第百三十八話 竹千代君、三河に帰る
九月、約束通り三河から広忠殿がやってきました
『竹千代君の帰郷』
天文十七年九月、於大さんが広忠殿の元へ再度の輿入れの為に水野の家に戻りました。
そして再び岡崎へと輿入れしたのですが、今回は広忠殿と於大さんの再婚ですので華やかな輿入れの儀はせず、両家の挨拶と宴程度で簡素に済ませたそうです。
これで水野家と松平家が再び縁で結ばれました。
そして今日、広忠殿が約束通り竹千代君を迎えに来ました。
私も竹千代君を熱田まで見送りに行きます。
わずかな期間ですが、ずっと一緒だった於大さんが一旦水野の家に戻ってから竹千代君は少々塞ぎ気味で、お父上が迎えに来られて三河でまた家族一緒に暮らせるというのに、まだ浮かぬ表情です。
仕方が無いので努めて笑顔で声を掛けます。
「竹千代君、やっと三河に帰れますね」
チラリと私の方に視線を向けますが、
「うむ……」
返事をするとまた顔を伏せてしまいます。そんな様子をみて広忠殿が竹千代君を注意します。
「これ竹千代、姫に失礼であろうが」
注意されてハッと表情を変えると広忠殿の方をみてから私の方に向き直ります。
「吉姫、これまで世話になっだ……。
ううっ……」
きちんと挨拶しようとしますが途中で涙声になってまた俯いてしまいます。
広忠殿はそんな竹千代君に困った表情を浮かべます。
私は腰をかがめると竹千代君の両手を握り、ジッとその顔を見つめます。
「竹千代君、あなたは私の教え子の中でも特に優れた資質を持つ子です。
短い間でしたがあなたに手習いを教えられた事を私は誇りに思います。
ここで学んだことを活かし、お父上の名を汚さぬ立派な松平の男におなりなさい」
竹千代君は私の言葉を聞いてそれまで伏せがちだった顔を上げます。
「ぎ、ぎじひめ……。
う、うん。りっぱなまつだいらのおとこになるよ……。
……。
で、でもひめとわかれるのはいやじゃー」
あらあら、随分好かれてしまったものです。
普段は君子然としていても、まだ七歳ですからね……。
広忠殿は大慌てで竹千代君を止めようと近寄りますが、私は手で大丈夫だと合図します。
「竹千代君、私もあなたとお別れするのはさみしいですが、何も今生の別れというわけではないのですよ。
私は尾張に居るのですから、いつかまた会うこともあるでしょう。
現にお父上はまたここに居るでしょう?
次会うとき、竹千代君が立派に成長していることを楽しみにしています」
「……やくそくだぞ。
やくそくだからな……」
「はい。約束です」
私は竹千代君に嘘をついてしまいました。
いつか私もどこかへ輿入れする身。
また竹千代君と会えるとは限らないのです。
それに、私達が学校の先生の事などいつまでも覚えていないように、竹千代君も私の事などいつか忘れてしまうでしょう。
これが今生の別れになるかも知れませんが、将来嫁ぐ妹を宜しくお願いします。
私は心の中で竹千代君とお別れをしました。
竹千代君が漸く落ち着くと、広忠殿のお供に伴われて行きました。
「吉姫、申し訳ござらん。
まさか竹千代がこれ程取り乱すなどとは……」
「国人の嫡子といえどまだ幼い子なのです。
親元から突然見知らぬ土地に連れて来られても、竹千代君は気丈に振る舞っていました。
きっとお父上が迎えに来てくれて、気持ちが抑えられなくなったのでしよう。
これからは親子水入らずですね」
「うむ。
これも吉姫のお陰。我が松平の家は姫と弾正忠家に返しきれぬ恩が出来た」
「恩だなんて。
於大さんに吉が宜しくと言っていたとお伝え下さい」
「承った。
では」
こうして竹千代君は広忠殿と共に三河に戻っていきました。
この世界の歴史では竹千代君は徳川家康とは別の人生を歩みそうですね。
こうして竹千代君が帰って行きました。
三河から今川に送られるはずだった人質達9名、それぞれが別の人生を歩むことになりました。