第百四十五話 鈴木党の帰還
少し時を遡ります。
鈴木党が一足先に戻ってきました。
『鈴木党の帰還』
天文十七年十月、今月もそろそろ下旬となりましたが、遠江へと出陣していた鈴木殿が一足早く帰ってきました。
「姫様、ただいま戻りました」
「鈴木殿、無事の帰還なによりです。
皆無事に帰ってきましたか?」
「はっ、姫様の陣地のお陰で皆無事に戻ることが出来ました」
「それは何よりでした。
陣地の方は役に立ちましたか」
「はい。姫様が考えられたあの陣地は、一揉みで落とせそうに見えるが実は簡単には落とせぬ難攻不落の陣地。見事に武田の攻撃を防ぎ切りました。
しかし、あそこまで姫様の想定通りに戦が進むとは正直思いませなんだ」
「それほどでしたか」
「はい。
姫様が仰られたとおりの流れになりました。
二俣城へと向かわせた鉄砲隊は従弟の孫助に率いさせたのでございます。
その孫助から後で聞いた処によりますると。
まず、二俣城で鉄砲を使った事で敵は大混乱になり申した。
矢盾や具足は役に立たず、鉄砲を発射した時の轟音が響くたびに誰かが倒れる。
そんな有様で先手の信濃国人衆らは、少なからぬ討ち死に手負いが出た由に。
攻めあぐねた武田の軍勢は即座に軍を引き、矛先を変えたのでございます」
「無理攻めせず直ちに矛先を変えるのは、流石は武田と言ったところですね」
鈴木殿は頷くと話を続けます。
「その後、鉄砲を警戒して武田の軍勢は山城を避けたのか、姫様の見立て通り平城の匂坂の地へと攻め寄せて参りました。
拙者はもう一隊の鉄砲隊を率いて匂坂の地に到り、姫様が仰られた通り匂坂殿とその郎党と共に陣地構築をはじめました。
程なく匂坂の地には井伊殿の他、陣触れに応じた遠江南部の国人衆らが順次到着し、彼らと協力し僅か数日で東西に延びる陣地を築き上げました。
その後、太田殿率いる守護様の弩兵の一隊も到着し、準備万端と待ち受けておりますると、武田の大軍が攻めて参ったのです」
「山城は鉄砲を抜きにしても、攻め口が限られるため、大軍を活かす事が出来ませんからね。
特に、兵糧が心もとない武田の軍勢ならば大軍の利を活かせ即座に勝負の決まる平地での野戦を選ぶでしょう。
いえ、選ぶしかない…。でしょうか?」
鈴木殿は苦笑いを浮かべます。
「恐らくは…。
姫様が話された通り武田の軍勢は竹束を用意し、それを連ねて寄せて参りました。
そして、先ごろ試した通り二匁半の鉄砲では竹束を貫くことは出来ず、効果ありとみた武田の軍勢は全面で攻勢を掛けてきました」
「全面攻勢を掛けてくるのは賢明な判断ですね。
兵力に差がある場合、攻勢の箇所が限られていれば兵力を集中することもできますが、広い範囲での全面攻勢であればその分兵を分散せざるを得ませんから」
「それも姫様の想定の中ではありますが…。
武田の軍勢は全面攻勢を掛けて来ましたが、先ごろの演習の通り鉄砲から身を守る竹束が仇となり柵で足止めされ攻めあぐねておりました。
姫様考案の屋根付きの土塁は鉄砲や弩を撃つに適しており、敵が雨の如く矢を降らしても屋根のお陰で手負いすら出ませんでした」
「そうでしょう。
鉄砲衆は弾込めが肝です。屋根も無く矢の雨が降って来れば、落ち着いて弾を込めてなどいられませんからね」
「はい。おかげで落ち着いて弾込めが出来たと郎党も喜んでおりました。
その後、手負い覚悟で竹束を捨てて柵を引き抜いたり、竹束ごと柵を倒したりなどして柵を突破された箇所が出ましたが太田殿らの活躍で弩で射たり敵の武将を弓で手負いにしたりと戦えぬ様にして下げさせました。
姫様の仰る通り、討ち取るより手負いにした方が戦が楽にござりました」
「死んでしまえばそれまでですが、手負いのまま戦い続けることは難しく、また郎党を率いる当主が手負いになれば当主を守るために郎党は引き揚げます。
領民兵を率いる国人領主が下がれば率いられた領民兵らも共に下がります。
雑兵だけで戦など出来ませんからね」
「如何にも…。
しかし、精強で鳴らす武田の軍勢は流石にござった。
戦意旺盛にて、手負いの列が下がり穴が開けばすぐさま別の武将が率いる列がそこに入り穴を埋め、柵が抜けたならそこから戦果を広げようと竹束を掲げた列が次々と攻め入ってきまする。
そこで初めて津田殿の六匁筒を使いました。
他の鉄砲とは比較にならぬ轟音を上げると、試し撃ちの時の通り竹束を簡単に粉砕し敵を押しとどめました。
安全だと思っていた竹束が目の前で派手に飛び散り、弾が当たった兵は唯では済まぬのですから、忽ち足が鈍りました。
しかし、それでも機転を利かせて前に駆けて土塁の真下の死角までたどり着く者も居りました」
「六匁筒が役に立った様ですね。津田殿も喜ぶでしょう。
しかし、やはり死角までたどり着かれてしまいましたか。
でも、たどり着いた者は遠くからではわかりにくい土塁の高さに驚いたでしょうね」
「はい。
結局はよじ登るのも困難で、何とか登ろうと試みておりましたが、登れたものはおりませなんだ」
「倒した柵をはしごに使えば良かったのですよ」
それを聞き鈴木殿が目を丸くします。
「言われてみれば、そうにございますな。
突破された柵はそのまま捨てられておりました。
いずれにせよ、進まねば弩や鉄砲に撃たれますから簡単ではなかったでしょうが」
「そうでしょうね。
それで、どうなったのですか?」
「はい、敵は諦めず数に任せて攻め続けておったのですが、明らかに攻めあぐねておりました。
そこへ、敵の総大将と思しき風体の武将が馬に乗り将兵らを鼓舞せんと前に進み出たので、それがしが姫様より預かりしあの鉄砲で討ちました」
「撃ちましたか…」
「はい、姫様が仰られていた〝その時〟がまさに今だと思いましたので。
そして姫様のご指示通り、その場で撃ち殺したりせず腹を撃ちました。
総大将は馬に倒れこみ、武田の近習らが介抱しておりましたから、死んではおらなんだ筈です。
そして姫様が言われた通り、武田の軍勢は直ぐに引き揚げていきました」
鈴木殿が撃ったのは、多分武田晴信殿でしょうね。
「それは、お手柄でしたね。
鈴木党がこの度の戦の勝敗を左右すると思っていましたが、期待通りの働きをしてくれたようです。
しかし、あの鉄砲は父上にもまだ見せたくない物です。
ですから…。
鈴木殿が一番手柄なのは間違いないのですが…」
鈴木殿は微笑みます。
「姫様、お気になさいますな。
あのような鉄砲がある事が皆に知られるのは好ましくないとのお考え。
よく理解しております。
それがしも、これが手柄だなどと誰かに話す積りもありませぬ。
それに、この手柄はあの鉄砲があってこそできた事。
あれほどの離れた場所の武将の、しかも狙った身体の場所を正確に撃つなどと。
普通の鉄砲では出来ぬことにございます。
また、鈴木党の事についてもお気になさいますな。
我ら鈴木党、姫様や備後守様に既に返しきれぬほどの御恩を頂いておりまする。
此度の戦で恩賞に与ろうなどと、誰も思っておりませぬ。
備後守様のお役に立て、姫様に喜んでいただける。
それだけで満足にござります」
そう言い切ると、鈴木殿は平伏してしまいます。
「鈴木殿…。
鈴木党の心意気嬉しく思います。
ならばこの度の戦では私からは特別な恩賞は出しません。
ですが、父上からの恩賞は受けてください。
恩賞を出さねば父上が吝嗇だと思われてしまいます」
「ははっ。
確かに、備後守様程のお方が吝嗇だと思われるのは困りまするな。
備後守様からの恩賞は有難く頂戴しまする」
「はい。
では、この度の働き、ご苦労様でした。
長旅で疲れたでしょう。
ところで、太田殿はその後どうしたのですか?」
「武田が引き揚げた後、井伊殿ら遠江国人衆が武田を追うとの事で出陣したのですが、太田殿もそれに同道すると一緒について行きました。
武田の軍勢の追撃戦が終わった後は、恐らく甲斐の備後守様の元へと向かわれたのではないでしょうか」
「そうでしたか。
太田殿の事ですから、また訪ねてきますね」
「恐らくは…。
では、それがしはこれで失礼いたしまする」
「はい。
大儀でした」
晴信殿、犬居の地に着いたら兄上率いる三河の軍勢が待ち構えていてさぞ驚くことでしょうね。
そして、後ろからは遠江の軍勢。
これを切り抜けられたなら、たいしたものだと思います。
この時点では吉姫も鈴木孫六も晴信がどうなったのかは知りません。