閑話五十 高田佐吉 梓姫
佐吉視点の梓姫との夜と、その後の話です。
天文十七年六月 高田佐吉
まさか梓姫に腕を掴まれて部屋に引き込まれるとは想定外で、俺はこの世界に来て一番驚いたんじゃないかと思うほど心臓が跳ねた。
梓姫はそんなことは気にもとめず、引き戸を静かに閉めると俺に椅子を勧める。
椅子!この部屋には椅子があるのだ。そして、その椅子に合う高さのテーブルが有り、ダイニングテーブルのように他にも椅子が置かれていた。
そして、そのダイニングテーブルの中心に、恐ろしく既視感の有るランプ、つまり透明のガラスシェードを持つ照明用のアルコールランプが鎮座している…。
しかも、そのランプは芯の長さを調整する為のダイアルまで付いている。
梓姫は俺を椅子に座らせると、壁際に設えられたカウンターに行き少しするとお茶を淹れて来て俺に勧め、自分も椅子に腰掛けた。
俺はそんな梓姫を見ながら、とにかく気持ちを落ち着かせるようにお茶を啜った。
そのお茶もまた既視感の有るもので、見たことはないがこの時代では一般的らしい抹茶ではなく透明な褐色のお茶だった。
緑茶程の薫りは無く、その味は…柿の葉?
温かいそれを少しずつ飲めば段々と心臓の高鳴りも収まり、気持ちが落ち着いてくる。
そんな俺を見ながら梓姫が俺に詫びてくる。
「高田様、部屋に入るのを見られたくなかったとは云え、強引なことをして申し訳ありませんでした」
やはりそうか、そうだろうな。
そうなんだろうとは思っていた。俺だって誰かに見られるのはまずいと思っていた。
だからこそ加藤殿に頼んだのだ。
俺は首を振ると言葉を返し微笑んで見せる。
「いえ、私の方もあまり余人に見られたくなかったのは事実。
手を引かれたのには驚きましたが、気にはしておりません」
すると、梓姫は安堵した表情を浮かべる。
「そう言ってもらえると、助かります」
この方も話し方が我が姫君のように現代人ぽいな…。
そういえば、このお茶が気になっていた。
「このお茶、これはなんのお茶ですか?」
梓姫は俺の問に一瞬目をパチクリしたが得意げに口角が上がる。
「柿の葉で作ったお茶です」
「ほう」
やはり柿の葉か。
前世の女房が健康に良いから、と良く仕事帰りの俺に淹れてくれていたお茶だ。
長年連れ添って、会社を定年退職してやっとこれからゆっくり二人で老後を楽しめると思っていたのにな。
俺が、老後を楽しむ間もなく人生からおさらばする羽目になるとは。
仕事仕事の人生が祟ったのか、思えば女房には苦労をかけた。
残業に出張、海外の長期出張で家をあけることも幾度となくあったな。
一人残された女房は今も元気で居るのだろうか。幸い前世で勤めていた会社は福利厚生の充実した大手だったから厚生年金の他にも企業年金に個人年金と金に困ることは無いだろうが。
独立して家には居ないが息子も居るしな…。
柿の葉茶を啜りながら前世を思い出していたら、梓姫が話しかけてきて現実に引き戻された。
「…ところで、この部屋は私の部屋なのですが、部屋の中を見てどう思いましたか?」
俺としたことが…。湯呑から目を上げるとまずは梓姫に礼を言う。
「お茶、とても美味しかったです。馳走になりました」
そして、改めてこの部屋をぐるりと見回す。
見れば見るほど元いた時代にそれも子供の頃に引き戻された様な気分になる部屋だ。
俺が前世で子供の頃一般的だった真っ黒な黒板、それに懐かしい藁半紙を閉じて作られたノート、ノートには鉛筆らしい物でAZU NOTEと書かれてあった。
AZU NOTEとはまた。前世でテレビで流れていた映画のCMに似た名前があったな。
鉛筆、消しゴム?、更には分度器に定規、コンパスみたいなものも有る。
他にも子供の頃実験で使ったことの有るアルコールランプ、鼎に網、ビーカー、フラスコ、試験管とまるで理科の実験室だ。
というか、あのお茶はビーカーで淹れたのか。なんだか理科の先生みたいだな。
落ち着いて観察すれば、どことなく薬品っぽいこの時代に似つかわしくない臭いもわずかに香ってくると思えば、奥の棚には薬品らしいガラス瓶が各種並んでいる。
そして、黒板にはおそらく何かの数式が書き殴られていて。
本当にまるで理科室みたいな部屋だ。
幸い中央に流し付きの実験テーブルは無くリビングテーブルが有るだけだが、よく見れば壁にぐるりと設えられているカウンターテーブルの一角に流し台まで付いていた。
なんというか、この部屋は本当に俺が子供の頃の理科室みたいだ。
古渡でまだ作り出せていないもの、より進んだ物がここには有る気がする。
鉛筆や黒板、チョークは有るが、化学薬品の類はまだ殆ど実現できてなかった様な。
油田の視察に来たつもりが…、寧ろこちらの方が本命となる位の出会いだ。
…さて、では我が姫君の時と同じ手で行くとするか。
梓姫も少し違うが昼間似たような手を使ったし、良いだろう。
俺は一度目を閉じ気持ちを落ち着けると英語で話しかけた。
『この部屋だけ、別の時代の部屋の様ですね』
俺の言葉を聞いた梓姫は驚きの表情を浮かべ目を見開く。
この反応は明らかに、かつて英語を聞いた事がある証だ。
話せるかどうかはともかく、もう確実にビンゴというところだろう。
梓姫は気持ちを落ち着かせると、また口角が上がり笑みを浮かべる。
そして口を開いた。
『そう、この部屋の品々はこの時代の日本には存在しない品々でしょう。
…やはり、貴方は私と同じく後の世の記憶を持った人でしたか』
流暢な英語だった、それも我が姫君と同じくネイティブと幾度と無く会話したことが感じられるほどの。
俺は頷いてみせる。
『ええ私は前世で意識を失った後、目を覚ますと子供の身体でこの時代に居ました。
貴女は平成という年号を知っていますか?』
梓姫は頷く。
『私が前世で意識を失った時の年号がその平成でした』
なんと!
『私と同じですか!
ちなみにそれは何年でしたか』
梓姫はよく覚えて無いのか思考を巡らせると答えた。
『多分、平成三十年だったかと…』
俺はそれを聞き更に驚く。
『私が意識を失った三年後ですか…』
つまり、俺より後にあちらの世界を離れたが、俺より二年ほど前の世に転生したと。
そういうことか。
俺の答えに梓姫は驚く。
『同じ時代出身なのですね』
しかし、何という巡り合わせ。こうやって再び同じ時代出身の転生者に巡り会えるとは、何という幸運なのか。
『そのようです。
前世の記憶を持ったまま生まれ変わる人はそれほど多くないと思うのですが、同じ時代の出身の人に出会えるとは。何という幸運。
偶然にしては出来すぎている』
思いがけぬ幸運に俺は思わず自分の顔が綻ぶのがわかった。
梓姫は俺の言葉を聞き、目をパチクリさせる。
『そうですね。
運命のようなものを感じます』
その仕草をみて俺は思わず笑ってしまった。
これは我が姫君のことを話さないと。
『運命ですか…。
はは、そうかも知れません。
実は、私が仕える主の備後守様の姫君も同じく前世の記憶をお持ちなのです。
しかも、元いた時代も同じ頃。
私は我が姫君と出会った時、同じ様に運命を感じました。
そして、いままた貴女に出会えた。
本当に偶然にしては出来すぎている』
俺の話を聞いて梓姫は驚き、そして驚きの余り乾いた笑いが漏れる。
それは驚くだろう。俺だって驚きなのだから。
『ハ、ハハ…』
同じ時代よりの転生者同士、この人になら事情を話してもいいだろう。
『実はこの度の相良油田視察も我が姫君に頼まれての事なのです』
梓姫は俺の言葉を聞いて思考を巡らせる。
そして、真剣表情で聞いてくる。
『その姫君とはどの様なお方なのですか?』
やはり関心を持ったか。当然だな。
『織田備後守様の長女、吉姫様と仰るお方です。
前世では誰でも名前を聞いたことが有るような大手商社の技術営業をやっていたと話して居られました。
営業とは言っても理系の大学出身で営業に対する技術支援や時にはプラント設計まで手がける技術系の仕事をやっていたのだとか。
そればかりか、理系分野だけではなく、農業や政治、軍事関係など広い知識までお持ちで底の見えないお方です。
例えば、私が乗ってきた最近駿河から津島までを定期航行している船を設計されたのも、我が姫君だと聞きました』
俺の話を聞いて梓姫は圧倒された様に見えた。
しかし、すぐに表情を戻すとまた口角が上がる。
『それは、なかなか素晴らしいお方のようですね』
やはり梓姫も我が姫君の素晴らしさがわかるか。
『ええ、そうなのですよ。
我が姫君が手掛けられた様々な事のお蔭で、尾張は大いに豊かになりました。
石高は上がり、様々な産品が作られましたから。
そして、ただの野鍛冶の倅だった私をお抱え鍛冶に拾い上げて下さったばかりか、士分にまで取り立てて頂きました』
梓姫は俺のことをじっと見つめ、思考を巡らせる。
そして表情がパッと変わると口を開いた。
『そんな素晴らしいお方なのですね。
私も同じ境遇の者として是非一度お会いしたいです』
おお、どう説得したものかと考えていたがこれは話が早い。
『ええ、我が姫君もきっと梓殿にお会いになりたいはずです』
それを聞き梓姫は喜びの表情を浮かべ応えると、唐突に話を打ち切る。
『それは楽しみですね。
あっ、楽しい話をしていたらもう夜も更けてしまいましたわ』
もうそんなに時間が立ってしまったのか。
本当にこの時代は時間の感覚がさっぱりわからない。
昼間ならまだ日の高さで漠然とだが判断出来るのだが、夜はもうさっぱりだ。
もう今は暗くなると寝るくらいの感覚だ。そのかわり朝は日の出と共に目覚めるが…。
梓姫が唐突にニッコリ微笑んできたので、俺は年甲斐もなくドキドキしてしまった。
やはりこの方は美しいな。
俺は浮ついた気持ちを誤魔化すように慌てて返事を返す。
『ああ、すいません。
話していたらつい時間を忘れてしまいました。
では、今日はこの辺で失礼します』
梓姫は俺の言葉に頷く。
「はい、ではおやすみなさいませ高田様」
「ええ、お茶馳走になりました。
ではおやすみなさい」
俺は挨拶を交わすと足早に引き戸を抜けると外に出て加藤殿の所に戻っていった。
「加藤殿、有難うございます」
加藤殿は頷く。
「幸い誰も来なかったでござる。
して、首尾は如何でござった」
「ええ、上々だと思います。
この話をすればきっと我らが姫君も喜ばれるでしょう」
それを聞くと加藤殿も微笑み頷く。
「それは良かった。
では、部屋に戻りまするぞ」
「はい」
そうして、俺は色々あって頭が一杯だったが横になると眠気が一気に襲って来て直ぐに眠りに落ちていた。
どうも、何か色々と忘れているような気がするが…。
翌朝、いつもの様に夜明けとともに起床すると、加藤殿とこれからについての話し合いをした。
その結果、視察の役目も終えたのと梓姫の事もあり、我が姫君にこの度の事をいち早くお伝えしたく、一度尾張に帰ることになった。
梓姫の事もありすぐにまたここに来ることになるだろう。
帰りの旅支度の準備を進めていると、朝餉の準備が整ったと屋敷の者が呼びに来た。
部屋に案内されると、既に高田殿ら家人が揃っていて、昨日の食事の時には居なかった梓姫が同席していた。
朝餉は山の幸あり、川の幸ありと俺の今生での感覚から考えれば中々に豪華で、おそらくこれも特別に用意してくれたものなのだろう。
川田殿らと朝餉を頂きながら世間話を交わしている中で、今日尾張に帰る旨を伝えた。
「平兵衛殿、この度は世話になり忝なく。
我らは見聞の用も済み、一先ず尾張へ戻ります」
それを聞き川田殿は安堵した表情を浮かべる。
「ほう、それはようござりました。
草深き田舎故、たいしたもてなしも出来ず恐縮にござる。
過分な土産の品、備後守様に平兵衛が感謝しきりであったとお伝えくだされ」
「しかと承りました」
そして、俺は梓姫の方に向かい別れの言葉を掛ける。
「あ「父上。わたくし、この方の元に嫁ぎたく思います」」
「「「え?」」」
俺の言葉を上書きした梓姫の突然の言葉にその場の一同鳩が豆鉄砲を食ったような顔となり、同じ言葉を上げる。
一同の目が梓姫へと集まり、梓姫は再度言葉を重ねる。
「ですから、わたくしこの方の元に嫁ぎたく思います」
え?俺の嫁に?!
俺は梓姫の突然の申し出に、頭の中がパニックになってしまった。
いち早く混乱から戻った川田殿が梓姫を叱責する。
「あ、梓。そのような事を、軽々に。それに儂の一存で決められるわけ無いだろう。
高田殿は備後守様の家臣なのだぞ?」
しかし、何故か俺に向けられた川田殿の視線に期待が籠もっている様な?気のせいか?
俺は慌てて言葉を重ねる。
「そうです。その様な大事なこと、私の一存では決められません」
すると梓姫が俺の方を向いていう。
「ならば、備後守様がお許しになれば良いのでしょう?」
川田殿は困ったような表情を俺に向ける。しかし、やはりその視線には期待が籠もっていないか?
急なことで言葉に詰まり、思わず梓姫の言葉をそのまま肯定してしまう。
「備後守様がお認めになるならばそうだが…」
「では、高田様、備後守様に聞いてみて下さい。
私を迎えていいかどうか」
梓姫の口角がまた上がり不敵に微笑んでいるように見える。
あれ?どうしてこんな話になっているんだ?
ええい、ままよ。武家の家同士の事、そんなに簡単に決まるわけがない。
武家同士の結婚なんだぞ?
「わ、わかりました。
では、今日中には尾張に戻りますから明日にでも備後守様に聞いてみます」
梓姫は納得しない様子。
「高田様、私も吉姫様に一日も早くお会いしとうございます。
そんな私を置いて尾張にお帰りになられるの?
また何時この地に戻るかもわからないのに、昨日の話は嘘でしたの?」
それを聞き川田殿の表情が一変する。
「あ、梓、昨日の話とはなんだ。聞き捨てならんぞ」
昨日の夜の話をするつもりか?やましい事など何もなかった筈だぞ?
だが、夜に密会していたのは事実…。
「わ、わかりました!
では手紙にて聞いてみますので、少し待って下さい」
すると梓姫は満面の笑みを浮かべる。
「いえ、父上。昨日の見聞の案内をして差し上げた時の立ち話ですわ」
それを聞き川田殿が安堵して元の柔和な表情に戻る。
「ああ、あの時の話か。ならばなんの問題もない。
佐吉殿、では備後守様から返事が参るまで今暫く我が屋敷に逗留くだされ」
…おれは八方塞がりとなり、ただ一言絞り出すと、後は絶句するしか無かった。
「…忝なく…」
その後、残念ながらまだ俺はこの時代の崩した文字が書けるわけではないので、備後守様への書状を加藤殿に代筆してもらい、そして我が姫への私信を自分で書いた。
それを早速と、古渡の小者に持たせると我が姫君の元へ届けてもらった。
それからというもの、色んな事が頭を巡り過ぎて、川田殿が気を利かせて村を案内してくれても、加藤殿が心配して話しかけてくれても、なんとも上の空。
そしてなんとも素早いことに、翌日の夜には使いの小者が戻り、我が姫君と備後守様からの返書が届けられた。
我が姫君からの返書は実にシンプル。
「おめでとう。梓姫と会うのを楽しみにしています」とだけ書かれてあった。
そして備後守様よりの返事は要約するとこんな感じだった。
「吉よりその地の草水のでる油田とやらの重要性は聞いている。
その油田は織田家の直轄と致し、川田殿を代官とする方向で考えているから縁を結ぶ話が出ているなら話が早い。
いずれ改めて川田殿を尾張に呼んで話をするが、梓姫の輿入れは先に述べたとおり許可する」
と、いうようなことが書かれてあった…。
その翌朝、朝餉の席で川田殿と梓姫に返書の内容を伝えると二人は大喜び。
それを聞いた川田家の郎党が屋敷に集まり、この日は祝いの宴となった。
翌日から、慌ただしく梓姫輿入れの準備が進められる。
その間に梓姫と懇意にしているという商人を紹介されたり、婚儀の話を聞いたりと俺は俺で忙しかった。
そして、その間に古渡の方の準備も進み、備後守様より川田家へ引き出物が届けられ、俺と梓姫は正式に婚約。結納の品として、俺は川田殿より具足一揃えと太刀を贈られた。
聞けばこれがこの時代の武家の結納時の風習らしい。
よく考えれば、俺は具足など着たこともないし、我が姫君に士分取り立ての祝いに贈られた大小も手入れくらいでしか抜いたことがない。
この先、この具足を身に着けて太刀を持ち戦に出ることが有るんだろうか?
とても現実味を感じない。
そして、加藤殿を残して俺は一先ず先に尾張へ戻ることになった。
尾張へ戻ると、この度の様々な出来事をまずは姫君に報告すると、新たな、しかも同時代の転生者との巡り合わせに姫君は大変喜ばれていた。流石にこの件は私信にも書けなかったので直接の報告とした。
その際、姫君より既に台所奉行の山田殿の采配で婚儀の準備が進められていると聞かされた。翌日姫君同席の下、備後守様に相良油田の様子などを報告させて頂いた。
そしてこの度の視察成功の褒美として新たに屋敷を与えられたので、そこに一先ず梓姫ら一行を迎える事になる。
この度の婚儀は遠江と言う遠方から尾張への嫁入りのため川田殿も共に来るそうで、その時に備後守様と会見すると聞いた。これは返書に記されていた会見で、恐らく油田などの今後の話をするのだろう。
そして、五日程後に遠江より加藤殿と川田殿ら一行が到着した。
佐吉くんは歳上の梓姫を嫁にもらうことになりました。
長くなったのも有るんですが、あまり語られなかった最後の方の部分は梓姫視点の閑話で語られます。