閑話六十六 織田信広 犬居の戦い
信広視点で武田を迎え迎え討ちます。
天文十七年十月 織田信広
犬居の地に布陣して四日目、遠江からの街道を見張らせておった物見から武田軍が来たとの報告があった。
我らは慌ただしく兵を整えると、軍議の通りの陣形を取り武田軍を待ち受けた。
一刻程後、街道沿いに行軍してきた武田勢の姿が見えてくる。
吉より送られてきた遠眼鏡で覗き込むと、武田の軍勢が間近に居る様に見える。
壊れやすいらしいが、重宝しておる逸品だ。
遠眼鏡から見える武田勢は随分と疲弊しておるように見えるが、やはりまともなものを食べておらぬのか?
敵情を見終わると傍にいる半蔵に手渡すと、早速と遠眼鏡を覗き込む。
「随分と疲れておるようにも見えまするな。
それに、よく見れば手負いの者が随分と多いように見受けられまする」
半蔵が見終わると勘助に手渡す。
「馬上の武将に随分と手負いが多くござるな。
雑兵らも手負いが多くござるが、遠江での戦が芳しくなかったように見えまする」
勘助が遠眼鏡を戻してくる。
二人の話したことを踏まえて再び敵勢を見ると、確かに手負いが随分と多い様だ。
しかし、我らが軍勢を認めたのか慌ただしく陣を整えだした。
手負いの中には矢盾に載せられたものも多く見受けられ、武田の兵力は一万五千程と聞いていたが、今実際に戦えるのは一万を大きく割り込むのではないか。
今回の我らの策は、二通りを考えていた。
武田が勝って戻った場合、広く対陣し受け止めて押し包む策。
我らの方が兵力に勝り、特に我が安祥の常備軍で構成した重歩兵はそう簡単に貫くことなど叶わぬはずだ。
難点は具足が重いゆえに攻めの戦では使いにくい。
だが、緩々攻める分には問題ない。
武田が此度の様に負けて戻った場合、敵が陣を整える前に軍を進め押し包む。
いずれにせよここから先には帰さぬ。
皆討ち取るつもりはないが、最後まで手向かいするならそれは致し方が無い。
「進めよ!」
儂は進軍を命じる。
陣太鼓が打ち鳴らされ、音に合わせて前進を始める。
内ほど緩々と、外ほど早く押し包むように陣が進んでいく。
武田勢はまさか直ぐに軍勢が来るとは思わなかったのか、大慌てで陣形を整えようとあがくがもう遅いわ。
「よし、頃合いよ。
放て!」
右往左往しておる武田の軍勢に矢を放つ。
武田からも射返して来るが、たいした数ではない。
重歩兵の隊長が号令して矢盾を連ねて矢を防ぐ。
物の数ではないな。
吉がくれたハンニバルの戦の本に載っていたローマの重歩兵を参考に持ちやすい矢盾を揃えてみたのだ。
鉄砲では恐らく用を成さないであろうが矢であれば十分に防ぐことが出来る。
軍を進めながら幾度か矢を放った処で、良い間合いとなった。
「今ぞ!」
長槍を持った足軽が敵陣に躍り込み槍を叩き込む。
たちまち乱戦となり武田勢は意図せず包まれていき、正に包囲しようかというところで、街道の向こうから井伊の井桁の旗印と武衛様の二両引きの旗印の軍勢が押し寄せてくる。
「遠江よりの援軍ぞ!
協力して武田勢を包み込むのだ!」
「「応!!」」
元々倍以上の兵力の差があるので、如何に武田勢が精強であろうともどうにもならぬ。
何しろ我らはここで暫く休養を取り、飯もしっかりと食って気力に満ちておるからな。
遠江の軍勢が背後から攻めてくるので武田勢は自然と円陣となり、武将らを中心にもはや引くも進むも困難な有様と成り果てる。
既に戦うことが出来ぬ武田勢があちこちでうめき声をあげるか骸をさらしており、全滅は時間の問題であろう。
儂は降伏を呼びかける事にする。
降らねば圧し潰すのみ。
我らの方にも少なからぬ手負いが出ようが致し方あるまい。
近習を一人呼ぶと、言上を書き記した書状を渡し、敵勢の前で読ませる。
「武田の総大将へ言上仕る!
最早勝敗は決したも同然、これ以上の戦は無益故降られよ!
武衛様は無益な殺生は望んでおられぬ!」
暫くすると、武田勢から儂と同じくらいの年の頃の武将が武器を持たず進み出てくる。
「拙者は武田方の総大将である武田信繁。
そちらの陣へ参る故、織田方の大将と話をしたい」
何とも大胆な御仁であるな。
とはいえ、ここで危害を加えれば武衛様の名を汚すことになる。
「此方へお通しせよ」
ほどなく、本陣に信繁殿が来られる。
「それがしがこの軍を率いておる織田信広でござる。
して、如何か」
「拙者の首を差し上げる故、他の者は許して下さらぬか。
我らは戦に敗れ申した。
この上は国に帰ることだけが望みにて…」
「それは聞けませぬな。
それに信繁殿が腹を切ることも認められぬ。
そもそも、武田の総大将は武田晴信殿でござろう。
晴信殿は何処におわすか」
信繁殿の顔色が一瞬変わるのが見えた。
「御屋形様は甲斐に居りまする」
「ほう。これほどの遠征、弟に任せて自分は甲斐に居られると?」
「左様、御屋形様は拙者を信じてくれておりまする故」
「ふむ…。
ならば尚の事、軍勢は帰せませぬな。
なに、心配なされるな。
我らは捕虜を殺したりせぬし、売り飛ばしたりもせぬ。
いずれ国へお返しいたそう」
「なっ…。
我らを如何されるおつもりか」
「何もせぬ。
武具は取り上げるが、身ぐるみはいだりもせぬ。
心配せずとも飢えさしたりもせぬ。
時期が来たら雑兵から順に帰す」
「…。
どうしてもと仰るか」
「如何にも」
実は父信秀より昨日書状が届いたのだ。
信濃は平定したので甲斐に攻め込む、と。
ここで武田勢を足止めしておけば、程なく甲斐も平定されるであろう。
その後であれば、甲斐に戻してやるとも。
晴信殿が何処に居るか気になるが、この中に居ても問題は無いし、甲斐に本当に居たとしても問題は無い。
武田の軍勢が戻らぬとなれば降伏するしかあるまい。
信繁殿が悲壮な表情で項垂れる。
「如何される。
ここで武士の意地を見せて皆討ち取られる事を望むならその通りに致す。
だが、ここに居る武田の者らとて国に家族が居るのだろう」
それを聞き、信繁殿は武田の軍勢の方をちらりと見ると、また項垂れる。
そこへ井伊殿と太田殿が訪れ、少し話があるという。
遠江の話であろうな。
「暫し外す故、よく考えられよ」
そういうと、井伊殿、太田殿と共に天幕の奥へと行く。
「婿殿、息災そうで何よりにござる」
「三郎五郎殿、久しぶりにござる」
「お二方、遠江は勝利されたのでござるな。
まずは祝わせていただきまする」
「はは、この拙者の弓があれば武田勢など物の数ではござらぬ」
「はっはっは、本当でござるぞ。
この御仁が働きすぎたおかげで、我ら遠江の国人らは槍を抱えて見ておるだけでござったわ」
「ほほう、それほどにござるか。
相変わらずにござるな、太田殿は」
「当然にござるぞ」
というと太田殿はニヤリとほほ笑む。
まことこの御仁には敵わぬ。
「それででござる、婿殿。
遠江での戦は、二俣城は武田を寄せ付けず、武田勢は二俣城が簡単に落ちぬとみるや早々と我らが詰めておった勾坂に向かったのでござる。
勾坂で我らは陣地を作り待ち受けておったのでござるが、そこに武田が一万五千ともいう大軍で攻め寄せたが、見事それを撃退したのでござる」
「左様、恐らくは鈴木孫六殿が敵の総大将を撃ったのが引き揚げた一番の理由に御座ろうが、吉姫の考えた陣地はやはり落とすのが困難だったのか、武田勢に相当な討ち死に手負いが出たのも理由に御座ろうな」
「総大将を撃ったのでござるか?」
「拙者も武田方の大将が聞きなれぬ銃声の後倒れ伏したのを見ておりました故、間違いはござらぬ」
「ほう…。
だとすると、今ここにきておる総大将の信繁殿というのは…」
井伊殿が知っていたのかその問いに答える。
「信繁殿は武田晴信殿の弟だと聞いておりますぞ」
「ならば、総大将は別に居るという事か。
その弟に勝る総大将を任されるだけの一門衆…、だれか心当たりござらぬか?」
「存じませぬ。
晴信殿は父上である信虎殿を放逐し跡を継いだと聞きますからな。
弟である信繁殿の他にこれだけの大軍を任せうる一門衆が居るかどうか」
「晴信殿はすでに亡くなられたか、それとも今も包囲の中にいるか、或いは…?」
勘助がそれに答える。
「殿、遠江から信濃、甲斐へは山深い地故移動は難儀しまするが、街道以外の山道もござれば少数であれば甲斐まで抜けることもできましょう」
「その線もあり得るか。
だが、鉄砲で撃たれた傷、そのままにして居れば毒が回って死ぬと聞いたぞ」
無論、吉からな。
「いずれにせよ、後数日もすれば解りましょう」
「うむ。
そうであるな。
では、ともかく信繁殿との話を済ませるか」
儂は再び信繁殿の元へ戻る。
「どうされるか決まりまたかな?」
「何とか帰していただけぬか」
「それは聞けぬとお答えしたはずだ。
それに今、遠江での話を聞いて参った」
それを聞き信繁殿の顔色が明らかに変わる。
「武田の総大将が鉄砲で撃たれたと聞きましたぞ。
そして、武田家で晴信殿が一番信任するのは貴殿だとか。
であれば、目の前で元気におられる信繁殿は偽物か、それとも総大将というのは嘘ではないが遠江では総大将ではなかったかのいずれかでござろう」
「…。
どこまで知っておられる」
「それがしが知っておるのは武田の総大将が鉄砲で撃たれたという事。
それと、鉄砲で撃たれたまま適切に処置せねば毒が回って死ぬ、という事の二つだけでござる」
最後の儂の言葉を聞き、明らかな動揺を見せる。
「な、その毒が回って死ぬというのは誠に御座るか…」
「うむ、鉄砲の弾は鉛で出来ておるのだが、鉛が体に入ると毒だと聞いた。
撃たれて身体の中に弾あるまま処置せず放置すると、何れ死に至るとの事だ」
信繁殿は目を見開き驚きを見せた。
「幸い、我らが軍勢には鉄砲傷の処置ができる金瘡医が居る故、武具を捨て降伏するなら鉄砲で撃たれたものを処置してやれるが。
時間が経ち過ぎれば何れにせよ助かるものも助からぬと言う事になる。
無論、必ず助かる保証はないがな」
それを聞き、信繁殿はまた項垂れる。
そして、ややして顔を上げた。
「…。
わかり申した…。
我ら降伏いたしまする。
手負いの者らの手当を頼みまする…。
先程の約束、しかと守ってくだされ…」
「うむ。
心配致すな。
我ら三河の者は甲斐とも武田とも遺恨はない故な。
約束通りに致す」
「忝なく…」
「信繁殿、今は休み生きて戻られることを考えられよ」
信繁殿は目礼して陣を後にした。
そして、ややして武田勢が武器を捨てその場に座り込んだ。
恐らく、ほとほと疲れ果てていたのだろう。それに碌にものを食べておらぬ様子であるしな。
半蔵を呼ぶと書状を認め、父に届けさせた。
これで、返事が来れば皆帰れるだろう。
その後、我らは武田勢を収容する囲いを作ると、その中に収容して金瘡医に手負いの治療をさせ、炊き出しを行い飯を食わせた。
井伊殿ら遠江勢は遠江に戻っていき、太田殿らは甲斐へと向かった。
三河勢はこのまま暫し武田勢を監視しながら、ここで引き続き待機する。
二日後父から書状が届き、その指示通り迎えに来た信濃の国人らに先に信濃勢を引き渡し、翌日甲斐の雑兵らを開放した。
更に翌日には三河勢も解散し国に戻って行ったが、我ら安祥勢は武田の武士らを護送するため甲斐に向けて出発した。
ここには程なく天野殿らが戻ってこよう。
兵を減らし空腹の上疲弊しきった武田勢は包まれて降伏するハメになりました。
晴信の行方はまだ不明です。