第百二十七話 透明で硬い物
梓さん再登場です。
『ガラス』
天文十七年七月、古渡の新工房のガラス窯でガラス製品が作られるようになったので、サンプルを梓さんが持ってきてくれました。
梓さんが屋敷に来るのは初めてですね。
「いらっしゃい。
ここが私の部屋です」
私の部屋に通された梓さんは私の部屋をぐるりと眺めます。
「想像していた以上に普通の部屋ですね…」
どんな部屋を想像していたのでしょうね。
「ええ、普通の部屋です」
「備後守様のご息女の部屋だというから、もっとこう豪華なのかと…」
そういえばこの時代の豪華な部屋ってどんな部屋でしょう。
「そ、そうですか?
我が家は質実剛健がモットーという事で一つ…」
それを聞き梓さんがクスっと小さく笑います。
少しだけウケたみたいですね。
「まあ、そうですね。
備後守様のご息女の部屋がそんなに奇抜な訳もなく。
これは失礼いたしました」
そういうと深々と頭を下げます。
「いえいえ。
まあ、そういう訳なので…。
普通の部屋です。
でも折角来たのですから、後から私が作った模型を見せて差し上げましょう」
梓さんの目が少しだけキラッと光ります。
「模型…ですか。
佐吉さんが姫様の模型を褒めていました」
ほう、佐吉さんに褒めてもらえるとは。
「それは嬉しいですね。実益を兼ねた趣味みたいなものです。
さて、ガラス工房が動き出したのですよね」
「はい、一から作り直しだったので苦労するかと思ったのですが、遠江から持って来れた物も有り、意外と時間は掛かりませんでした。
船は重い物も早く運べるので便利で助かってます」
「そうですね。
陸路だと中々大変ですが船だと便利だと思います」
とはいえ、今生ではまだ私は近場を行き来する船にしか乗ったことが無いのですが…。
「こちらになります」
そういうと、梓さんは包みを解きます。
中には木箱が入っていて、それを開けると藁半紙で包んだ物が入っていました。
そして丁寧に藁半紙を外していくと、出てきましたガラスのコップです。
それを私に手渡してくれます。
久しぶりに触るガラスのコップは透明でとても綺麗でした。
「とても綺麗ですね」
「ええ、中々の出来だと思います」
「これは熱湯とか大丈夫なのですか?」
「ええ、勿論大丈夫です。
しかし、すぐに冷たい水などを入れると割れますのでご注意下さい。
あと、良くご存知だとは思いますが、ガラスは割れやすいので扱いは慎重にお願いします」
「わかりました。
有難うございます。大事に使わせてもらいますね」
「はい。
それと、姫様にだけ差し上げるのでは不味いでしょうから、近い内にセットでお持ち致しますので、もう暫しお待ちを」
さすがはお姉さん、配慮が行き届いてますね。
「はい、父も喜ぶと思います。
そういえば、これほど見事なコップが出来るということは、レンズなんかも出来るんですか?」
そういうと、梓さんの口元がニイッと釣り上がります。
そして、懐から上質の布で包んだものを取り出します。
それを開いてみせると、中から出てきたのは既視感溢れる球面を持つ物体。
そう、レンズです…。
「こちらに来てガラス工房を立ち上げることになったその日に佐吉さんが、姫様が必ず欲しがるはずだ、とレンズを作ることを提案したのですよ。
以前、虫眼鏡を作らせたことが有りましたから、こちらでも早速作らせてみました」
そういうと、私に差し出してきます。
落とさないように恐る恐る受け取ると、指紋を付けないように縁を持って持ち上げて覗いてみます。
透き通ったレンズ越しに見える像は前世で覗いたあの風景です。
手元の物を覗いてみると大きく拡大されます。
「確かに、よく出来たレンズですね」
丁寧に包み直すと梓さんに返します。
「はい、いい出来だと思います。
試供品にお持ちしたのですが、こちらはよろしいのですか?」
「ええ、レンズは使い方を誤ると危険な品ですし、知らぬ者が不用意に触ると駄目になってしまいますから、家人の多いこの屋敷には置いておけません」
梓さんはそれを聞くとハッとして頷きます。
「確かに、言われてみればそうですね。
では、こちらは持ち帰らせて頂きます」
そういうと、また大事に懐に戻します。
「これが出来ると言うことは…」
「望遠鏡ですか?」
言おうとしたことを当てられて驚きます。
「どうしてわかったのですか?」
「それも佐吉さんが話をしていましたよ。
まあ、このレンズだけあっても虫眼鏡くらいにしか使えませんからね」
「虫眼鏡は虫眼鏡で立派な使いみちが有るとは思いますけどね。
彫金師とか細かい作業をする人が喜ぶでしょう」
「ええ、私の工房の職人たちには職人用に作ったルーペをそれぞれ持たせてあります。
望遠鏡は今作らせているので近い内にお持ちできるでしょう」
「有難うございます。
そういえば、父がご実家から石油の樽が届いたと言ってました。
酒樽に入って届いたので、最初見た時は酒が届いたのかと思ったそうですよ」
「はは。瓶だと輸送中に割れる危険性がありますからね。
手に入りやすい酒樽を使うように言っておいたのです」
「そうでしたか。
まだ、沢山も広くも使わないでしょうが、色々試せればと思います」
「はい。
お役に立てば良いのですが」
「屹度役に立ちますよ。
では、模型を見てみますか?」
「はい。是非」
梓さんに先ごろ完成したカティサークの模型を出してきて見せます。
すると大きな帆船模型を見て目を丸くします。
「なんともこれは…。
凄いですね。
模型というからどんなものかと思っていましたが、これ本物そっくりじゃないですか」
そうでしょう、何しろ自信作ですからね。
褒められてちょっと鼻が高いのです。
「作るのにちょっと時間が掛かりましたけど、やっと完成しました」
「でしょうね。これは時間がかかると思います。
でもこれって、このまま大きくして作ったら実物が出来るのではないですか?
素人目に見ても本物そっくりに見えますもの」
「そうですね。実はこの船は何度か作ったことが有るのですが、この模型は特に本物に近い構造で作りました」
「これを見ると、今尾張と駿河を繋いでる備後守様の船を、姫様が設計したというのが本当だとよくわかりました。
良いものを見せてもらいました。有難うございます」
「いえいえ、喜んで貰ったみたいで何よりです」
「では、そろそろ私はこの辺で御暇したいと思います」
「はい、今日は有難うございました」
「こちらこそ。
では失礼致します」
そういうと、梓さんは帰っていったのでした。
梓さんが帰ると、いそいそと千代女さんが出てきます。
「姫様、何もお構いせずに本当に良かったのですか?」
実は来客があると聞いて千代女さんがお茶の用意をしようとしたのですが、途中で入ってこられると不味いものがあると困るので、お茶は断ったのです。
結果として大したことは無かったのですがレンズはまだ見せないほうが良いでしょう。
「ええ、急いでらした様ですから」
「そうですね。話が終わったらすぐ帰られましたね」
「でしょう」
「はい、ところでガラスというものを私にも見せて頂けませんか」
コップは見せても問題ないでしょう。
箱を開けてコップを出して机の上に置いてみせます。
ガラスを初めてみた千代女さんが驚きます。
「これがガラスですか…」
近くで食い入るように見つめます。
そして、ひとしきり見つめた後で溜息を吐きます。
「これは…、綺麗ですね。
この世のものとも思えないほど透き通ってます。
形は湯呑の様にも見えますが」
「これは湯呑ですよ。
でも、水やあまり熱くないものを飲むのに向いているかも知れませんね」
「そうなのですか…。
確かに、この様な薄さでは熱い物を入れると熱くて持つのが大変そうです」
「うふふ。
そうですね。
まあ、ガラスの湯呑はまだこの一つしかありませんから、暫くは使わずに大事に置いておきましょう」
「はい、わかりました。
ところで、レンズって何ですか?」
やはり興味を持ちましたか。
「そのうち教えて差し上げますよ。
今は未だだめです」
それを聞くと千代女さんがガッカリした表情を浮かべます。
「屹度ですよ」
「ええ、屹度。
それより、そろそろおやつにしましょう。
頂き物のお菓子があったでしょう」
それを聞き千代女さんの表情がパッと明るくなります。
「はいっ。
では、早速準備しますね」
そういうと部屋をイソイソと出ていきました。
しかし、梓さん流石ですね。
佐吉さんも結構なものだと思ってましたが、梓さんは更に上を行く感じです。
望遠鏡、楽しみですね。
早速ガラスが出てきました。
梓さんの工房に関しては基本的に詳しい製作工程などは書かない方針です。