第百三十四話 遠眼鏡
前に頼んでいた望遠鏡の続きです。
『遠眼鏡』
天文十七年八月、梓さんが望遠鏡を持ってきてくれました。しかも三本もです。
平成の世に有るようなシンプルで軽い物ではなく、海賊映画に出てきそうな伸縮式の物で、サイズは手に収まりますがズシリと重い代物です。
恐らく真鍮で作られたボディは工作精度が良いのかスルリと伸び縮みし職人の技を感じさせる出来栄えになっています。
試しに障子を開けて外を見てみると、確かに遠くの景色が大きく拡大されて中々の物です。
「素晴らしい出来栄えですね。
まさかこれほどのものが仕上がるとは思いませんでした」
「ええ、うちの工房の職人がいい仕事をしてくれました。
ただ、今の段階では研磨段階での芯取りが出来る程度で、なりは金属製でしっかりしてそうに見えますが、実のところ子供のおもちゃと変わらない代物です」
「こ、子供のおもちゃですか…。
でも、それは仕方がないでしょう。
十分遠くが見えますし、実用には十分だと思います」
「はい。
姫様なれば扱い方を理解されて居るとは思いますが、このレンズは特に傷が付きやすく、当たり前ですが落とせば簡単に割れます。
取扱いには十分気をつけないと、直ぐにダメになるでしょう」
「わかりました。
実際に使う人にはその様に伝えておきます。
これは数を作ることは可能なのですか?」
「全くの一点物と言うわけではないですが、職人の人数も限られておりますし、恐らく頑張っても月に五本作れれば良いほうでしょう。
ただ、職人には他に頼みたい仕事もありますし、これの制作にずっと手を取られるというのは正直ちょっと…」
うーん、まあそうなんでしょうね。
工房の職人さん達は、梓さんの子飼いみたいなものですし。
「では一先ずこの三本を頂いておきます。
でも、出来れば月一本でも構いませんのでもう少しだけ作って下さい。
これが有ると無いとでは、戦の時の有利さに天と地ほどの差がありますから」
梓さんは少し考える表情を浮かべるとややして答えます。
「承りました。
月に一本位ならばご用意致します。
少しずつ工房の職人を育てて居ますから、いずれもう少しお役に立てるようになるかとは思うのですが…」
「それは良い話を聞きました。
良い職人が育ってくれるといいですね」
梓さんは薄く微笑むと「では、失礼致します」
そう言って帰っていきました。
「千代女さん、面白いものを見せて上げましょう」
千代女さんがイソイソと現れます。
「面白いものって何でしょうか」
私は望遠鏡を一つ取り出すと庭を見えるようにします。
「ここに来て、この筒を覗いてみて下さい」
「万華鏡ですか?」
そう言って身構えます。そういえば以前こっそり作って千代女さんに覗かせて、驚かせてあげた万華鏡に見えなくもないですね。
千代女さんが恐る恐る望遠鏡を覗き込むと、その表情は驚きに変わります。
驚きのあまり大きな声を上げそうになる千代女さんの口元に手をやって見せて、声を上げないように注意を促します。
それを察した千代女さんが小声で驚きの声を上げます。
「ひ、姫様。これって…」
「これは遠眼鏡という、遠くの物を近くに有るように見ることが出来る絡繰です。
唐国では以前から使われている物なのですが、この度古渡で試しに作らせてみたのです」
「へえ、唐国で。
流石、あの国はやはり進んでいますね。
この遠眼鏡があれば物見が随分と楽になります」
「ええ、そうでしょう。
唐国は日本とは比較にならぬほど広いですから、お互いがこの遠眼鏡を使って敵情を探りながら戦をしているのですよ」
千代女さんが遠くを見るような表情を浮かべます。
「そうですかあ。
話には聞いたことが有るのですが、見渡す限り地平線とかどんな風景なのでしょう。
そんな国ではこの様なものが必要でしょうね」
「ええ、そういう事です。
これから、この遠眼鏡を家中でも特に必要とする人から順に渡していきますが、当分は家中の秘ですから、千代女さんも誰であれ遠眼鏡の事を話してはいけませんし、誰か遠眼鏡について話している人が居たら直ぐに教えて下さい」
千代女さんは目を丸くすると返事をします。
「勿論です姫様。
決して誰にも話しませんし、誰かが話しをしていたらご報告します。
ちなみに、どなたにお渡しになられるのですか?
あ、差し支えなければですが」
「まず父上、他にはあなたも知っているこれを必要とする人です」
「備後守様ですか。
後の方も私の知っている方ということですね。わかりました」
「これはとても作るのが難しく、扱い方も難しくて少しでも誤ればすぐ壊れてしまうものですから、当分はあまり目にするものではないと思います。
しかし、いずれありふれたものになる時が来るかも知れません。
その時には戦の無い世の中になっているといいですね」
「…そうですね。
戦のない世の中。私には想像もできませんがきっと素晴らしいと思います」
「ええ、勿論そうです」
寧ろ戦乱が続く世の中の方が異常なのですから。
望遠鏡は、父上と加藤殿、鈴木殿にまず渡しました。
牛さんにもまた戦になる前に渡してあげたいですね。
ちなみに望遠鏡を渡した三人共に、覗いて見て大いに驚き、壊れやすいと聞くと布で包むと丁寧に仕舞い込んでいました。
父上はこれで次の戦が有利に展開できようと喜び、加藤殿には更に仕事が捗りますると感謝され、鈴木殿は津田殿同席で渡したのですが、こういう物が欲しいと思っていましたとの事。
やはり、飛び遠具には光学機器が有ると無いとでは随分違いますよね。
これで、少しずつ織田家には望遠鏡が広まっていくことになります。