閑話六十八 武田信繁 武田家降伏
信繁が甲斐へと帰還します。
天文十七十月 武田次郎
犬居の地に最後まで留め置かれた我ら甲斐衆は、最初に戻った信濃勢より二日の後、甲斐へと護送されることとなった。
三河の兵らに囲まれるようにして、犬居の地から秋葉道を北上し街道沿いに信濃を通り抜けて甲斐へと向かうのだが、道中が遠江へ出陣する折に我らがこの道を通って行った時とは、まるで空気が変わって居るのが感じられた。
最早武田が支配していた頃の面影はまるでない。
街道を進み、そして高遠城へと差し掛かる。
高遠城の城主である高遠頼継殿が二俣城攻めで討ち死にし、高遠殿の郎党にも大勢討ち死にが出たのだが、その高遠城には藤沢頼親殿の旗印が何本も立っていた。
つまり、我らが遠江に行っておる間に信濃国衆が動いたと言う事だろう。
杖突峠を越えて諏訪の上原城付近へ抜ける。
この城は板垣信方殿の弟である室住虎登殿が詰めていたはずであるが、今は再び諏訪の旗印が翻っている…。
諏訪の遺臣が反乱を起こしたか、国衆に攻められたかは解らぬが…。
室住殿はどうなったのであろうか…。
上原城から甲斐へと続く街道を進み、もう少しで甲斐へと到着する所までやって来た。
道中は三河の軍勢に囲まれて居るせいで、信濃の民の目に触れぬのが救いであるが、甲斐の無様な敗残の兵を見れば信濃の民はさぞ胸がすく思いであろうな…。
甲斐の民を食わせるためとはいえ、我らはそれだけのことをしてきたのだ。石礫の一つ罵声の一つも飛んで来るやも知れぬと思っておったのだが。
だが何事もなく甲斐へと入り、出陣の時に軍勢を集め兄が出陣の儀を執り行った若神子城の城下へと差し掛かった。
ここは源平の時代の古城故普段は兵を置いて居らず、主要三街道への分岐路でもあるため出陣の時に軍の集結に利用したりしていのだ。
普段人気のない山城故、知らねば気付かぬだろうな…。
儂は気を紛らわせるため、山上に見え隠れする山城を眺めておったが、出陣の日の兄者の姿を昨日のことのように思い出した。
そうだ、先に戻った兄者は無事だったのであろうか。
儂はよもや生きて戻るとは思わなんだ故、兄者と今生の別れをしてしまったが、今更どんな顔で顔を合わせればいいのやら。
そんなふうに考えると思わず苦笑してしまい、回りの郎党らが不思議そうに儂をみた。
何でも無いとごまかしたが、そんなやり取りをしている内に遠くに甲府の地が見えるところまでやってきた。
儂は甲府に着いたら、てっきり織田殿から躑躅ヶ崎館に降伏勧告をさせられるのだと思っておったのだ。
だが、眼の前の光景を見て儂は腰が砕けそうになった…。
なんという大軍勢なのだ…。
遠江攻めの一万五千の兵ですら儂にとっては大軍だと思えたが、これは倍ではきかぬのではないか…。
夥しい数の兵が陣を張り、甲府の街を囲んでおったのだ…。
斯波氏の丸の内に二つ引の旗印に、織田木瓜、他にも美濃斎藤、遠山氏まで来ておるというのか…。
我らは本当に虎の尾を踏んでしまったようだ。だがこの大軍勢なら、護りのほぼ無い躑躅ヶ崎館など一捻りではないか。何故織田殿は甲府の町を囲んだままなのか…。
その後、我らは織田備後守殿の率いる軍勢に引き渡された。
その時遠江で別れた馬場信房殿も、既に降伏してここ甲府に居ると聞かされた。
それはそうだろう、僅か数十人の郎党だけではこの軍勢を前にしては何も出来はせぬ。
そして再会した馬場殿は、儂の顔を見て驚くと同時にその両の眼から涙が溢れ出したのだった。
はじめは儂が生きておったのを喜んでくれたのかと思ったが、その後馬場殿の口から出た言葉に儂は身体の力が抜けてしまい、膝をついてへたりこんでしもうた。
兄者は…、兄者は甲府を目の前にして身罷ったとの事だった。
遺骸は備後守殿が実検し、特に首を取るようなこともせず、懇ろに弔って差し上げろと言われたと、そう馬場殿は話してくれた。
儂が生還する事も既に聞いており、戻るのを一日千秋の思いで待っておったそうだ…。
そして、馬場殿から兄者の遺言を聞かされた。
武田の家を残すことだけを考え、多くを望むな、と。
これ程の大軍で攻められて居ると言うのに、武田が誇った精強な軍勢は今や何処にもない。
遠江で多くの将兵が討たれ、甲斐に戻れなんだものも多い。
なんとか戻った者も殆どが傷ついており、暫く戦になど出られぬだろう。
尾張の軍勢がその気になれば、儂らが信濃でやってきた事を今直ぐこの甲斐で出来るのだ。
兄者の言い残した言葉が正しいのはすぐにわかった…。
未だ要害城は籠城を続けておるらしいが、兄者の遺言を果たす為にも一門である儂が行かねばならぬだろう…。
備後守殿に兄の遺言を伝え、それが武田の唯一の望みだと話すと、備後守殿は悪いようにはしない、とそう言われた。
その上で、これ以上無益な血を流すのは本意ではない、と言われ、要害城への使者を頼まれた。
儂は使者を引き受けると、一人要害城へと登った。
要害城では留守居の信廉が待っていた。
信廉曰く、ここは武田の本拠故、晴信兄者の言葉無く勝手な開城も降伏も出来ぬ、と。
元服したばかりの我が弟であるが、既に立派に一人前の武士の風格を備えていた。
信廉に兄者の死を伝え、兄者は信廉を支えてやってくれと後の事を馬場殿に託したと話した。
信廉は、兄である儂を差し置いて武田を仕切る事など出来ぬし、跡継ぎならまだ十歳ではあるが嫡男の太郎が居るではないか、と儂に話す。
だが儂は信廉を諭した。
それを最早我らは決めることが出来ぬ。外の大軍は見ての通りであるし、今や精強なる武田の軍勢は何処にもない。
我らは最早斯波殿に降るしかなく、降らねば甲斐武田家が絶えるのだ。
故に、我らが勝手に我らの行く末を決めることは出来ぬのだ、と。
黙って聞いていた信廉は、であるならば先ずは開城し、武田の命運を織田殿に預けるとしましょう、と言った。
さっぱりした表情で、あっさりと受け入れたのであった。
その後、場所を躑躅ヶ崎館へと移し、年長の儂が備後守殿に向かい合い、改めて降伏を申し入れた。
備後守殿は無駄な血を流さずに済んだことを先ずは喜び、降伏を受け入れた。
武田家の今後は、良くも悪くも兄者の望み通りになったのだ。
武田家の存続は許された。
一先ず武田家は信廉が跡を継ぎ、太郎が元服したら太郎に家督を譲る。
当分の間馬場信房殿が信廉と太郎の後見人となり、織田家からも与力を重臣に入れる。
儂は人質として、織田殿と共に尾張へ行くことになった。
聞けばあの村上義清殿も戦に敗れて虜になって降伏し、村上家存続の条件として隠居して尾張へ行くことになったとか…。
そして、何故織田殿がそれを知っているのかは解らぬが、泥かぶれに対処する方法があるから人質として尾張にいる間にそれを学べ、と織田殿に言われた。
何れ太郎が元服したら、儂は後見人として太郎の下へ戻り、代わりに信廉が尾張に行く。
そういう話だ。
また兄者の側室であった諏訪御前は、四郎を連れて織田殿に嫁ぐ事になったそうだ。
つまり、四郎は織田殿の養子になることになる…。
我らが信濃でやって来た事と同じことを…。やり返すという訳では無いのだろうが、なんとも皮肉な話だ。
だが我らと違うのは、これは織田殿が求めてという話ではなく、諏訪御前が強く望んだということらしいのだ。恐らくではあるが一度滅んだ諏訪の遺臣が強い後ろ盾を求め、諏訪御前もそれを望んだ、という事では無いか。
諏訪の家は再興され、寅王丸が跡を継ぐ事になった。
寅王丸は我らの妹である禰々の忘れ形見。妹は夫であった諏訪頼重殿の後を追うように若くして亡くなってしまったが、寅王丸には妹の分も生きて欲しいと儂は願っている。
織田殿は甲斐の国人らとも話をし、尾張に移り住みたい者には替地を用意すると言われ、また当主が討ち死にした家の者などを尾張へ連れて戻ることにしたそうだ。
武田家を最早落ち目と見たのか、尾張の替地が魅力的であったのか、移り住むことを希望するものが結構居ったことに、儂は思わず苦笑いしたわ。
甲斐に居ってこそ有力国人であるが、尾張に移れば最早有力でも何でもなく、ただの国人領主でしか無いのだ。
それが解っているのかと。だが、これが織田殿のやり方なのだろう。
武田の力が弱まった今、甲斐に有力国人を多く残しておけば、織田殿が引き揚げた後に反乱が起きるやも知れぬからな。
有力国人が去った後の地には尾張から与力が入り、それに甲斐の在地武士を代官にして付けて管理するそうだ。
また、今川へも今回の出兵の顛末を知らせたのか、今川からも与力が入る事になった。
織田殿は信濃でも、信濃守護の小笠原殿の下に信濃国衆皆で信濃静謐に協力する事を約束させた。その見返りが尾張から美濃、信濃、越後へと続く立派な街道の整備だそうだ。
そして、その街道は近々この甲斐に至るまでも整備されると聞く。
つまり、良しにつけ悪しきにつけ、何かあれば直ぐに尾張から軍勢がやってくるという事だ…。
織田殿は手伝いの軍勢を先に返して甲斐そして信濃を平定し纏め上げると、尾張の軍勢を順次進発させ、最後に自分も尾張へと進発したのだった。
織田殿に同道して甲斐からの移住者、そして武田の家臣であった真田殿と郎党、隠居した村上殿と供の者らも加わり、大所帯で尾張へと向かったのだった。
その道中、まだ仮ではあるらしいが、既に信濃の小笠原殿の支城の一つの村井城までかなり立派な街道が整備されていることに儂は驚いた。
その整備された中山道を進み、美濃へと至り、そして尾張に辿り着いた。
尾張に来て儂は甲斐との余りの違いに驚いた。
平野が果てしなく続き、村々は発展して暮らしぶりは明らかに良さそうだ。
そして主要道は全て石畳の道に整備され、その道を牛ではなく馬に引かせた馬車と呼ばれる乗り物が行き来しているのだ。
聞けばその街道は駿河まで続いているという。
我らは一先ず古渡に屋敷を与えられ、そこで暫くの間暮らすことになるようだ。
甲斐から来た国人らは替地をこれから与えられ移り住んでいくことになるが、口々にやはり来てよかったと言っておった。
あの様な整備された街道や暮らしぶりの良さそうな領民らを見ればそう思うのも致し方ないのかも知れぬ…。
儂は尾張で恐らく三年程暮らすことになるだろう。
太郎は十三で元服させる事になった故、信廉が尾張に来れば儂は甲斐へと戻ることが出来る。
それまでしっかりと学ばねばな…。
信繁は尾張へと連行されてしまいました。
他にも甘言に騙されて尾張に付いてきた甲斐国人らがそれなりに…。
彼らの運命や如何に。