第百二十五話 領地訪問 養鶏
田植えの時に約束していた領地の訪問です。
『領地視察』
天文十七年六月、色々あった六月ももう終わり、明日からは七月になります。
今日は領地の乙名さんから綿花の種まきが終わったと知らせがあったので、視察に行くことにしました。
今回は私の領地を見てみたいという要望があったので佐吉さん夫妻が同行する事になり、そしていつものお供の方々に藤三郎殿が新たに加わって同行します。
腕の立つ警護の武士がまた三人に戻ったので、他の護衛はぞろぞろと引き連れて行かなくてもいいと思うのですが、今回も古渡の城詰めの兵や小者らを併せて総勢二十名くらいで向かうことになりました。
村に到着するといつもの様に乙名さんが出迎えてくれます。
「姫様、よくおいで下さいました」
「はい。
乙名さんも変わり無いようでなによりです。
早速ですが、綿花の畑を見せて下さい」
「はい、こちらへどうぞ」
乙名さんと共に綿花の畑に向かいます。
案内された先に以前の十倍程は有るような本格的な広い綿花の畑がありました。
以前はススキが一面に広がっていた草原でしたが、そこを開墾してお試しに作った綿花畑が大拡張されていました。
「ずいぶん広くなりましたね。
見事な畑です」
「有難うございます。
姫様に頂いた農具がまた活躍してくれました。
これほどの広さの草原を切り開いたなら、以前までは畑にするまで長い期間が掛かったと思いますが、姫様に頂いた農具のお蔭で驚くほどの短期間で作り上げることが出来ました」
「それほど役に立ちましたか。
以前、田植えに来たときには既に準備をしていたのですか?」
「はい。備後様からも綿花畑を広げるようにとお達しがありましたので、四月頃から開拓を進め畑を整備し先ごろ準備が整ったのでございます」
「そうでしたか。
綿花は他の村でも広範囲に作ると父が話していましたから、今年はこの村に限らず色んな村で綿花の畑が作られているでしょう。
早く皆が布団で眠れるようになるといいですね」
「布団…でございますか。
噂には聞きますが、それがあれば冬も寒さに震えずに眠ることが出来るのでございますね」
「ええ、前回は試しに栽培するためでしたから少しだけの収穫でしたが、今回のこの作付の広さだと前回の経験もありかなり多くの木綿が採れるでしょう。
いずれ村の皆の分の布団が作れると思います」
乙名さんはそれを聞き微笑みます。
「それは楽しみでございます」
私と乙名さんが話していると、藤三郎殿がふと目に入りました。
広い綿花畑を前にして眺めながら、腕を組んで何か考えている様子です。
「藤三郎殿、先程から畑をずっと眺めていますね。
良い出来栄えの畑でしょう」
私が声を掛けると、藤三郎殿が驚いて振り向きます。
「姫様…。
仰る通り見事な畑にござりまするな。
この畑は、一人の農家が持つには広すぎると思いまするが…」
「この綿花畑は、村の人が総出で世話をしてくれている村の畑なのですよ。
ここで出来た綿花は全量を弾正忠家で買い取っています」
藤三郎殿が驚きます。
「全量買い取りでござるか。
村の畑というのは分かりましたが、税や賦役では御座らぬのですな」
「税は村で上げた収益全体から頂きます。
銭はまわせばまわすほど増えていくものですから、より多くの銭が世の中にまわるように綿花を全量買い取って村人の銭の収入を増やしているのですよ」
「なるほど、そういうものにござるか…」
「はい」
梓さんはというとあまり綿花畑には興味が無いようで、私達とは別行動で佐吉さんの実家に行っています。と言っても、佐吉さんのお父上が一人で鍛冶をしているだけなのですが。
「乙名さん、そろそろ戻りましょうか。
以前来た時に話をしていた新しいことの話をしましょう」
それを聞き乙名さんは表情が明るくなります。
「承知しました。
では、村の方に戻りましょう」
また村の方に戻ってきます。
「して、姫様新しいこととはどの様な事でございましょう」
「他の村でも少しずつ飼い始めてると聞きますが、鶏をこの村でも飼い始めたいと思います」
「鶏にございますか」
「鶏です。
勿論、世話をする手間は増えますが、鶏が産む卵は滋養強壮にとても良く皆が元気になるでしょう。特に子供の頃より食べていれば今より元気に育ちます。
更には鶏の糞は良い肥料になります。
人の糞尿を用いた下肥は実は健康にはあまり良くないのですよ」
乙名さんは鶏の話をしていた時は笑顔で聞いていましたが下肥の話を聞くと目を丸くしました。
「まことでございますか」
「はい、人の糞には身体を悪くする虫の卵など病の元が含まれます。
それで育った作物を食べると虫は人の身体の中に入り悪さをします」
乙名さんはゾッとした表情を浮かべます。
「そ、そんな事が…」
この時代、一般的には慢性的な栄養不足なのも有るでしょうが、庶民で長生きできる人は少ないです。だからこそ、こういう話を聞けば色んな事が頭をよぎるでしょう。
この乙名さんにしてもこの村では年配ですが恐らく四十代位の筈。
「はい。だからこそ、鶏糞で作った肥が使えるようになれば、下肥を使うのはもう止めたほうが良いでしょう。
鶏を其れなりの数飼えば肥料に使う糞に困ることはありませんから。
美味しい卵を食べて元気になって一石二鳥でしょう?」
それを聞くと乙名さんの顔が明るくなります。
「まこと、仰る通りで。
卵料理は食べたことがありますが、あれがこの村でも食べられるようになるのでございますね」
「そういうことです。
食べきれないほどの卵が採れれば古渡に持ってきてくれれば引き取りましょう」
「はは。
姫様、村人皆で食べたら余ることはないと思いますが、もし余れば勿体無いのでお持ちしましょう。
たしか卵はあまり日持ちしないのでございましたね」
「そうですね。
少しでも殻にヒビが入ったり、割れたりしたものはダメですが、綺麗なものなら七日くらいであれば大丈夫かもしれません。
しかし、古くなったものはよく火を通して食べたほうが良いでしょう。
半熟で食べるのが一番美味しいですが、それは新しい卵に限ったほうが安全です。
古い卵に当たると、腹痛と下痢で悶絶する羽目になります。
悪くすると死にますから古くなったものは捨てて下さい。
ただし、卵の殻は色々と使いみちがあるので中の薄膜を剥がしたら置いておくと良いでしょう」
「なんと、殻も使えるのですか」
「ええ、畑に細かく砕いて撒けば骨粉の代わりになり、砕かずに埋めれば土を作物に優しくしてくれます。
他にも、汚れ物と一緒に煮込めば綺麗に汚れが落ちます」
「ほおー。
そんな使いみちがあったのですな」
「というわけで、鶏を飼うことは良いでしょう」
「はい。是非、この村でも鶏を飼いたいと思います」
私は小者を呼ぶと持ってきてもらった葛籠から絵図面などを取り出します。
「こちらの方が、鶏を飼うための建物です。
この建物はここの大工の他、古渡からも大工を寄越しますので、彼らと協力して建てて下さい。
資材は古渡で纏めて作りますから、それも用意ができたら取りに来て下さい。
運ぶための台車は用意しましょう」
「承りました。
何から何まで恐縮にございます」
「そして、この本にこの鶏を飼う建物での飼い方。
それに、鶏糞から肥料にするための手順、肥料の使い方が書いてあります。
ただし、肥料はどの配合が一番いいのか、またどの程度が適量かはわかりません。
それは村で色々試して最もいい形を見つけて下さい。
あまりに多くの肥料を施すと作物が芽を出さなかったり枯れたりします」
「わかりました。
そこは、私達も長らく畑仕事をしておりますからわかります。
きっと、良き成果を上げてみせます」
「はい。
では、今日もこの後は宴としましょうか」
それを聞くと乙名さんは破顔します。
「はい。村のものも喜びます。
すぐに準備をさせます」
いつもの様に乙名さんが村の人を集めると宴の準備を始めます。
この村に来ると、やはり魚でしょう。
古渡から来た兵や小者達もテキパキと動き出し宴の準備を初めます。
持ってきた振る舞い品を村人に渡し、村人から魚や野菜などを貰います。
調理の上手な小者が包丁をふるい、他の者は石を並べてかまどを作り火を起こす準備をしています。
日頃からやっているせいか皆手際がよく流れ作業のようです。
私達はというと、用意された床几に座って出来上がるのを待ちます。
「そういえば、千代女さんは梓さんとは初めてでしたね」
「はい。佐吉さんの奥方だと聞きました」
「では紹介しましょう」
気がつけば宴の場に来ていた梓さんを千代女さんやお供の人達に紹介します。
「遠江の国人川田平兵衛殿の娘で名を梓さんと言います」
梓さんがお辞儀をすると挨拶をします。
「遠江よりこの度輿入れしてまいりました梓にございます。
よろしくお願い申し上げます」
「私は姫様の侍女を務めております近江国甲賀郡の国人望月家の娘、千代女でございます。
以後お見知りおき下さいませ」
千代女さんがいつもの千代女さんじゃないみたいにちゃんと挨拶します。
続いて男性陣も挨拶します。
「拙者は同じく甲賀郡の滝川彦左衛門にござります。
姫様の警護役をしておりまする。
佐吉殿とは知らぬ仲ではござらぬので、困ったことがあれば相談くだされ」
「お気遣い感謝致します」
「某は美濃国出身の一色小次郎でござる。
同じく姫様の警護役にござるが、まだまだ新参者にござる。
よろしくお見知り置きくだされ」
「拙者は駿河の今川家家臣朝比奈藤三郎と申す者。
我が主の命により、連絡役兼警護役として姫様の側仕えをさせて頂いている新参者にござる。
見知り置きくだされ」
今川家と聞いて一瞬梓さんの顔色が変わりましたがすぐに平静に戻りました。
やはり、今川と聞くと元の主家だし意識しないという方が難しい筈。
「皆様、ご丁寧に有難うございます。
こちらこそ、お見知り置き下さいませ」
そういうと梓姫はにこやかに挨拶する。
美人の笑顔に男性陣は少しドギマギします。
梓さんが佐吉さんの傍に戻ると、千代女さんが話しかけてきます。
「梓さんって美しく大人びてみえられる方ですが、姫様に雰囲気がどことなく似ていますね?」
んん?どういう意味かな。
「そ、そうかしら?
梓さんは大人びて見えるのではなくて、あの方は今年で二十歳なのですよ」
千代女さんが驚きます。
「え…。
佐吉さんに輿入れと聞いたからてっきり私達と同じ歳の頃なのかと思ってました」
「あの方は、佐吉さんより歳上なのです」
「そ、そうなのですか…。
あっ、そろそろ宴の準備ができたようですよ」
千代女さんは一瞬目が泳ぐと直ぐに話題を変えて鍋の方に向かいました。
「さて、私達も行きますか」
お供の男衆に声を掛けると鍋の方に向かいます。
その後はいつものお魚に舌鼓。
やはり、とれたては新鮮で美味しいですね。
宴も良い感じの所で梓さんが小声で話しかけてきます。
「姫様は普段からこんな美味しいものを食べていたのですね…。
私はこんな新鮮な海の魚なんて、この世に来て初めて食べますよ…」
「はは…。
これからは梓さんも美味しいものが色々食べられますよ。きっと」
そういうと梓さんはニッと微笑む。
「やっぱり来てよかった。ふふっ」
梓さんの食欲を満たしながら、宴は更に深まって行くのでした。
吉姫の設計した鶏舎は現代風の平飼い鶏舎で、鶏糞に天日があたり、また風がうまく取り込めるような屋根と窓の構造になっていて、鶏が健康的に元気に過ごせるような施設になっています。
鶏糞もコンポストで籾殻などと混ぜて発酵させるのですが、コンポストがくじ引きのガラガラみたいな構造でハンドルで定期的にぐるぐる回せば撹拌されるような仕組みになっています。