閑話五十二 織田信広 婚儀
織田家と井伊家の婚姻です。
天文十七年七月 織田信広
当初四月に予定されていた井伊の祐姫との婚儀が義元公の尾張訪問などが重なり、繰り延べした結果七月にやっと執り行えることになった。
ここまで伸びた理由は主に父上の都合によるところであり、まさか義元公がこんなに早く尾張を訪れるとは想定外で、それで予定が崩れたと言っても差し支えないだろう。
結局それ以降の父の予定も既に決まっていたから、その後に改めて婚儀の日取りを決めることになったのだ。
父からの手紙では、義元公の尾張訪問は其れなりに得る所があったとのことだ。
随分待たしてしまった井伊の姫はすっかり安祥にも慣れ、婚儀は未だであるが一足早く新婚気分を味わっているようなものだな。
そう言えば、元々近いという事もあり岡崎の広忠殿と会う機会も増えたが、広忠殿も先の妻と再婚すると話していた。
先の戦の後より始まった古道の再建やら街道整備の大普請により、苦しかったらしい岡崎の状況も格段に良くなり、多くの民が戻ってきたと聞いた。
流石に安祥に根付いてしまった者らは最早戻らぬそうではあるが…。
何れにせよ、戦の心配がないというのは人の心を安んじるということがよく分かる。
とはいえ、半蔵からの報告では甲斐の武田が信濃に度々攻め入り、今年も二月に信濃の上田原で村上氏との間で大きな合戦があったが武田勢が敗れたとの事で、今度は信濃勢に動きがあるらしい。
何れにせよ多くは伝聞であり詳細は分からぬが、遠江へ武田が攻め入らぬ保証は無いから油断は出来ない。
閑話休題。この度の婚儀には祐姫の父直盛殿ら井伊家一行が、遠江に古くから根を張る井伊谷一万石の国人らしい行列を率いて安祥に到着し、父信秀も尾張より井伊家への結納の品を運ぶ一行を率いて到着した。
そして、安祥城の評定の間で改めて両家の顔合わせとあいなった。
この場は新郎新婦は顔を出さず、それぞれ別の屋敷で婚儀の支度をしつつ待機した。
それぞれの当主の言上と共に、結納の品を交わし暫しの宴となり両家の関係を固め、翌日より婚礼の儀が始まる。
翌朝、迎え役が新婦と一族がいる屋敷へと向かい、新郎たる儂は本宅で到着を待つ。
「信広、いよいよ婚儀であるな。
信広が儂の長男であるから当然ではあるが、儂が新郎の父として婚儀に立ち会うのは此度が初めて。
ようやっとこの日を迎えられたわ」
父信秀がしみじみと話しかけてくる。
「はい。それがしもやっと自分の家族を持つことが出来まする。
この上は、父上の名に恥じぬよう一家の主として精進する覚悟にて」
「うむ、よう言うた。
この九月には信勝も美濃より妻を迎え入れる。
我が家にとっては慶事が続き喜ばしいことではある」
「帰蝶姫でござるな」
「うむ。一度会ってみたが、まこと利発そうな姫であった。
噂に違わず、男なれば一廉の武将にもなったろう」
「それほどの姫なれば、信勝も覚悟を決めねばなりませぬな…」
「左様…。
それはそうと、井伊の姫はどうだ。
一緒に暮らしているわけではないが、それなりに会ってはいるのだろう」
「細やかな気遣いの出来る良き姫にござる。
かと言って優しげなばかりでなく芯の強さも併せ持つ。
良き縁に感謝しきりにござる」
「はっはっは。それは良かったな。
武家なれば意に沿わぬ相手と添わねばならぬ事もある。
信広はそこは恵まれたようであるな」
「果報者にござる」
そんな話を昼ごろまで父や参列者としていると新婦の乗った輿と一族が到着する。
婚儀の場に侍女に伴われて入ってきた白無垢の祐姫は美しく、表情は分からぬが白粉を塗り紅をさしている口元が覗いた。
その口元はギュッと結ばれ、緊張している様子が見て取れた。
新郎新婦が上座に並び、それぞれの一族が向かい合って一同に座する。
そして、三々九度の固めの酒坏を交わすとその後は宴席となり、宴席の後新婦の一族が引き上げる。新婦の一族はここ迄で明朝には遠江へと戻るのだ。
宴席も終わり夜も更けて、いよいよ床入れの儀となった。
これで儂も男子として一人前と思うと感慨深ものがある。
余人交えること無く祐と二人だけだ。
床の上で、儂に祐が床入りの挨拶をする。
「三郎五郎様、不束者にございますが、幾久しくお願い申し上げます」
「こちらこそ、粗忽者故至らぬところもあるだろうがそなたの事、屹度大事に致す」
すると、どういう事か不意に祐の瞳から涙から溢れる。
儂にとっては良き縁談だが、祐にとってはそうではなかったのか…。
もしや儂は父が話した望まぬ相手であったのか…。
「その頬を伝うは涙。
これから夫婦なれば隠し立ては無用。
その涙の理由を儂に話してはくれぬか」
儂は余りの出来事に胸が張り裂けそうだ。
安祥に来て二ヶ月余り、儂に見せた笑顔は無理に作った笑顔だったのかと…。
しかし、儂のそんな想像をよそに祐は首を振る。
「三郎五郎様、実は私には許嫁が居りました」
「許嫁…」
「私は一族の従兄弟と許嫁の約束を交わしておりました。
幼き日より共に同じ里で育った幼馴染にございます」
そんな話を儂にする祐の真意が読めずただ頷いた。
「今から四年前の天文十三年、従兄弟の父である叔父の直満は同じく叔父の直義と共に誅殺されたのでございます。
そして許嫁も死んだと聞かされました」
「なんと…」
義元公は苛烈なこともしたと言うが、どういう理由でそのような事を…。
「何故その様なことになったのだ」
「私は存じません…。父ならば何か知っているかも知れませんが、話してはくれませんでした…」
「そ、そうか…」
これは井伊家の内訌に義元公が介入したのか…。いずれにせよ勝手な想像はせぬに限るな…。
祐が話を続ける。
「私は許嫁を供養するため寺に入るつもりでした。
ですが、備後守様にお味方することにした父の命でこちらに参ったのです。
輿入れの話は聞かされていましたが、人質に行くのだろうと思っておりました」
大方そんな事だろうと、儂は思わずため息をついてしまう。
「それは、私の思い違いでした。
父は私にこれ以上無い相手を見つけてくれたのです。
この度の輿入れ、父直盛や曾祖父直平は無論のこと、一族皆が喜んでおります。
そして私もあの義元公を大軍同士の大戦で打ち破った英雄の元に嫁げるのです。
武家の娘としてこれ以上の幸せがあるでしょうか」
そこまで言われてはむず痒く感じる。
「ですが、私の許嫁は非業の死を遂げたのです。
私だけが幸せになって良いのだろうかと、そう考えたら涙が溢れ出たのです…」
心根の優しい娘だ…。
儂は改めて祐を愛おしく思い抱きしめた。
「残された者は死した者らの為にも幸せにならねばならぬ。
そなたの許嫁もそなたが寺で尼僧として生涯を終える事など望んではおるまい」
「三郎五郎様…」
「祐…」
その日、儂は祐と一つになり家族を得た。
実は亀之丞こと直親は生きているのですが、この時期の井伊谷の一族は知りません。
勿論、祐も。
この世界では直盛の姫は織田信広の正室として生きていくことになります。
将来テレビドラマの主人公にはならないかも知れませんね。
本作では、義元による直満誅殺は直平の代に義元の家督争いの時に味方した義理を果たすため、傍流の直満が直盛と取って代わろうとしていた内註を誅殺することで事前に阻止したという説を取っています。
この世界では直平は勿論直盛も健在で桶狭間はもう起きませんから、家臣団は健在で井伊家は弱体化していません。
これで信広の次男を井伊家の嫡男として迎えることが出来れば安泰と言うことになります。