閑話六十一 織田信秀 信濃平定への道
信秀は軍を率いてがら空きの背後を攻めていきます。
天文十七年十月 織田信秀
我らは村井城を進発すると一路甲州街道を進軍し、武田による城攻めですっかり荒廃したまま放置されている諏訪氏の城である高島城のある茶臼山の麓にある城下に至った。
城下の村もまた廃墟と化しており、信濃の国人によれば数年前に武田の乱取りを受け、多くが殺され生き残った村人は皆連れ去られ、それ以来廃墟のままだという。
聞けば、武田に攻められた地域はこうやって廃墟になっている村が幾つもあるそうだ。
武田とはまるで蝗の如きであるな…。
甲州街道で廃墟と化した村を幾つも見ながら更に軍を進めると、途中で調略に応じた信濃の国人である真田幸綱殿の使者が待っていた。
使者が携えてきた書状を読むと、『首尾は上々にて小諸城にてお待ち致す』と書かれてあった。
使者は案内役として小諸城まで同行するとの事。
更に進むと諏訪氏の本拠であった上原城へと到着した。
信濃の有力国人にして諏訪神社の大祝を司る神職の家柄でもある諏訪氏の本拠故に城下の町は人が居るようだが、我らの軍勢の進軍を見て何処かへ身を隠したのか、今は人気がまるでなかった。
真田殿の家臣によれば、上原城には春に討ち死にした武田の重臣板垣信方の弟である室住虎登が留守居として兵五百程で詰めている、との事だ。ふむ、籠城戦になるやも知れぬな。
ここに至るまでに我らが軍勢は、尾張美濃の国人衆に信濃の国人衆が加わり、既に四万を超える大軍勢となっていた。
これほどの大軍での遠征は何より輜重が重要故、後続の輜重が滞らぬ様に我らが通った街道は、普請衆が道を整えながら我らの後を数日遅れで進んできておるので不安はないのだが。
上原城を囲むように陣を張ると、まずは降伏の使者を送った。すると直ぐに城からの使者と共に戻って来た。
使者の話によれば、城の中で内紛があり、留守居の室住殿ら甲斐衆は信濃衆の反乱で既に皆討ち取られた後で、城内の信濃衆は我らの使者の到着を待っていて開城したのであった。
諏訪家は武田に滅ぼされてもう何年も経っており、自害した当主の諏訪頼重殿の娘が武田晴信殿の側室に入って諏訪家を継ぐ子も出来て居るため、武田は諏訪の旧臣らは裏切らぬと慢心しておったのだ、と反乱を起こした諏訪の遺臣は語った。
そして彼らから、甲斐を攻めた時に出来れば我らの姫を救って欲しい、と懇願されたのだ。
儂はその辺りの事情は何も知らぬ事ゆえ、覚えておく、と答える事が精一杯であった。
恐らく、これも真田殿の言う『首尾は上々』の一つなのであろう。
上原城を開城させた我らは城を諏訪の遺臣らに任せると、翌朝一路高遠城へと軍を進めた。
早朝より高遠城目指して杖突峠を越え南下すると昼過ぎには高遠城を囲むことが出来た。
高遠城の北に位置する福与城からは、信濃守護の小笠原長時様の義弟である藤沢頼親殿が軍を率いて駆けつけてくれた。
高遠城主の高遠頼継殿は諏訪氏の庶流らしいが惣領となる事を望んでおった為、武田の諏訪攻めに与して諏訪頼重殿を自害に追い込んだらしいな。
結局は武田は頼継殿を諏訪の惣領にする事は無く、それに怒った頼継殿は自ら惣領になるため今度は武田を攻めたらしいが敗北し、結局武田に臣従したそうだ。
その高遠頼継殿は手勢を動員すると武田に従い此度の遠江攻めへと参陣している為、今高遠城には留守居の保科正俊殿に率いられた僅かな兵しか居らぬという話だ。
定石どおり、まずは降伏の使者を送ることになったが、保科殿と面識があるという藤沢頼親殿が自ら使者に立った。
すると、城には僅かな兵と女子供しか居らず抵抗など詮無き事、と直ぐに開城した。
聞けば、城主の高遠頼継殿は遠江二俣城攻めで先手を任されたがその際に討ち死にし、率いていた一族郎党にも討ち死に手負い多数との知らせがつい先日入り、お方様ら城に残った者らと悲嘆に暮れていた所だった、とのことだ。
高遠城は、一先ず後の仕置までは藤沢頼親殿に任せる事とし、藤沢殿には高遠殿の郎党が戻ってきたら降伏させるように頼み、我らは翌日早朝小諸城へと進発した。
峠越えで輜重を維持することは難儀故、此処に長居は無用よ。
再び杖突峠を越えると中山道を北上し、翌日昼頃には小諸城へ到着した。
軍勢に野営準備を指示すると、早速小諸城にて真田殿と対面する。
「真田源太左衛門幸綱にござる」
「織田備後守信秀である。
この度は我らの誘いによく応じてくれた。
おかげでここ迄随分順調であった。
感謝致す」
「なんの、それがしの力量をまず見て頂きたい一心にござった。
しかし、それがしごとき田舎の国人領主にこれ程の過分なお引き立て。
正直、未だ半信半疑にござる。
どこでそれがしの事をお知りになられたのでござるか」
「尾張から越後まで行商に行き来する出入りの商人から、元信濃の国人海野氏の一族で長野業正殿配下に随分目覚ましい働きをする武士がおる、と聞いたのだ。
その武士はその後また信濃に戻ったと聞いたが、その様な武士であれば是非とも我が家臣に欲しいと思っておったのであるが、その後、武田晴信殿に仕えておると聞いて諦めておったのだ。
そこに此度の武田の遠江攻めよ。
ふと貴殿の事を思い出してな、もう一度調べさせたのだ」
吉に言われたとおりの事を話ししたが、さて…。
余り吉のことやその配下の加藤殿の事は話さぬほうが良いだろう。
「なるほど、左様でござったか…。
その行商人に、それがしは感謝せねばなりませぬな。
この様な良き話、二度とあるとも思えませぬ故、備後守様にお仕えするのは吝かではござりませぬが、我らが故地である小県郡。
今は村上が領しておりまする…。
備後守様は如何されるおつもりで御座るか」
「うむ。
その事であるが、我らは尾張から越後までの商いの道を付けることを目指している。
であるから、信濃の安定は我らの望むところでもある。
遠江を攻められたからとその報復のためだけに軍を出しておるわけではないのだ。
また、信濃の歴史をここにくるまでに色々調べてきたが、信濃をなんとか治め安定させようと尽力して居られた守護家に盾突き、最近でも小県郡を攻め取ったりと信濃を掻き乱しておるのは村上氏であろう。
小県郡を海野氏に返し、信濃守護家に臣従を誓うならばよし、拒むなら攻め滅ぼすまでよ」
「な、そこまでお考えでござるか…」
「村上義清殿は我が主である斯波武衛家とも縁筋である故、できれば手荒なことはしたくない。
しかし、義清殿の様な野心家に背中を見せて甲斐を攻める危険を冒すことは出来ぬ。
いずれにせよ義清殿の様な人物に言う事を聞かせるには、我らの力を見せるのが一番であろう。
勿論使者は立てるが、すぐには応じぬだろう」
「恐らくは…。
義清殿は戦上手で自らも武勇に優れた御仁。
戦わず下るなど納得せぬでしょう。
ですが、どの様に落とされるおつもりですか」
「高梨殿ら信濃北部の国人らに葛尾城を攻めさせ、義清殿が葛尾城へ救援に行っている間に、手薄になった砥石城を攻め落とす。
それと同時に、別働隊に葛尾城へ救援に向かった義清殿の軍勢に横槍を入れさせ、葛尾城を攻めると見せかけた高梨殿らと挟撃するのが良かろう」
真田殿は儂が話した策を聞き目を丸くする。
「なんと大掛かりな。
それが備後守様の戦なのでござるな…。
砥石城攻め、それがしら滋野三家に任せていただけませぬか。
備後守様がそれだけのお膳立てをしてくださるならば、我らだけで落としてみせまする」
真田殿の目の輝きが明らかに変わった。
「よかろう。
では砥石城攻めは真田殿らにお任せしよう。
一刻も早く信濃を平定し、甲斐を攻めねばならぬからな。
もちろん甲斐攻めにも真田殿の働きを大いに期待しておる」
「はっ。
励みまする」
こうして真田殿と信濃平定の話をした後、小笠原長時様に信濃平定の策を説明し、我らは信濃平定に向けて動き出したのだった。
結局、真田幸綱の調略など色々な事が重なり戦らしい戦もなく信濃南部は平定です。