第百四十四話 出陣
武田が動き出し、尾張勢も出陣しました。
『出陣』
天文十七年十月中旬、遂に武田が動き出し、信濃の高遠城を越えました。
父は出陣を決意し、計画通り速やかに陣触れを出し、諸将を清洲城に集めます。
そして、今回は約二万五千の兵が呼びかけに応じて参陣しました。
万が一の時の為に信光叔父が五千の兵で留守居役として勝幡城にて待機。
岩倉、清洲の両守護代も出陣し実質尾張の総力を挙げての出陣です。
出陣に際し清洲の守護館にて武衛様が出陣の儀を執り行うそうです。
「では、吉。行ってくる」
「父上、ご武運をお祈りしております。
先日お話したことはくれぐれもご留意下さい」
「泥かぶれであったな。悪くすると腹が出てきて苦しみ死に至るという…。
なんとも恐ろしい奇病がある国だ。
此度は渡河の為の道具も持参していく。
どうしても必要な時はあのゴワゴワした足袋袴を履くのであったな」
「はい。
先日お話したとおり、水に住む小さな生き物が肌より人の体に入り込み悪さをするのです。
水に触れなければかぶれません。
現地の民に聞いてみれば、どの辺りが特に酷いかわかるでしょう」
「うむ、肝に銘じよう」
そういうと、父はにっこり微笑み手を振ると出陣していきました。
城から出陣する将兵らの表情はやる気に満ちて、見送りの家族らに手を振って旅立ちました。
今度の戦はかなりの遠征です。
皆が無事に戻ることを祈っています。
『鈴木党出陣』
今回の戦は、鉄砲衆の初陣でもあります。
鉄砲は防戦に於いては無類の強さを発揮しますから、武田勢に二俣城を攻める気を失せさせるに十分の働きをするでしょう。
そして、勾坂で武田勢を受け止め、遠江攻めを諦めさせる。
更に勾坂防衛戦には新たな武器を投入しますし、その武器は鉄砲と組み合わされば無類の強さを発揮するでしょう。
「姫様、我らも出陣致しまする」
「はい、鈴木党の働きが此度の戦の鍵をにぎると言っても過言ではありません。
存分の働きを期待しております」
「我らが受けた過分なご恩をお返しする時がやってきたと、我ら鈴木党意気軒昂に御座ります。
必ずや姫様のご期待に添えるよう励みまする」
「皆、必ずや無事に帰って来て下さい。
鈴木党にはまだやって貰わなければならないことが沢山あります」
「ははっ。
皆無事に姫様の元へ戻ってまいる所存」
「ところで、先日お渡しした新しい鉄砲は問題ありませんか?」
「はっ。
使いこなせるかと思いまする。
一挺しかない貴重なる物を拙者に預けてくださり、光栄にござります。
しかし、あの様な鉄砲が多くあれば戦が大きく様変わりしそうにござるな…」
「変わるでしょう。
しかし、あの銃は作るのが難しく、更には弾を作るのが並大抵では出来ません」
「そうにございましたか。
弾一発一発を大事に使いまする。
姫様からお預かりした、樽の硝石の方も無事に火薬にでき申した。
これでこの度の戦は弾薬を気にせず戦が出来まする。
あの樽に入った硝石は随分と綺麗にござりましたな」
「あれは、普通とは違う作り方で作ったのです」
「あの銃に使う弾薬も恐らくそうなのでござりましょうな」
「まあ、そういう事です」
「では、姫様」
「ご武運を」
こうして、鈴木党の人達も出陣していきました。
鉄砲衆、総勢二百名。それにサポート要員が百名。
ほぼ鈴木党総動員です。
津田殿が作らせた六匁筒も持って行きます。
大鉄砲ほどではないですが、矢盾くらいなら簡単に撃ち抜くでしょう。
『牛さん来訪』
将兵らを送り出し一段落と言ったところの古渡に牛さんこと太田殿がやってきました。
「太田殿、出陣準備で忙しいのではありませんか?」
「もう支度はすみ申した、後は馬車に乗るだけでござるぞ」
「流石は太田殿、卒がありませんね」
「当然にござる。
しかし、初夏の頃に弩兵を組織したいからと弩弓を作って欲しいと言われた時には、吉姫の道楽がまた始まったのかと思っておりましたぞ。
まさか、今回の戦の為に作れと言ったのでござるか?」
「確信はなかったですが、遠江でいずれ戦があることは予想していましたよ。
遠江は東西での戦であれば奥に深いですが、北から来られると守らなければならない所が広すぎます。
ならば馬車ですばやく移動して鉄砲と組み合わせて使える武器があれば、そこで長く敵を拘束出来ますから、後詰めの時間を稼げるでしょう」
そう、勾坂防衛戦に投入する新たな武器とは弩弓、そしてそれを装備した弩兵隊です。
「やはりそういうことでござったか。しかし、此度の戦。
斎藤との戦と見せかけて美濃に兵を送り、美濃で美濃勢と合流し、武田の留守に信濃攻めなどとは。
こんな策を考えたのは吉姫にござろう」
「さて、どうでしょうね。
ところで、弩兵の方は大丈夫ですか?」
「ふふ、相変わらず食えぬ御仁よ。
言われたとおり、突貫で弩弓を作り武家の部屋住みを集めて弩兵を仕立てましたぞ。
弩弓は先日の変わり弩弓程の威力は無いが、御貸具足くらいであれば簡単に抜ける威力はござる。
弩弓は弓を使いこなすのに比べれば習得は楽故、弩兵を揃えるのはそれ程困難にはござらなんだ。
弓ほどの頻度では撃てぬが、鉄砲にくらべれば遥かに多くの矢を放つことが出来る。
これを活かして鉄砲隊と組み合わせて使うという吉姫の案、実戦でどうなるか楽しみでござるな」
「そうですね。
ところで、今日はなにか御用があったのではないですか?」
「用なら既に済んだでござる。
聞きたいことは聞けたので、これにて失礼する」
そういうと、また慌ただしく帰っていきました。
聞きたかったことってなんでしょうね…。
こうして、尾張勢は一路美濃を目指して歩みを進めたのです。
遠江へ向かった鉄砲隊、弩兵隊は明日には遠江に到着するでしょう。
そして、弟の信勝もいよいよ初陣を迎えます。
林佐渡守殿を介添え役に、佐久間殿、柴田殿らと那古野の兵を連れて出陣するそうです。
功を焦って失敗などしなければいいですが。
武田戦に万全を期すため、色々と手を尽くしているようです。