなかったのですが、後から気が付いたのです。そういえば年末のこの時期って、勿論隅々迄ではないでしょうが、甲斐信濃辺りって雪がかなり降り積もっている時期だった筈、という事に。
雪深い道と言うのは大人でも難儀するのに、大勢の子供たちを連れてどうやって尾張まで来たのかと不思議に思い、加藤さんに聞いてみたところ、私の知らないところで色々な物が出来ている事が判明しました。
これは転生者が複数いる時点で予想すべきでしたね。
馬車が既にあり、駅の整備もされていて、ストーブも急速に普及しています。
そして、主要街道は地元の国人領主らが仕事として維持整備を請け負っているので、気象状況にもよりますが頻繁に雪かきが行われ、冬の間も街道交通の維持が為されています。
雪深い地方には当然雪深い地方にあった馬が居て、そんな地方の領主から雪が積もっている状況でも動ける馬車を注文された絡繰屋清兵衛さんが、佐吉さんと相談してソリ付きの馬車を作りました。
それが高評価だったので、冬の間も雪深い地方での駅馬車の運用が始まったそうです。
まだ完全ではないですが、街道整備は甲斐信濃平定後真っ先に着手していますから、かなり進んでいます。
やはり、地元の国人領主達を動員して全区間で並行して工事を進めると、自然と競い合いにもなりますし、主要街道の開通まで驚くほど短期間だったそうです。
そんな整備された街道を通って、子供たちはストーブ完備の暖かい馬車を乗り継ぎながら、それ程苦労する事無く尾張までやって来た、つまりそういう事でした。
清兵衛さんに武衛様お墨付きで仕事が沢山来るようになったという事は聞いて居ましたが、私の知らないところでも色々と働いているのですね。
『堺』
天文十八年一月中旬、佐吉さん宅訪問です。
今日も梓さんのはなれで三人で話します。
何時の間にかテーブルとか椅子が揃い、前に比べると部屋が洋風でお洒落になっていますね。
これは梓さんのセンスでしょうか?
「佐吉さん、梓さん、その後お変わりないですか?」
先に梓さんが答えます。
「はい、私は経過も順調でこの冬は特に体調を崩したりもしていません。
やはり食生活の水準が上がると栄養状態が良くなり、代謝も上がる様で身体の調子がとても良いです」
佐吉さんが微笑みます。
「そうですよ、国人領主の娘だった梓さんでもそう感じるのですから、私など数年前から考えたら夢の様な食生活です。
勿論、前世にはまだまだ及びませんが、最近はこのくらいの食生活が丁度いいのではないかとも思います」
「ふふ、そうですね。そうかもしれません。
梓さんも、経過が順調の様で何よりです。
何しろこの時代の出産は命がけですからね」
「そうなんです…。
私も実家にいた頃、色々な話を聞きました。
正直不安ですが、子供は欲しいですから。
それに姫様に頂いた出産本、とても役立っていますよ。
この本を使って、家の者に今から勉強してもらったり、色々準備させたりしています」
「お役に立ったら嬉しいです。
でも、殆どが前世での一般知識的な事ですし、私自身出産の経験は無くて、姉の出産に立ち会っただけですから」
「それでも、この時代の間違った医療知識の中で梓に子供を産ませる訳にはいかないですから、姫様の本は十分役に立ってます。
私も、前世の妻の出産に二度ほど立ち会いましたが、それでも自分が産んだわけではありませんし、男の立場での出産ですから知らなかったことが多々ありました」
「そうですよ。
私も学者なんて言いながら専門分野以外はサッパリな人生でしたから。
出来れば、姫様や佐吉さんと出会えたように、何時か医療知識のある転生者と出会えれば心強いのですけどね」
「そうですね…。本当、そう思います」
もし、そんな人が居れば四十代前半で死んでしまった父の死を回避できるかも。
そして、三十代で死んでしまった新九郎様を長生きさせられるかもしれないです。
でも、以前佐吉さんの今生での身の上話を聞いてからは、それは宝くじに当たるよりももっと確率の低い物だと思えました。
佐吉さんが私の表情を読んだのか、努めて明るい声で話します。
「無いものねだりをしても仕方がないですから。
今ここに私たち三人が居る事を、大きな幸運だと考えましょう」
「確かに、私なんて同じ転生者と結婚できる幸運に恵まれたのですから。
これ以上を望むのはむしろ怖いです」
「あはは、そうですね。
私も二人と出会えたことで、随分と救われています。
今生での家族が居ても、前世の記憶がある以上、孤独感はぬぐえないですからね…」
二人がしんみりとうなづきます。
さて、そろそろ今日の本題に入りましょう。
「ところで、今日佐吉さんを訪ねたのは、前に話していた仕事を頼みたいからです」
「はい、どんな仕事でしょうか?」
「佐吉さん、堺に行ってきてくれませんか」
佐吉さんは少し驚いた表情を浮かべますが、直ぐに意味が分かったのか頷きます。
「以前仰られていた、姫様の代わりに堺を見てくる、という話でしたね」
「そうです。本当は私が行きたいのですが、そう言うわけにもいきませんので…。
かといって、この時代の人に行って貰うのではあまり意味がありません。
この時代の人で良いのなら、既に商人たちや鈴木党の人たちが定期的に堺に行っていますから、わざわざ佐吉さんに頼みません」
「ええ、転生者の知見で堺を見てきてほしい。
つまりそういう事ですね」
「はい。そういう事です。
平成の御代を生きた転生者として、今の堺をみてどうなのかと云う所と、以前頼んでいた物が果たして堺で手に入るのか探ってほしいのです」
「承知しています。
今年には新しい大型船が完成しますが、外海に行くのに必要な装備も人材も未だありません。
それらを揃える為にも、堺、そして博多の視察は必要でしょうね」
「そうです。
まずは堺に行ってもらい、その次は博多です。
梓さんにさみしい思いをさせるのは申し訳ないのですが…」
「確かに、佐吉さんが暫くいないのは寂しいですが…。
しかし、意義は理解しています。
出産はまだ先ですし、船で行くのでしょう?」
「そうですね。
陸路で行くのは時間も掛かりますし、万が一が怖いです。
船も万が一は無くはないと思いますが、陸路よりは時間も掛からずずっと安全です」
「わかりました。
それでは、準備して今月には出立します」
「お願いします。
津島の大橋殿の店の人と、それに鈴木党からも人が同行します。
それに、川田の家のお供を連れて行ってください」
「承りました」
こうして佐吉さんは十日ほど後に、堺でもしとある人物に出会えた場合に渡してほしい、と私が託した手紙と様々な購入品のリストを持って、津島から旅立ちました。
堺までは途中幾つか港を経由しつつ、海路で六日程。
用事が無事に済めば来月には戻って来るでしょう。
佐吉さんの初仕事は堺出張です。