閑話七十三 武田信繁 忘年会
信繁は念願の吉姫の領地視察へ同行します。
天文十七年十二月
甲斐から来た者は最初古渡に屋敷が宛がわれたが、備後守殿が守護代に就任し居を清洲に移すに伴って、我らにも清洲に新たに屋敷が与えられ移り住んだ。
年が変わるまであと二日というところで、漸く吉殿の視察への同行が叶った。
良く視察に行かれると聞いておったので、もう少し早く同行が叶うかと思っておったが折が悪かったのか機会に恵まれず今日まで来たのだ。
清洲の城下で吉殿の一行に合流すると、馬車に分乗して一先ず古渡へ。そして、古渡からも同行者が加わり、雪が積もっていることもあり、そこからは馬車を下りて吉殿の化粧地だという浜に面した村へと向かった。
山深い地に住まう我らの感覚では、農地のある村であり、そして船があり漁も行う漁村でもある村というのはどんな村なのか想像も付かなかった。
街道沿いに南に進むとすぐに熱田の門前町に差し掛かる。年始めに行事があるのか門前町は活気ある様子であった。
門前町を抜け更に南に進むとやがて目的の村へと到着した。
近隣の村も大体同じような作りであるそうだが、その村は北側の小高い山から浜に掛けて村落が広がり、浜の方には漁に使うのか浜小屋があり、そして浜にひっくり返して干してある小舟を付けるための艀が浜から海へ伸びているのが見えた。
また、この村の田畑だろう耕作地が周辺に広がっているが、確かにこの規模の村の持つ耕作地としてはかなり広く感じられる。
吉殿の小者が来着を知らせる先ぶれに走り、一行が村へと入るとこの村の乙名が出迎えた。
乙名は吉殿を出迎えると満面の笑みで言上を述べた。
「姫様、よくぞお越しくださいました。
村の者も皆心待ちにして居りました。
ささ、お寒いでしょう。こちらへどうぞ」
「出迎え大儀です。
息災そうで何より。
村の皆も息災ですか?」
「それはもう、皆元気にございます」
乙名に誘われて、村で一番大きな建物である乙名の屋敷へと入っていく。
この屋敷は村への客人に対応する場を兼ねておるのか厩まであるな。
屋敷へと入ると、とたん外の寒さが嘘の様にそこは暖かかった。
予め部屋を暖めてあったのだろうか、だとすれば随分と心身共に温まるもてなしだ。
「暖かいですね。
ストーブの使い心地はどうですか?」
「はい、姫様に付けて頂きましたストーブはとても暖かく、村人も皆欲しがっておりました」
「それは良かった。
試しに作ってみた甲斐がありましたね。
燃料は竹炭を砕いて固めた物ですから、村でも作ることが出来るかもしれません」
「あれは竹なのですな。
村にも竹林がありますから、作り方を教えて頂ければ早速村の者達と作ってみます」
「そうですね。
村人の家にも付けられるストーブが準備出来たら、この燃料の作り方も教えましょう。
竹ならば成長が早いので上手くやれば冬を温かく過ごせるでしょう」
「冬が暖かく過ごせれば、皆元気に冬を越せます」
「うふふ。
でも、くれぐれも扱いには注意してください」
「心得ております」
吉殿と乙名の会話を聞いておったが、随分と慕われておるように見える。
だが、守護代家の姫がこの様な所で下々の者と気安く話を交わすなど、普通では考えられぬな。
そもそも、いくら自分の化粧地とはいえ、姫自らが訪れるなど聞いたことも無い。
しかし、供回りの武士らも特に気にも留めて居らぬ様子。
滝川という警固の武士も何やら帳面をしたためておるだけで、咎める様子も無い。
つまり、これがここの普通なのであろう。
それであれば、これ程慕われておるのもわからぬでもない。
聞けば、このストーブとやら申す鉄で出来た箱も吉殿が与えた物であるようなので、ならば新しき農具を皆に与えたというのも本当の話なのであろう。
奪うばかりが当たり前となっておるこの乱れた世で、色々と与えてくれる姫が領主という。なんと恵まれた村であることか。
兄者も武田の家も甲斐の村人の暮らしぶりには心砕いておったが、現実に何かしてやれたことなど数えるほども無い。
この乙名の屋敷にせよ暮らしぶりは随分良いようだ。
屋敷の作りはしっかりとしており、隙間風が吹き込むことも無い。
あまり見かけぬ変わった作りにも見えるが、中に入ればしっかりしておるのがよくわかる。
調度品もそれなりもの物であり、羽振りの良い商家の屋敷の様では無いか。
この吉殿が気の良い事を利用して私腹を肥やしておるのではないかと疑いたくなるほどであるな。
「姫様、今年も村人皆で準備をしております。
生憎の雪にございましたが、薪を暫く焚いておりましたので、そろそろいい塩梅だと思います」
「そうですか。
では、参りましょう」
乙名は村人と何か準備をしておったらしい。
これから何をするのであろうか。
村の中央にある広場へと一行は進んでいった。
広場の中心で大きな焚火がたかれており、その周りでは鍋が幾つも準備されておった。
ほう、ここで宴でも催すようだ。
そういえば、古渡から小者らが長持を幾つも運んできておったな。
村人たちも見れば皆仕立ての良い着物を着ておる。
姫が来ることを知っておったから、着飾っておるのかも知れぬな。
村人を前に吉殿が言葉を掛けるのか、皆が集まって来た。
「皆の者、今年もまた皆にここで会うことが出来て嬉しく思います。
皆が大いに励んでくれたお陰で、皆の家に布団を届けることが出来ました。
まだ全員に届けるとは行きませんでしたが、来年も一層励めばより豊かになり、皆に布団が行き渡る事を約束しましょう」
「「「おお!!」」」
喜びの顔を浮かべた村人たちから声が上がる。
これ程までに明るい顔ばかりの村がこの日ノ本にどれ程あるであろうか。
噂には聞いておったが、聞くと見るでは大違いだ。
実際にそれを成せる者と気持ちばかりで終わる者では天と地ほどの差があろう…。
確かに、甲斐の地は尾張に比べれば不遇だ。
耕作地は狭い上に泥かぶれなどという忌々しい病もある。
甲斐と尾張は元から比べるべくも無いが…。
儂は甲斐の民皆をこの笑顔にしてみたい。
兄者とてそれを望んでおったはずだ。
此度、戦で負け儂は人質の身ではあるが、儂はこの吉殿と出会うことが出来た。
吉殿がいつぞや寺で言っておったが、これぞ危機こそ好機では無いのか。
ならば儂はこの好機を無駄にはせぬ。必ずや掴んで見せようぞ。
儂は気持ちも新たに、この日ばかりは村人たちと酒を楽しんだのだ。
気持ちを新たにやる気を出した信繁です。