閑話三十九 朝比奈藤三郎 旅立ちの時
朝比奈藤三郎視点の閑話です。
今回は駿河を出るまで、雪斎和尚にいかに言い含められたかが描かれています。
天文十七年六月 朝比奈政貞
我が師勘助殿が安祥織田家に仕官して早五年、その後の三河での活躍を噂で伝え聞くにつけあのまま駿河で無聊を託っておられるよりは、良かったのだろう。
願わくば我がお屋形様の下でともに働きたかった。
勘助殿を見送った時分は織田家とは三河を巡って対立関係にあったが直接刃を交わす程のところまでは行っておらなんだ。
それが遠江で敵として直接刃を交わす事になるとはな…。
俺は勘助殿が居ったらしいお屋形様の率いる本隊の戦とは別に先に奇襲にて獲られた高天神城を奪還すべく兵を出した朝比奈の軍勢に加わった故、勘助殿と直接戦場で相まみえることは無かった事が幸いといえば幸いか。
だが酷い負け戦であった。
お屋形様は織田勢に囚われ、遠江に出征した駿河の兵らは慈悲を与えられほうほうの体で駿河へ戻って来た。
しかし囚われたお屋形様もまた直ぐに戻され、尾遠参三国を領する武衛様と和議を結び同盟関係を結ぶことになったのだ。
俺はその話を聞き、内心安堵した…。
これまでは師とはいえ対立した家に仕官した故、手紙を交わすことを憚っておったのだが、和議の後初めて手紙を書いた。
使いに出した者が持ち帰った返書は師の近況が書かれておったが、その文からは安祥織田家の当主三郎五郎殿の側近として重用されている様子が見て取れ、一度訪ねてきてほしいと書かれておった。
俺は師の招きが嬉しくまたかねてより豊かになったと噂に聞く西三河をこの目で見たく、早速訪ねていく準備をしておったのだが…。
そんな折、お屋形様の側近であられる雪斎和尚が訪ねてきたのだ。
和尚曰く、殿よりの直々の頼み事があると。
お屋形様から直々の頼み事など朝比奈庶流のしかも当主でもない俺の立場では滅多にあることではない。三河行きのことなど頭から消え改まって話を聞いた。
「藤三郎、尾張へ行ってはくれぬか」
「尾張に…、でござりますか?」
「そうじゃ、尾張じゃ。
大っぴらには話しておらぬが、先ごろお屋形様が尾張に行ってこられたのだ」
俺はその話を聞いて驚いた。和議を結んだとはいえ先ごろ戦をしたばかりの相手ではないか。
「はっ」
「和議を結び盟を結んだとはいえ、先ごろ戦をしたばかりの相手であるが、お屋形様は一度尾張に行かねばならぬと、御自らの目で尾張の現状を見てこなければならぬと、そう考えられて尾張に行かれたのだ」
尾張…、西三河と同じくここ数年で飛躍的に豊かになったと聞くが…。
和尚は言葉を続けられる。
「尾張では歓待され色々な所を案内され、なぜ近年飛躍的に豊かになったのかを見せてくれたそうな。尾張でもまだ新しく始めたばかりの農法に至るまで見せてくれたそうな」
「なんと、そんな事があったのでござるか…。
つい先日まで敵であった我らにそこまで手厚くする意味がわかりませぬが」
「普通であればそう思うであろうな。
拙僧もその話を聞いたときは驚いた。
更には、その方も名前くらいは聞いたことがあろう、農民らが黒ボクと呼んでおる火山灰土の事だ」
「勿論知っておりまする、富士の山裾に広がる平野部を覆う作物の育たぬ土にござりまするな」
「うむ、その土のことだ。
お屋形様はその土を作物の育つ土に変える方法が書かれた書物を備後守殿から贈られ持ち帰られたのだ」
「誠にござりまするか。
あの黒ボクの地が作物の育つ地になれば、駿河の石高は飛躍的に上がりまする。
その様な方法が書かれた書物を贈られるとは…。
いかなる底意なのか想像も付きませぬ」
「お屋形様が言われるには、備後守殿は駿河が豊かになることで武田や北条への強き抑えになると同時に、商売相手としてより大きな商いができるようになると。
そう仰られておったそうだ。
これからは駿河より尾張に今まで以上に産物が売れるし、駿河に足りぬものを尾張より多く買うことができる故、駿河が豊かになれば尾張にも大いに利のある話なのであろう」
「備後守殿の家は銭の力で大きくなったと伝え聞きまするが、お屋形様と同じく銭の力に重きをおいておるのやも知れませぬな。
…、お屋形様はそれがしに尾張を見てこいと仰られて居るのですか?」
俺の問いを聞き、和尚が微笑む。
「それもある、しかしそれは役目の一部に過ぎぬ。
痩せた火山灰土の土地を豊かな耕作地に変える方法が書かれた書物、これは備後守殿より贈られた物であるが、その書物を書き記したのは実は齢十五の備後守殿の姫なのだ」
勘助殿の文にあった勘助殿を三郎五郎殿に推挙したという姫の事か?
だが、ここではそのことは話さぬほうが良いな。
「姫…、にござりまするか」
「うむ、拙僧も初めてその話を聞いたときにわかに信じられなんだが、お屋形様は尾張でその姫と会見し、その時の事を話してくだされた。
お屋形様曰く、尾張では駿河どころかこの日ノ本のどこでも使われておらぬ新しい農具をここ数年で導入し、それのおかげで飛躍的に石高を増やしたのだ。
その新しき農具を使えば農民らの農作業の時間が大幅に短縮する。例えば、尾張で使われだした新しい鍬は少なめに見て駿河の農民らの倍の速さで耕す。
それらの農具を考え家臣に作らせたのがその姫なのだ、と。
新しき農具をすぐさま取り入れ領国に広めた備後守殿の器量も大したものであるがな」
勘助殿が文に書いておられたとおりか…。文には、三河は三郎五郎殿が持ち込んだ様々な農具や新しきやり方によって尾張と同じく飛躍的に豊かになったとあった。
今や西三河産の塩の安さと品質の良さは他国の塩では勝負にならぬ…。
それらを考え三郎五郎殿に与えたのがその姫だと文にはあった。
勘助殿はさながらその姫の信奉者であるかのようにその姫のことを褒め称えておったが…、和尚の話を聞けばそう思うのもわからぬ話ではない。
「それ程の御方にござるか…」
「うむ、お屋形様もその姫にご執心でな、拙僧にも一度会ってこいと言う始末よ。
拙僧もいずれ機会を見て尾張を訪れたいと思っておるが、それはまたの機会じゃ。
先の戦からまだ日が浅く、駿河ではやらねばならぬことが山積しておるからな」
ふむ、しかし今ひとつ要点がわからぬ。
その姫を見てこいということなのか?ならばそれがしである必要はないと思うが。
しかし噛んで含めるように和尚が姫の事を話すのには意味があるように見える。
「それ程の姫ならば、お屋形様の側室にでも迎え入れられては」
それを聞き和尚は苦笑いする。
「ふふ、備後守殿が自慢にするほどの姫ぞ、側室などでは備後守殿は承知せぬ。それに備後守殿は立場こそ守護代家の軍奉行に過ぎぬが、その実守護の斯波武衛殿の片腕と言っても差し支えない程の実力者よ。
その姫は武衛殿にも随分気に入られて居るのだ、家柄などその気になればなんとでもなるのだ」
俺は軽口の如き口を開いたことを悔いた。
我が家は、駿河の守護今川家の重臣朝比奈の一族に連なる家とはいえ所詮庶流に過ぎぬ。
入ってくる話もたかが知れておる。勘助殿の文を読んだ程度ではそれ程とはとても知り得ぬ。
つまりは、なんとなれば武衛様が猶子にすると言うこともあり得るという事なのだろう。
斯波武衛家の猶子ともなれば家柄に問題があろうはずもない。
「そこでお屋形様は、姫をご嫡男の龍王丸様の正室にどうかと備後守殿に話されたらしい。しかし、備後守殿は家柄が違いすぎるとやんわりと辞退されたそうな。
足利に連なる守護家の正室の話を断る程手放したくないと言うことよ」
それはそうだろう、普通では考えられぬが金のなる木をわざわざ他家に差し出すものか。
「そうでござりましたか…」
「うむ。それでだ。お屋形様はともかくその姫と知己を得て、手紙のやり取りは出来るようになった。その姫はお屋形様の政に感服して居ると言っておるそうでな、いつまでもとは行かぬだろうが知恵は借りられるだろうと仰っておった」
「はっ」
「お屋形様はその姫の動向を具に把握しておきたいと仰せだ。
その姫が何をしているかで備後守殿がどの様に動くのかもわかるやも知れぬしな。
何より、その姫は新しき取り組みを常日頃やっており、動向を見ておれば新しき取り組みを真っ先に知ることができよう」
「…、それがしに間者働きをせよと仰せですか」
それもまた役目であれば仕方がないが…。
「いや、あの備後守殿が無策などあり得ぬ故、万が一間者働きが発覚すれば良き関係が壊れる可能性がある。
相手が特にその姫であれば、斬られて終わりでは済まぬ。
それに庶流とはいえ、朝比奈の一族の嫡男である藤三郎に間者働きなどさせられぬ。
だからお屋形様は一計を案じられた。
文武に優れた将来有望な若者が居る故、姫の近習として暫し使ってほしいと、先の贈り物の返礼と共に正式に備後守殿の元に送り込む事を考えた。
盟を結んでいる以上、備後守殿も無碍な対応は出来ぬ筈であろうからな」
「その文武に優れた将来有望な若者というのがそれがしでござるか?」
「うむ、お屋形様が直々にそなたをご指名なされたのだ。
引き分けたとはいえ先の高天神城での見事な戦働きの事も高く評価されておる」
なんと、それがし如きの事それ程までに…。
「無論、拙僧もそなたのことを高く買っておる。
お屋形様が指名なされなくとも拙僧が推薦したであろう程に」
「この藤三郎、お屋形様の期待を裏切らぬよう懸命に励みまする」
「そなたなら、そう言ってくれると思っておった。
大事な、大事な役目故しかと頼んだぞ。
それと、お屋形様は我等と同じことを考えるものが他にも居るやも知れぬとも言っておられた。
何事も思慮深く、短慮な行いは控えよ。
戦にあっても流されることのないそなたであれば、その様な心配無用に思うが」
「ははっ、心得ましてござりまする」
「これがお屋形様より備後守殿への返礼の手紙、そして姫への紹介状、それと姫への返礼の品じゃ。
返礼の品は無名ではあるがこの駿河の刀工義助の手掛けし短刀、良き品じゃ」
和尚より檜の箱を受け取る。
「中を改めても構いませぬか?」
「うむ。自ら渡すもの中身を知らずでは不安であろう」
「では」
檜の箱を開けると、見事な絹の刀袋。その中には美しい螺鈿細工の施された黒の漆塗りの鞘に収められた短刀が。
ゆっくりと抜いてみると、見事な刀身が覗いた。
「これは見事な品にござりまするな」
「そうであろう。きっと喜んでもらえるであろう。
これほどの品であれば、お屋形様の顔に泥を塗ることもない」
「ははっ。必ずやお届け致しまする」
「頼んだぞ。拙僧もそのうち尾張に行く故、くれぐれも壮健にな」
「ご配慮有り難く。
では、急ぎ準備して出立致しまする」
こうして俺は役目を与えられ尾張へ向かうことになった。
役目は姫のお守りではあるが、お屋形様がご執心なさるほどの御方なれば俺自身学ぶことがあろう。
一度側仕えになれば自由に時間も取れぬであろうから、まず三河に寄り勘助殿に会いに行くとしよう。
尾張に行くのはその後でも問題なかろう。
以前と異なり、今は湊から船が毎日の様に出ており、三河まで行くのにも船で一日と掛からぬ故な。便利になったものよ。
こんな感じで藤三郎くんは意気揚々と旅立ちます。