閑話七十 柴田権六 勘十郎様
柴田権六が勘十郎に呼ばれます。
天文十七年十二月 柴田権六
先の武田との戦から一月以上経つが、いまだ大殿から命じられた謹慎は解けぬ。
大殿の尾張守護代就任の儀にも我らは呼ばれなんだ。
これ迄の勘十郎様の在り様を見れば先の戦での失態のお怒りがまだ解けぬというだけでは無かろう。
もし勘十郎様を同席させてなにかあれば大殿ばかりか武衛様の顔にも泥を塗ることになる。そうなれば勘十郎様はただでは済むまい…。
我ら那古野の大人の不甲斐なさ故といえばそれまでであるが…。
勘十郎様は特に気に入られておった美作殿が討ち死にしてより、塞ぎこまれる姿がよく見られるようになった。
無理もない、幼少の頃よりずっと側でお仕えして居ったのだ。
美作殿が居った時は勘十郎様のお気持ちを察して代弁する事もあったが、今となっては勘十郎様が真に心を許しておる者などおらぬのではないか。
結局、この那古野の差配はお方様を中心にわれら大人達でやっておるようなものだ。
しかし、お方様は如何に女傑とはいえ、他家から嫁いできたばかりのお方。
それに、何かあれば美濃に戻ることもあるというのにこのままでは如何にもまずかろう。
お方様は勘十郎様を時に叱咤し時に激励しなんとかこの那古野の主として、そして今や守護代家となった弾正忠家の嫡男として務まるようにと努力なされておるが…。
そんなある日、珍しく儂は勘十郎様に呼ばれた。
元服後に付けられた儂と半介は避けられて居るわけではないが、儂は個人的に呼ばれた事は無く、半介も呼ばれたなどと聞いたことが無い。
此度が初めてではないか。
「勘十郎様、お呼びだそうですが、いかなる御用にござりましょうか」
「その方に少々聞きたいことがあってな」
「はっ」
「その方、ここに来る以前は姉上の下に居ったと聞いたが」
「はっ、側仕えとまではいきませぬが、出掛けられる際に警護の役目を務めておりました」
「そうか…。
姉上はどんな人となりか聞かせてくれぬか。
儂はほとんど口をきいたこともなく、噂に伝え聞いた事位しか知らぬ」
「吉姫様に御座るか…」
ふむ、なんと答えたものか…。
「そうでござるな、思慮深く優しいお方に御座る」
「ほう。
権六もそのように答えるか」
ん?どういう意味だ?
「拙者、吉姫様には妻を救って頂いた事もござれば、他にもただならぬ御恩を受けてござりまする」
勘十郎様は儂をジッと見据えると、何か考えておる様子。
やがて再び口を開かれる。
「ふむ。
半介も同じように答えよったわ。恩義があると。
そして、出入りの商人などほかの者に問うても、みな似た様に答える。
なぜ姉上にその様に恩義を感じる者が多いのだ」
今の世、何かしてくれる者など殆どおらぬ。
神仏に祈ったところで実際に何かして貰えることはない。
だが、吉姫様のお陰で尾張の者共は随分と豊かになったのだ。
吉姫様が自らそれを語られることがなくとも、人の口に戸は立てられぬせいで皆知っておる。
「吉姫様が作らせた様々な農具や新たな取り組みが皆を豊かにした故にござろう」
勘十郎様は不思議そうな顔をする。
「古渡から殆ど出ない姫が作らせたなどと…、本当はその作った者が考えたのであろう」
確かに、清兵衛をはじめとした職人たちの働きがあって初めて吉姫様の考えだされた道具は実現した。
しかし、吉姫様が考え出さねばそもそもその様なものは生まれもしておらぬわ。
「こしらえた職人の技があってこそ実現したことに相違ござらん、しかし考え出したのはたしかに吉姫様に御座る。
拙者も吉姫様が描かれた図面や模型を見たことがござれば、間違いござらん」
儂が反論したことであからさまに不機嫌を顔に出す。
備後守様なら家臣を前にその様な顔はなさらぬ。
「ならば権六の言う通りなのであろう。
して、その心優しい姉上であるが…。
先の甲斐信濃出兵という策を考えたのは姉上だそうだな」
次は何を言い出すのかと思えば…。
大殿は吉姫様の事をあまり語るなと言っておられたな。
「拙者の口からはお答えできませぬ」
一瞬あっけにとられた表情をなされたが、にやりと下卑た笑みを浮かべる。
このお方は本当に備後守様のお子なのか…。あまりに違いすぎる。
「まあ良いわ。
帰蝶が教えてくれたのよ。
甲斐信濃攻めの策を考えたのは姉上だと。
武家の嫡流とはいえ、誰かの正室でもない唯の娘が尾張でも最有力者である父上に策を献ずるなどと、思い上がりも甚だしいな。
そうは思わぬか」
儂や備後守様の今があるのは吉姫様の知恵のお陰、中には机上の空論を地で行くような酷い策もあったが、言い換えれば備後守様や儂らならやれると信頼されての策ともいえる。
結果として、策は当たり続け我らは負け知らずなのだ。
お方様は勘十郎様に如何なる意図で入れ知恵なされているのかわからぬが…。
だが、それも儂の口から話すわけにはいかぬ。
なぜ備後守様が吉姫様の事をあまり話されぬようにしているのか、暗愚な儂でもわかる故な。
「拙者の口からはお答えできませぬ」
儂の言葉を受け、あきれたような表情を浮かべられる。
「またそれか。
まあ良い、ならばだ。
そのように思慮深く聡明な姉上の考えた策だ。
その出来の良い策に何故儂の初陣が入っておらぬのだ。
初陣というのは必ず勝てる戦で行うものであろう。
それをあのような…、危うく儂は命を失いかけたわ。
儂を逃がすために美作が犠牲になったのだぞ!」
美作殿の事を思い出したのか悲痛な表情をされる。
あの戦は勝てる戦ではあった。倍する軍勢で挟み撃ちする策だったのだ。
それも吉姫様の策かどうかまでは儂にはわからぬが、備後守様が初陣に選ばれたのだ。
本来ならば楽に勝てたであろう。
だが、功を焦った勘十郎様を抑えられなんだ。
それは、儂ら那古野の大人の責任でもある…。
美作殿はまこと惜しい事をした。
文官肌の兄の佐渡殿とは違い、情けに厚く武勇に優れた男であったな。
「申し訳ござらぬ。
それは初陣にて気が急く勘十郎様を抑えられなんだ我ら那古野の大人の不甲斐なさに御座る…。
吉姫様がお考えになった策だとしても、備後守様が別働隊に勘十郎様を選ばれたのでござる。
備後守様は器用の仁とも渾名される周到なるお方に御座れば…」
「そ、そうだな。
父上が決められたのだ、きっと本来楽に勝てる戦であったのだろう…。
しかし、なればこそ何故初陣に出る弟の晴れ舞台までしっかりと考えておらぬのだ。
姉上は思慮深く優しいのであろう」
古渡から殆ど出ることもないお方が策を考えておられるのだ。
すべて掌にあるように見通せるわけではなかろう。
もしそんな事が出来るなら、それは人ではあるまいよ。
その掌から零れ落ちる者も居ろう。
「勘十郎様、吉姫様はすべてを見通せるわけでは御座りませぬぞ…」
「ならばそんなくだらぬ策を弄したりせず、姫は姫らしくして居ればいいのだ」
儂はそれを聞き落胆すると同時に込み上げる怒りを必死に抑える。
「今は清洲で母上であられる土田御前と共にお住まいでござれば、姫らしいお振舞を学ばれておりましょう」
勘十郎様はさも詰まらなさそうに鼻で笑う。
「ところで、姉上は姫の身でありながら、父上が付けた家臣以外に自ら家臣を持っておるそうだな。
どのような者が居るのだ」
これは異なことを聞かれる…。
「姫様の家臣という事であれば、細々とした雑事を頼んでおられる加藤殿に御座るな。
後は、職人上がりでござるが、功績を備後守様に認められて武士に取り立てられた川田佐吉殿がおられまする。
後はお抱え職人が居りまするが、家臣では御座りませぬな」
「ほう、加藤殿に川田殿か。
加藤殿はどんな男なのだ?」
加藤殿か…、恐らくあの御仁は透波の類であろう。しかし、確証はない。
姫様が細々した事を頼まれて居られるのは見たことがある故、偽りを話してはおらぬ。
「加藤殿は吉姫様の御用で不在の事が多く、側仕えでもない拙者はよく知りませぬ」
「そうか。
ならば職人上がりの川田という男は?」
佐吉殿は寡黙で真面目一途の男である位しか正直知らぬな。
「川田殿は真面目な男にござるな。
今でも職人仕事を手がけておるはずです」
「なるほどな。
功績で武士に取り立てられるほどの男なれば。
姉上は川田殿が他家に引き抜かれるなどして、居らぬようになると困るであろうな」
ん?どういう意味だ?
「川田殿は真面目一途、忠義一途の男にて他家になびくなど考えられませぬ」
「ふん。そうか。
姉上には忠義一途の家臣がおって良いな。
儂にも美作という忠義一途の男がおったが…。
うむ。聞きたいことは聞いた故もう下がって良いぞ」
まるで我らに対する当てつけのような物言いを…。
儂は頭に血がのぼるのを押さえつける。
「ははっ。
では失礼いたしまする」
思わず床を踏み鳴らしそうな気持ちを抑え勘十郎様の元を後にした。
しかし、なぜあの様なことを儂に聞いたのだ。半介からも何か聞き出していたようだが。
何もなければいいが、これ以上何かあれば廃嫡もあり得るのだぞ?
相変わらず頭の中が幼いままの勘十郎です。
ちなみに、佐吉さんは現在は信秀の家臣になってますので、吉姫個人の家臣は一の家臣、いや一人だけの家臣の加藤さんだけです。