第百三十九話 美濃よりの輿入れ
九月に予定されていた帰蝶姫の輿入れです。
『美濃よりの輿入れ』
天文十七年九月、以前より予定されていましたが弟信勝の元へ美濃より帰蝶姫が輿入れしてきました。
ここのところの敗戦続きで疲弊しているとはいえ、今の美濃国主の姫の輿入れですから豪華な花嫁行列だったそうです。
前にお会いした時は自らも騎乗して、武装した侍女の騎馬隊を率いての登場でしたが、今回は普通に輿に乗ってやってきて、美しくお淑やかだったとのこと。
この前の侍女たちも一緒に来たのでしょうか?
ちなみに、この話をしてくれたのは太田殿です。
太田殿は婚儀に参列したわけではないのですが、美濃の姫とはどんな人なのか見てやろうと見物していたそうで、太田殿いわく噂通りの美人だったと言ってました。
確かに美人でしたからね。
ちなみに、信勝も普通にしていたら美形ですから美男美女カップルでしょうか。
私の居た世界の史実よりも半年早い結婚ですね。
佐吉さんから聞いたこの世界の歴史だと、美濃の姫が尾張に来るのではなく私が美濃に嫁いだという話ですが、教科書には嫁いだとしか書いていなかったそうです。
もう一人の私は、どんな人生を歩んだのでしょうね…。
閑話休題、帰蝶姫という知勇に長けた女性を嫁に貰った信勝の新婚生活はどんな感じなのかちょっと気になりますね。
加藤さんに、美濃に行ったついでに濃姫の噂を聞いてきてもらったのですが、あの人は馬を巧みに乗りこなす侍女で構成された騎馬隊を率いて山野を駆け巡ることが出来るほど馬術に優れ、武勇は指南役が褒め称えるほどで生半可な武士ではとても敵わない、という話でした。
しかし、領民たちには分け隔てなく接し気さくに優しい声も掛けたりするそうで、美濃の民には結構慕われているそうです。
でも、美濃の国人らはそんな姫を見てうつけた姫だと陰口を叩いてるとかなんとか。
なら本当にうつけかと言うと、利政殿から「帰蝶が男なれば…」という言葉が度々出るほど頭脳明晰だという話。
流石に、戦には出たこと無いみたいですけど。
なんだか私が居た世界にもそんな感じの人が居ましたよね。
『光秀殿現る』
以前の帰蝶姫との会見の時にお会いした明智光秀殿が、帰蝶姫の輿入れに随行して尾張に来ていたのですが、美濃に帰る前に足を伸ばして私に会いに来てくれました。
相変わらずのイケメンぶりで眼福です。
「吉姫様、久しぶりにござる。
無事、姫様の輿入れの儀を終えまして肩の荷が下り申した」
「十兵衛殿、久しぶりですね。
弟の婚儀、お疲れ様でした。
恙無く終えたようで、私も胸をなでおろしております」
「近くまで参っていたので、ご挨拶に立ち寄らせて頂いたのでござるが、熱田からこの古渡周辺まで、様子がかなり変わってござるな」
「ええ、そうでしょう」
「以前、熱田に参った時に古渡の辺りも見る機会があったのでござるが、その頃とは見違えてござる」
「船が多く行き来するようになって、人と財も更に大きく動くようになりましたから、大きくなった分、街も大きくなりました」
「我が美濃にも大きな街はありまするが、これ程の街はありませぬ」
「先の戦で尾張が勝ちを収め武衛様が尾遠参三国を領し、今川とも和議ばかりか盟迄結び、東海道が安定したお陰で、商いがかなり増えたのが大きいのでしょう」
「此度の我らが姫君の輿入れで斉藤家も正式に織田家と盟を結ぶことになりまするが、商いの道は美濃まで来るのでござろうか」
「今は伊勢の大湊から駿河まで海運で繋がっていますが、街道の整備も同時に進めていますから、濃尾の盟の成立でその道は美濃まで繋がる事になり、これまでとは比較にならない規模で人と財が動くようになるでしょう」
「美濃の街も熱田のように活気が出るならば素晴らしいことでござるな」
「その為に、大垣をお返ししたのです。
大垣から関ヶ原を抜ければ近江の今浜の街、そこから南に下れば京の都へと、ご存知の通り大垣は陸路畿内に向かう為の要衝、そして大垣より東に向かえば稲葉山の城下町井之口です。
美濃には広い盆地が広がっているのですから、内政をしっかりやれば本来は豊かな国なのですよ」
正式に盟を結んだこともあり、後にしこりを残さないために大垣を返還することにしたのです。
実は和議と輿入れが決まった段階で大垣の返還を決めていたようで、事あるごとに返還を求められた末に返すよりは、先にこちらから返す方がより恩を売れるだろうという計算なのです。
それに美濃守護であった土岐頼芸様も、既に尾張に定住して美濃には戻るつもりが無いようで、これ以上美濃に介入する気も無いようです。
私の話を聞き、光秀殿が目を輝かせます。
「吉姫に言われてみれば、たしかにその通りでござるな。
どうも拙者も戦ありきで物事を考えていたようです。
道を整備するなど戦を考えれば首を絞めるようなものですが、戦抜きで考えれば道を整備せねばそれは人を拒むが如しでござるな」
「そうですよ。
美濃が攻められる事があったとします。
盟があるからと尾張に救援を求めに使者を出したとして、道が整備されて無ければ使者は勿論尾張からの後詰も到着に時間を要するでしょう。
敵の進軍を阻むのと同じ様に、味方すら阻んでしまうのですから」
光秀殿は膝を打ちます。
「まさに、まさに姫様がおっしゃる通りにござりまするな。
言われてみれば当たり前の事ですが、言われねばその視点はありませなんだ。
今の話は美濃に戻りましたら、我が主君にも話しまする」
「はい。折角、尾張に姫様が嫁いできて縁ができたのですから、末永く良い関係でいられることを祈っておりますよ」
「まことに。拙者もそう願ってござる。
今の話しは勿論新九郎様にもお話いたしまする。
実は、今回参ったのは拙者もまた吉姫様とお話したかったのもありまするが、新九郎様からも様子をうかがってきてほしいと頼まれていたのでござりまするよ」
なんと、そうだったのですね。
新九郎様は元気にしておられるのでしょうか。
史実だと斉藤義龍は三十五歳の若さで亡くなったと言われてますが、この時代でもその運命を変えることは難しいのでしょうか。
未来の医療知識のある人でも現れればまた話は違うのかも知れませんが、転生者とそう出会うものでもありませんから。
「そうでしたか。
新九郎様はお元気でいらっしゃいますか?」
「ええ、壮健で居られます。
最近では戦続きで疲弊した美濃をどう立て直すかに頭を悩ましておいでです」
「そうなのですか。
美濃ほど恵まれた土地ならば、戦が無ければ自然と豊かになるとは思いますよ」
「やはり、戦がないのが一番にござるな。
そういえば、弟君の信勝様は此度ご結婚なされたのでござるが、姫様にはまだ輿入れの話はござりませぬので?
あ、いや、不躾でござった。
深い意味があるわけではなく、先頃三河安祥の兄君様がご結婚なさったとお聞きしておりまするし、備後守様が慶事が続いて喜ばしいことだと仰られていたので、もしや姫君にも、と思っただけにござりまするから」
うっかりの質問なのか、どうなのかはわかりませんが。
別に同じことを答えるだけですね。
「まだ輿入れの話は父からは出ていませんよ。
話は幾つも頂いていると聞いてはいますが…」
「そうでござりましたか。
吉姫様程の方になられると、簡単には決められぬのでしょう」
とはいえ、まだまだ大丈夫ですが行き遅れは流石に困るのです…。
「そういえば、新九郎様はご結婚されたのですか?」
私も、つい聞いてみたくなったのですね。
実は私の知る私の世界の史実だと、十四歳で新九郎様の跡を継ぐことになる斉藤龍興が今年産まれてるはずなのです。でも、そんな話は全く耳に入ってこないので確めたくなりました。
私の知る私の世界の史実では、私が知る限り斉藤義龍の子は龍興唯一人だけ。
つまり利政殿にとっても初孫になるので、もし今生でも産まれていれば、父が必ずお祝いかなにかするでしょうから何か聞こえてくるはずです。
しかし、何も聞こえてこないのです。
「新九郎様はまだご結婚なさっておりませぬ。
実は先ごろも近江の国人浅井亮政様のご息女との婚儀の話が来ていたのですが、利政様は、悪い話ではないが折角帰蝶様が織田家に嫁ぎ縁が出来るのだから、織田家の姫を新九郎様が娶れば更に盟は強固になる。
新九郎様が浅井の姫を娶りたいなら話を進めるが、気が乗らぬなら断っても構わない、と仰られたのです。
それで新九郎様は、浅井家との婚儀を断ったのでござります」
「織田家の姫というと私ですか?」
すると光秀殿は驚いた表情を浮かべます。
「い、いえ。
勿論、吉姫様も織田家の姫ですが、吉姫様で無くとも良いのです。
備後守様のご兄弟や親類筋にも新九郎様と釣り合う姫君が何人か居られますし。
吉姫様が新九郎様に輿入れされたなら、それは素晴らしい事にござりまするが、そのような事を当家から言い出せるはずもござりませぬ」
「な、何故でしょう」
光秀殿は目を剥いて驚きます。
「吉姫様は備後守様から話は幾つも来ているとお聞きになったのでござりましょう。
我が斉藤が戦に勝ち、備後守様からの和議であれば話は違いまするが、残念ながら我が斉藤は備後守様相手に負け続け、これ以上負けては家がもたぬ故備後守様に和議を申し入れたのでござる…。
我が姫君は人質の意味もあるのでござりますよ…。
では、吉姫様はどうでござろう。
今や知恵者として隣国にまで知られるお方。
そして、織田弾正忠家と言えば、当主たる備後守様は戦をすれば負け知らず、その領国でも内政で卓越した手腕を揮って大いに発展させ、飛ぶ鳥を落とす勢いにござる。
多くの国人が備後守様と縁を結びたいと思っておりましょう。
そして、知恵者たる姫君を家に招きたいと思っておる筈。
そんな中我が斉藤家が、如何に今実質的な美濃国主とはいえ、下剋上の負い目もある中他家を差し置いて吉姫様を迎えたいなどと、言える訳がないではござりませぬか…」
はあ…、言われてみればたしかにそう。
やはり父上が言われる通り、婿を迎えるのが一番良いのかも知れません。
でも今生でも父上が長生き出来ず、史実通り若くして亡くなってしまったなら、信勝は私が邪魔になるでしょう。
流石の私もそのくらいはわかります…。
だから、私はどこかに望まれて嫁いでいくべきなのです。
「…なかなか難しいですね…」
光秀殿は苦笑いします。
「おっと、吉姫様。
長居してしまい申し訳ござらぬ。
拙者はそろそろ暇いたしまする。
いずれまた」
「はい、またお会いしましょう」
こうして光秀殿は美濃に帰っていきました。
私の輿入れの問題は、幾ら私が考えたところでどうなるものでもなく、器用の仁たる父がうまく相手を決めてくれるでしょう。そう考えていたほうが気が楽です。
吉姫は弟の婚儀に参加していないのであっさりでした。