閑話六十七 馬場信春 甲斐への帰還
馬場信春視点で晴信のその後を描きます。
天文十七年十月 馬場信春
遠江での戦は鉄砲なる新たな兵器を敵方が巧みに使ったことにより、数倍の兵を持つはずの武田の軍勢は遠江勢を攻めあぐねた挙句、事もあろうに御屋形様がその鉄砲で撃たれてしまうという最悪の事態で幕引きとなった。
思えば遠江に軍勢を進めた時、天野氏が領する犬居の地が城や城下町どころか周りの村落までもがもぬけの殻で、其処には家畜はおろか米粒一つも残っておらなんだ時点で罠を疑うべきであった。
そして、鎧袖一触で落とす筈であった次の二俣城で敵勢の烈しい鉄砲の射撃に攻めあぐね、少なからぬ手負い討ち死にを出したときに、思い切って引き揚げておくべきだった。
だが、御屋形様が仰る通り、手ぶらで帰っては大勢の甲斐の民が飢えてしまう。
我らは進むしかなかったのだ。
そして次の目標である勾坂城へと軍を進めたのだが、結局そこに至るまでの全ての村落はもぬけの殻で米粒一つ残されてはおらず、明らかに糧の手を絶って来ておるのがわかった。
それでも勾坂の地で勝っておれば、兵糧が尽きる事も無かったのだ。
ところが勾坂城の前の地に築かれた、遠江の国人共が籠る一見一揉みすれば簡単に落ちそうに見えた、さほど高くもない土塁を連ねただけの陣地が曲者であった。
敵方の鉄砲対策に用意した竹束が仇となり、簡単な柵を連ねただけの防壁とも呼べぬ代物の前に攻めあぐね、鉄砲や弩による攻撃の前にあたら損害を重ねた挙句、御屋形様が鉄砲に撃たれてしまい、我らは軍を引いた。
二俣の地に抑えとして残して置いた信濃国人衆と合流すると、我らは信濃へ向けて軍勢を急がせた。
出陣した時は甲斐信濃衆合わせて一万五千の兵であったが、討ち死に手負いで軍勢を減らし、今まともに戦える兵は既に半数を切っておった…。
犬居の地へと通じる街道が山間に差し掛かろうというところで小休止をとった。
兵糧は既に尽き、兵らは空腹の上疲弊しきっておった。
ここで信繁様が儂に話しかけてきた。
「民部殿、どうもこの先には軍勢が待ち受けておる様だ。
物見に出た者が誰も戻らぬ」
「なんと…。
このままではまともに戦えませぬぞ」
「そうであろうな。
民部殿、少数であれば山道を抜けて直接甲斐へと帰れよう。
兄上の容態が芳しくないのも心配じゃ。
我らはこのまま進み、甲斐の武士の意地を見せようと思う。
武衛殿の軍は敗残の兵には危害を加えぬと聞く。
一当てした後にこの首を差し出せば、他の将兵らは助命してくれよう」
「信繁様、それはなりませぬぞ。
首を差し出すならばこの儂が差し出しましょう。
信繁様は御屋形様を連れてどうか…」
信繁様は寂しげに微笑まれる。
「民部殿、此度の戦は我らが故なく攻めた戦、誰かが責任を取らねば収まらぬ。
それは武田一門衆の兄上か儂のどちらかでしか務まらぬ。
ならば儂がこの首を差し出すのが筋であろう」
「信繁様…」
その時、意識が混濁気味の晴信様がふと目を覚まされた。
「…ここはどこだ…」
「ここは遠江北部、犬居への街道の入り口に御座る」
「…そうか、儂らは破れたのか…」
「はっ…、心苦しけれど、我らの負けに御座る…」
「…そうか、負けたか…」
「兄上、一刻も早くお身体を直し武田の軍勢を立て直してくだされ。
兄上さえ健在ならば、武田は何度でも蘇りまする…」
「信繁…」
「おさらばにござる。
兄上の弟に生まれ、それがしは幸せにござりました。
さあ、民部殿。早く行かれよ。
急がねば間に合わぬやもしれぬ」
「…信繁、何を言っておるのだ。信繁!
うっ、ごほっごほっ」
「御屋形様、お身体に触りまする。
信繁様…、この民部、命を懸けて御屋形様を甲斐までお連れ申す。
しからばごめん」
「頼んだぞ民部殿。
兄上を支えてくれ」
「承知仕った」
儂は郎党を引き連れると矢盾の上に寝かされた御屋形様を担ぎあげ、この辺りの山道を良く知っておる者に先導させて甲斐へと急いだ。
御屋形様はまだ息をしておられるが、意識が戻らぬ。
空腹の上疲労困憊での山道はさすがにきつかったが、郎党力を合わせて御屋形様を運び、何とか甲斐までたどり着いたのだった。
今頃は信繁様率いる甲斐の軍勢は勝負を決していよう…。
信繁様の事を思い出し、自然と溢れる涙が止まらなんだ。
それでも進まねばならぬ。
あと少し、あと少しと郎党らを鼓舞しながら、遂に甲府を一望できる処迄戻ることが出来た。
儂は見慣れた甲府の町を一望したが、直ぐに異変に気付いた。いや、愕然とした。
甲府の町を数万にも見える大軍が陣を張り囲んでおったのだ。
これほどの大軍、儂は生を受けてこの方見たことが無い。
目を疑うとはこの事であった。
郎党らもこの光景を見て最早体力気力も尽き、力なくへたり込んでしまった。
甲府を囲んでおった軍勢の旗印は、斯波武衛家の足利二両引き、そして織田木瓜に美濃斉藤の二頭立波、他にも多くの信濃衆の物がはためいておる…。
その時、御屋形様が目を覚まされた。
「…ここはどの辺りだ…。
信繁はどうなった…」
「ここは山道を抜けたところにある甲府を一望できる高台に御座る…。
信繁様は…」
「そうか、戻って来たのか…。
頼む、甲府の町を、甲斐の地を一目見せてくれぬか…」
「御屋形様…」
儂は心が張り裂けそうな気分だった。
しかし、お見せしないわけにはいかない。
「ささ、どうぞ」
御屋形様を見えやすい位置に移動させると、身体を起こして差し上げる。
「すまぬ…。
…あれは…、あれほどの大軍が甲府を囲んでおるのか…。
あの旗印は二両引き…、そうかそういう事か…。
ふふ…、ふははは」
御屋形様は力なく笑われる。
「儂はどうやらまんまとしてやられたようだ。
誰が絵図面を描いたのかは知らぬが、我らの遠江攻めを逆手取られたわ…」
そして暫く目を閉じ、そして見開いた。
「まさか、まさか此度の遠江攻めその物が誘われたのだとしたら…。
儂は、まんまと誰かの掌の上で踊らされておっただけだというのか!
げふっ!げふっ!ごふぅっ!
うう…。
…民部、どうやら儂はここまでの様じゃ」
「御屋形様!
お気を強くお持ちくだされ!」
「…民部…。
ここに至っては、斯波武衛殿の慈悲に縋るしかなかろう…。
よいか…、武田の家名を残すことだけを考え、多くを望むな…。
信廉を支えてやってくれ…。
武田家を…頼んだぞ…」
「お、御屋形様ぁぁ!」
「「御屋形様ぁぁ!!」」
御屋形様は我らに看取られ眠るように息を引き取られた…。
「御屋形様…、この信房、必ずや…」
この上は…、御屋形様に受けた御恩に報いるためにも、武田家を支えねばならぬ。
儂は御屋形様の遺骸を担がせると、山を下りて行った。
そして、我らを待ち構えておった斯波家の軍勢に降伏したのだった。
晴信はここで信玄になることなく退場です。
しかし、勝るとも劣らぬと評価されていた信繁は健在です。