閑話五十一 川田梓 そして尾張へ
梓姫視点の前回からの続きです。
天文十七年六月 川田梓
高田さんと色々話し合った翌朝、我が家は朝食は家族全員で取る習慣なのでいつもの様に朝食に向かうと、いつもとは違う部屋で朝食を取るらしく別の部屋に案内された。
部屋に入ると、尾張からの客人と朝食を一緒にすると父が告げた。
今日どのタイミングで話そうかと昨晩頭を悩まして居たのだがこれは好都合。
家族が揃った後、屋敷の者が客人を呼びに行くと、程なくして客人が部屋に揃った。
高田さんは私を見ると目礼してくれたので、笑顔で返しておいた。
やはり、印象は大事だとおもう。
朝食が始まり、父上や弟を中心に高田さん達と雑談を交えながら食事が進む。
この日の朝食は普段なら考えられないほどの豪華な朝食で、備後守様の土産がかなりすごかったと聞いたけど、それの返礼の意味もあるのかも。
会話の内容は他愛の無い世間話やら、尾張の様子とか。
高田さんは年齢が離れすぎているのか、もっぱら聞きに回るだけで余り自分からは話をしない、その代り隣りに座った供の武士の人が間をもたせるというか、見た感じ年齢が父と近く話し上手で世情に詳しい様子だった。
この人が居なければ、父や弟ばかりが話し、笑い、高田さんがただ頷くという寒いところを見せられるところだった。
勿論、昨日の夜の感じだと寡黙というわけでも無さそうなので、単に話についていけないだけだろう。ついこの前まで鍛冶屋だったという話だし。
朝食も一段落というところで、高田さんが改まって帰郷を告げる。
「平兵衛殿、この度は世話になり忝なく。
我らは見聞の用も済み、一先ず尾張へ戻ります」
父はそれを聞き安堵の表情を浮かべる。
尾張からの来客を父は歓迎しないわけではなかったのだけど、知る限りこれまで身分のある客人など来たこともないのに、初めての身分のある方の客人が、父が臣従したばかりの備後守様の家臣ともなると、緊張しないほうがおかしい。
予想通りというか、用事が済んだわけだから当然帰るわけだ。
そして高田さんとは吉姫様に会わせてくれると口約束は交わしたけど、そんなのは口約束に過ぎない。
「ほう、それはようござりました。
草深き田舎故、たいしたもてなしも出来ず恐縮にござる。
過分な土産の品、備後守様に平兵衛が感謝しきりであったとお伝えくだされ」
高田さんは頷く。
「しかと承りました」
そして、高田さんは私の方を向いて別れを告げようとする。
これでこのまま返してしまったら私に与えられたワンチャンスは終了。
となってしまうかも知れない。
口約束したからと、再び会えるとは限らないのがこの時代。
そして、もし再びまたここに来たとして、私がここに居るとは限らないのだから。
チャンスは一度、今しかない。
高田さんの別れの言葉を上書きするように声を上げる。
「あ「父上。わたくし、この方の元に嫁ぎたく思います」」
その場の一同が声を上げると目を点にして私に注目する。
「「「え?」」」
これはもう一度言う必要があるな。
「ですから、わたくしこの方の元に嫁ぎたく思います」
高田さんの表情が驚きのまま固まる。
父上が驚き声を上げる。
「あ、梓。そのような事を、軽々に。それに儂の一存で決められるわけ無いだろう。
高田殿は備後守様の家臣なのだぞ?」
しかし、私は父が何故か高田さんに熱い視線を注いでいることに気がついた。
私はそれを見て思わず吹きそうになるが我慢する。
高田さんがしどろもどろになりながら何とか言葉を重ねる。
「そうです。その様な大事なこと、私の一存では決められません」
私は昨晩考えた風に話を持っていく。
これは賭けだが、十分行けそうだ、と私は考えたのだ。
「ならば、備後守様がお許しになれば良いのでしょう?」
父はそれを聞き困ったような表情を浮かべつつも高田さんへの視線が更に熱くなる。
どうやら父も、行き遅れてしまった娘を高田さんに押し付けたいらしい。私がそれを望んでいるのだから、父が懸念する所は問題にならなくなると踏んだのかどうかはわからないが…。
私の読みでは、相良油田は父の領内だから、油田そのものが備後守様直轄になったとしても恐らく父に管理を任すだろう。じゃなければ領地召し上げと同じだから、それは話に聞く備後守様はしないはず。
ならば、この時代の武家だから婚姻で縁を結んでお互いの安心の担保にするのが一般的なやり方だ。と言う事は、恐らくまだ未婚の弟の元に織田家中の娘が来ることになるんじゃないだろうか。
そうなったら、多分私は目出度く寺行きだ。
だから、私は高田さんの元に嫁に行くのだ。正に「いつなの?今でしょ!」なのだ。
高田さんは急な私の発言に言葉をつまらせ、肯定とも取れる返事をした。
「備後守様がお認めになるならばそうだが…」
後ひと押し。
「では、高田様、備後守様に聞いてみて下さい。
私を迎えていいかどうか」
気持ちが高揚して自然と口元がニヤけてくる。
私ってこういうキャラだっけ、と自分でも思うほどだ。
高田さんはとても困った顔をして脂汗が滲み出した。
「わ、わかりました。
では、今日中には尾張に戻りますから、明日にでも備後守様に聞いてみます」
やはり、こういう返事が帰ってきた。だけど、それではダメ。
「高田様、私も吉姫様に一日も早くお会いしとうございます。
そんな私を置いて尾張にお帰りになられるの?
また何時この地に戻るかもわからないのに、昨日の話は嘘でしたの?」
敢えて昨日の夜の話を匂わせると、傍で成り行きを見ていた父の顔色が一変する。
「あ、梓、昨日の話とはなんだ。聞き捨てならんぞ」
普段は温厚そうに見える父だが怒るとコワイのだ。
とはいえ、私はこの程度で肝を冷やしたりはしないが。
父が本気で怒った時はこんなものじゃない。
しかし、高田さんは父の顔を見て明らかな狼狽が見えた。
そして、慌てて言い繕った。
「わ、わかりました!
では手紙にて聞いてみますので、少し待って下さい」
そう、最初からそういえば良いのに。
私は満面の笑みを浮かべた。
「いえ、父上。昨日の見聞の案内をして差し上げた時の立ち話ですわ」
そう答えると、父の表情は元の温厚な表情に戻る。
そして笑みを浮かべると高田さんに屋敷での逗留を申し出た。
「ああ、あの時の話か。ならばなんの問題もない。
佐吉殿、では備後守様から返事が参るまで今暫く我が屋敷に逗留くだされ」
高田さんは力なく答えた。
「…忝なく…」
そして、その後高田さんは早速手紙を用意すると、供の者に手紙を託して尾張に走らせた。
魂が抜けたようになった高田さんを父が気を利かせて村を案内したりしたが、どうも空返事ばかりの様子。そんな様子に父が大丈夫かと心配していた。
私はと云うと、今はそっとしておいたほうが良いと思い、とにかく答えが出るまでは顔を合わせないようにした。
用事があれば向こうから話しかけてくるだろうし。
そして返事は来た、なんとその翌日の夕餉を終えた頃にだ。
元いた時代ならともかく、この時代尾張まで行くのは結構な旅の筈。
高田さん一行が来た時のように船で行って帰ってきたのだろうけど、以前に比べると随分近くなったものだ。
戻ってきた供の人が持参した手紙を受け取ると、高田さんは部屋に戻って行った。
その夜は手紙の内容が気になって、期待と不安から少々寝付きが悪かった。
しかし、私の読みが外れていなければ、結婚は必ず認められるはずだ。
恐らく、その姫君も高田さんが余計なことを言わなければ許可するはず。
そして高田さんは恐らくそういうことはしないタイプだ。
翌日、朝餉の席で高田さんが昨日の手紙に書かれてあった返答を伝えた。
高田さんは緊張した面持ちで話す。
「備後守様は、此度の婚儀をお許しになると仰っております。
今後、川田の家とは大事な付き合いが続くため、縁が出来るのは寧ろ喜ばしいと。
そう仰っておいでです…」
父はそれを聞き、素直に喜ぶ。
私も予想はしていたとはいえ、これで安心して嫁いでいける。しかも同じ境遇の人のもとに、と考えると先の不安などどこ吹く風で、素直に嬉しかった。
その日、すぐに父は一族郎党や村のものに私の婚儀が決まったとの使いを出し、その日は宴となった。
宴など度々あることではないから、多くの者が集まり祝ってくれた。
尾張に輿入れすれば二度と会えない者も居ると考えると、少々感慨深い。
高田さんはと言えば、覚悟が決まったのかもう魂が抜けたということもなく、婚儀の話を屋敷の者に聞いていた。また高田さんに、祝いに来てくれた私が懇意にしている商人を紹介した。
この商人とは尾張に行っても付き合いは続くだろうからね。
翌日から慌ただしく輿入れの準備が始まりだす。
私の部屋の物は一切残していけないので、全て引き払わねばならないし、これまで付き合ってくれた職人たちとも今後の話をしなければ。
それに、今後油田から採油して精製して尾張まで送るまでの手はずを整えないと。
勿論、屋敷の灯りだって、私が居なくなって屋敷が真っ暗では困るだろう。
冬のストーブも今や欠かせないのだから。
それらを、屋敷の者で特に頭の良い者、器用な者に一つづつ注意事項を説明し引き継いでいく。
扱いを間違えたら一酸化中毒であの世行きなんて話もあるから。
婚儀の準備を慌ただしく進めていると、なんと備後守様から引き出物が届いたのだ。
備後守様は私をずいぶん高く買ってくれるらしい。
そう思えるくらい、父が驚くほどの引き出物の数々だった。
我が家はそれほど豊かでもない草深い土地の小国人だから余計にそう感じたのかも知れないけど。それはもう、十分すぎるを遥かに超えたものだったから。
何しろ、その中には尾張で広まっているという新しい農具までが含まれていたのだから。
そして、引き出物を運んできてくれた備後守様の家臣の方が立会い、加藤様というらしい高田さんと共に来た壮年の武士を代理人に高田さんと正式に婚約した。
父からは、結納の品として具足一揃えと太刀が高田さんに贈られた。
高田さんがそれを使うことがあるのかはわからないが、我が家にとっては精一杯の品なのだと思う。
正式に婚約したことで、尾張でも準備がある高田さんが先に帰ることになり、加藤様が迎え役に残ることになった。
そしてその後、婚儀に参加する川田の家のものは、高田さんが新たに備後守様から頂いた屋敷に入るようにと知らされ、いよいよ出発が近くなった。
この度の婚儀に必要なものは懇意にしている商人がよく動いてくれたお蔭で全て揃い、普通は何ヶ月も準備に掛ける婚儀を短期間で行うスピード婚が実現した。
出発が近くなったある日、これまで私の研究を手伝ってくれていた職人たちを屋敷に集めた。
すると皆、私が居なくなれば、折角習得した技術が活かせなくなってしまうと口々にいうのだ。
確かに、化学薬品など材料は全て私が用意していたからね。私が居なくなれば殆どの事ができなくなる。
折角色々なものが作れるようになったガラス細工の腕を磨いた陶工も、藁半紙を作ってくれていた紙漉き職人も、色んなものを作ってくれていた指物師や野鍛冶なども、不安を口にする。
気にはなっていたけど、そうなのだ。
そして、私も尾張に研究拠点を移しても、この人達が居なくなるとまた全て一からやり直しなのだ。
だから私は高田さんに手紙を届けてもらった。職人たちや手伝って貰って居た人も一緒に連れて行ってもいいのかを確かめるために。
流石に、これは難しいか?と思っていたら、案外あっさりと吉姫様が皆んなに会うのを楽しみにしていると、許可をくれたのだ。
なんというか、この現代人的イージーさは嫌いじゃない。
そして、全員が全員ではないけれど、尾張へ移る事を希望するもの達も当日私に同行することになったのだ。
勿論、油田を手伝ってくれていた人は残ってもらった。
出発の日、長年住んだ家を眺める。
この時代で目を覚ました時の事、その後の様々な出来事が頭をよぎる。
前世で初めて家を出た時は特に感傷に浸ることもなかったが。
やはり、この時代は色々と有りすぎたからか、それとも二度と戻らない可能性もあるからか。
この時代、里帰りは殆どしないそうだが、この先また戻ってくることがあるのだろうか。
そういえば、嫡男である弟は今回は留守番だが、いつか自分も尾張に行ってみたいと言っていたな。
感慨深く眺めていたら、輿が到着した。
さて、出発。
輿なんて乗るのは生まれて初めてだけど、相良湊に向けて婚儀の一行は列をなす。
初めて乗る船は元いた時代から考えればそれほど大きくは感じないが、明らかに周りの船よりひときわ大きく、父はこれほどの大きな船には乗った事が無いと驚いていた。
それでも、流石に一艘に全員は乗り切れないので何艘かに分かれて乗船し、随時津島湊に到着すると言うことになったのだ。
相良湊を出港した船は一路津島へ向かった。
この時代で初めて乗る船は思ったよりは揺れが少なかったが、それでも波のうねりに合わせて船が上げ下げを繰り返す。
海を見ながら、高田さんとあった夜のことを思い出した。
あの時はわざと吉姫様の話だけで終わらせ、私のことは殆ど話をしなかった。
本当ならば前世の身の上話などをすべきだったのかも知れないが、私は前世の自分の話をして思いっきり引かれてしまう事を危惧したのだ。
何しろ女で研究職、しかも仕事にかまけた結果、生涯独身で最期の日すら研究室の片隅で一人朝を迎えたのだ。
自分で言うのもなんだが、かなり変人だったと思う。
趣味らしい趣味もなく強いて言えば実験が趣味で、ほとんど会社に泊まり込んで自宅には余り帰らなかったから生活感の欠片もなかった。
当時は仕事に夢中だったからそんな事考えたこともなかったが、この時代に転生し仕事に追われることもなくなり、自分を顧みる時間は存分に持てた。
落ち着いて考えれば、とても他人に誇れる人生ではなかったなと…。
だからこそ、結婚した後もあまり前世の事を事細かく話すことはやめよう。
なんだか自分が惨めになるだけだから。
とはいえ、研究が好きで実験が楽しいことにはかわりないのだから、精々私の力を役立ててもらうとしよう。
この日のための前世だったと考えればまだ救いもある。
その日の陽も暮れようかという頃、我々の船は津島の湊へ到着した。
途中遠目に見た三河の大浜の湊も大きかったが、この津島の湊もかなり大きい。
流石に未来の港湾設備を見たことがあるから驚くというほどの大きさではないか、船に乗った相良湊よりは確実に何倍も大きい。相良湊でも比較的大きな湊だと商人は言っていたから津島湊は相当な大きさなのだろう。
湊の向こう側には神社があり、津島湊に隣接した川沿いに街が続いているのが見えた。
今日はここに一泊し、明日は再び船で熱田湊へ行き、そこから陸路で古渡に向かう予定だ。
流石に陽も暮れた頃の到着だけに、これから出かけると言うものも居らず、手配された宿で夕食を取ると今日はもう休むという感じになった。
さて、宿で出てきた夕食だが、この世界では見たことが無かった料理が並んだ。
それはおよそ二十年ぶりの卵料理。そして、出汁のしっかり効いたまともな味噌汁。
味噌汁は、以前尾張産だという味噌を使った味噌汁を食べたことがあったのだが、出汁が今ひとつなのか薄味であまり美味しくはなかったのだ。
とにかく、久しぶりに前世で食べたものに近い料理を食べた気がする。
尾張に居ればこういう料理が普通に食べられるのだろうか?
翌日、朝食を取ると船に乗って熱田へ向かった。
朝食もこれまで食べてきたものよりずっと豪華で、やはり普通に卵料理が出た。
懐かしい醤油さしに入った醤油なども有り、卵焼きに掛けるとこれがまたご飯がすすむのだ。
熱田湊に到着すると、古渡から迎えが来ていた。
この熱田湊にも神社があり、脇を流れる川と並行して続く街道沿いに町並みが続き、その向こうに古渡の城があるという。
城というとイメージするのは天守閣だが、そういうのは無いらしい。というか天守閣という言葉が通じなかったぞ…。一般常識じゃないのか?
熱田に手配してくれていた部屋で皆着替え、結婚行列として目的地の古渡に用意されている高田さんの屋敷に向かう。と言っても、田舎の小さな国人の姫と備後守様の家臣とはいえ、士分になったばかりの恐らく下級武士の高田さんとの婚儀だから大勢が列を連ねるというわけでもなく、先頭に加藤様が立ち、その後に川田の家の者と私の乗った輿が続き、最後に長持などを運ぶ高田さんの屋敷の者らが続いた。
暫くして高田さんの屋敷に到着したが、屋敷自体は以前からある建物の様で、其れなりの広さで庭もあった。
ここが高田さんと生活する新居になるらしい。
ここで私は一つ疑問が…。
私達がここで生活をするなら、どこで婚儀を挙げるのだろうか?
高田さんはもう一つ屋敷を持っているのだろうか?
とはいえ私がそれを考えても仕方がない。多分段取り良く進めてくれるのだろう。
翌日、山田様というお方が迎えに来た。と言うのも、その山田様の屋敷を仮親宅とするので、我々は其方に移動するらしい。
そして父や親類達と共に山田様の屋敷に移った。
と言っても、丸ごと全部移動と言うわけではなく、多くの道具や屋敷の者は新居に残り、新郎である高田さんの屋敷を新婦を迎える新居にする準備をするらしい。
なんでも、高田さんはつい先ごろまで長屋暮らしだったとかで、使用人も少ししか居らず、家財も何もまだ揃って無かったそうな。どおりでガランとしてたわけで。
それで、川田の家から持ってきたものや高田さんが用意したものを屋敷に運び込んでお客を迎え入れられるように準備する。そういうことだそうな。
準備が整い、明日が婚儀という日の夜、いよいよというかおいとま請いの式です。
父を上座に、母と、そして親族が集まり、ささやかな宴を催した。
宴は山田様の屋敷の方が用意してくれました。聞けば山田様は古渡の奉行様だそうだ。
親族らは私が備後守様の様な有力者の家臣のもとに嫁ぐことをとても喜んでくれた。
宴もお開きとなった後、父と二人で最後の挨拶をする。
「お父様、今まで二十年間大切に育ててくださり有難うございます。
どうかいつまでもお達者で」
父は頷く。
「うむ。梓も新郎殿と共に達者でな。
我が家では梓の優れた力を活かすことが出来なんだが、備後守様の家中であれば大丈夫であろう。これからは存分にその力が揮えることを祈っておる」
この理解ある父のお蔭で私は今迄自由に生きられたのだから、感謝してもしきれない。
父との挨拶を済ませると、明日に備えて休んだ。
翌日、迎え役の加藤様がやってきた。
この迎え役の人を昼くらいまで待たせることで、娘を大事に育てたんだということを表すらしい。
その間、準備を済ませたりと家を出る時に備える。
この日、私は前世も含めて生まれて初めて白無垢を着た。
父とこの加藤様は馬が合うのか、それとも加藤様が話し上手だからかはわからないが、酒を酌み交わし、雑談で盛り上がる。
そして、昼頃、そろそろ頃合いと父が立ち上がり声を掛ける。
いよいよ新郎宅へ向かうのだ。
助けを借りて用意された馬に腰掛けると、加藤様を先頭に花嫁行列が新居に向けて進み出す。
この度仲人となってくれた山田様夫婦が続き、その後ろに馬を引く小者と新婦である私、そして川田の家のものが続きます。
新郎の家につくと、玄関に近い広い広間で川田の家のものと、高田さんの家のものが向かい合い、まずは挨拶を交わす。
と言っても、高田さんの家の親族は野鍛冶をされているというお父上一人だけだった。
代わりに何人か仕事関係らしい人達が参列していた。
それでも川田の家のものばかりの婚儀になってしまいなんだか気まずい。
しかし、ここで仲人の山田様から驚きの話が出た。父は既に知っていた様だが…。
高田さんは士分に取り立てられただけで、武家の生まれではなく家格が低い。そこで、父の養子となり、尾張川田家として川田佐吉となるのだとか。
そのため、双方の名乗りの後、高田さんのお父上が倅をよろしく頼みますと、頭を深々と下げていました。
高田さんもまさかそんな展開になるとは想像もしてなかった様で、驚きの表情を浮かべていた。
その後は、一先ず夫々の控えの間に戻り、その間に宴の準備を済ませ、改めて戻ってくると婚儀が始まる。
新郎新婦が上座に並び、まずは三々九度の固めの儀。
新婦から酒坏を渡されお酒が注がれる。手順は母からしっかり聞いているが、どことなく他人事の様な現実感の無いような不思議な感覚に襲われる。
お酒が注ぎ終わるのを見て、ゆっくりと口を点ける。二口迄は少しずつ、そして最後は飲み干す。
酒坏を返すと、次は新郎に酒坏が回され同じく三度で飲み干す。
再び酒坏が戻ってきて、お酒が注がれる。
三度目の酒坏を飲みながら、これを飲み干すと私もいよいよ結婚するのかと思うと途端に緊張感が増してきた。
前世でも結婚式には出たことがあるが、勿論参加者で披露宴迄。その先は未体験ゾーンなのだ。
酒坏を飲み干し返すと、固めの儀が宣言されこれで目出度く佐吉さんとは夫婦となった。
私が望んだこととは言え、佐吉さんの気持ちは全く聞いていない。敢えて強引に押し切ったのだが…。
佐吉さんは武家らしく主命で結婚したようなものだからな。
しかし、私は平成の価値観で長年生きてきた。主命だからと割り切れるものじゃない。
それは佐吉さんも同じなのではないのだろうか。
私は急に不安になってきたのだった。だが、覚悟を決めるしか無い。
私の夫となるのが佐吉さん以外では、私は私で居られない気がするのだ。
固めの儀の後はご馳走を前にした宴になる。前世でいう所の披露宴だ。
料理は山田様の手配により古渡の料理人の手によるものらしいが、どれも見事でまるで前世の旅館で出てくる料理のようだった。
川田の家の者も皆その豪華さに驚いていて、口々に備後守様を称える。
私も今生ではこれほどの料理を食べるのは初めてのことだ。
食事が一段落すると、新郎新婦が参列者にお酌をして回ったり、夫々の前で話をしたり。
多くが私の身内だから、私はというと佐吉さんの側の参列者の加藤様や絡繰屋夫妻とか、佐吉さんの仕事関係の参列者の方に挨拶をして回った。
絡繰屋さんは清兵衛という名だそうで、佐吉さんと一緒に仕事をしていると話してくれた。
いずれこの人達と一緒に仕事することになるのかな。
さて、佐吉さんはというと、私の身内に質問攻めにあっていた。
返答に困るのか笑って誤魔化しているが、多分武士が喜びそうな話はできないと思うのだ。
身分の高い家だと婚儀は数日に渡ることも有るそうだが、幸いにして婚儀は一日で終わった。
そして、宴が終わり夜が更けるといよいよ床入り。
まあ何というか、前世もあるから多少の知識はあるが、恥ずかしながら初めてだから。
母から床入れの仕方というのも聞いてきたのだけど、佐吉さんがそういうのは苦手みたいで平成の頃の様にという事になった。
二人で見つめ合い、いざ事に及ぶとなると緊張感と期待感が半端なく身を固くしてしまう。
しかし、結果だけいえば佐吉さんは優しくリードしてくれて、とても上手だったので特になんの問題もなく無事に終えた。
勿論聞きはしないが、佐吉さんは今生でははじめてのはずだけど、前世ではそれなりの経験があるのかも知れないな…。
これでご懐妊となるかはともかく、私は二十歳だから出産となっても多分大丈夫だろう。多分…。
こうして、佐吉さんとの結婚生活が始まったのだけど、聞けばこの屋敷にはまだ使用人が三人しか居ないとかで、川田の家から縁者が使用人に何人か来ることになった。
そして、私は早速と屋敷の一室を洋間として椅子やテーブルなどを並べ、ランプなど持参してきたものを据え付けたのだった。
屋敷はそれなりに大きいが、研究室を屋敷の中に作るのはちょっと怖いので、落ち着いたら離れを作ってもらうことにしよう。
同じ頃、父は備後守様と古渡のお屋敷で会見していた。予想通り備後守様から、相良油田を織田家直轄とすることの言い渡しと、油田の代官を命じられていた。
つまり、織田家の家臣として油田の管理と石油の採掘、尾張への輸送の差配を役目として命じられたのだった。
父はこれまで領民に手伝いを頼んでくれたりと色々私を支援はしてくれたが、実質油田運営にはノータッチだった。
備後守様が代官に任じてくれたのは嬉しいが、どうしたら良いのかわからない、と困り果てて相談に来たので、石油の採掘などのやり方はすべて地元の油田に携わった者達が知っているから、余程の何かが無い限りは父は手配だけすれば良いはずだ、と話すと漸く安心したようだった。
やはり、村を出る前に色々準備をしておいて正解だったようだ。
代官を拝命した父達は、別れを惜しみつつ再び相良へ戻っていった。
そんなことをしていると、佐吉さんのいう所の我が姫君こと吉姫様が我が家に来訪する事になった。
こうして梓姫は佐吉さんの元へ輿入れし、吉姫の来訪を受けるのでした。