第百十一話 田植えの季節
月が変わり田植えのシーズンとなりました。
『田植え』
天文十七年五月初旬、父から今川義元公が船で津島に到着したと聞かされました。
清洲の守護館で饗しの宴が催されたそうですよ。
今回は正式に同盟相手として今後の方針などについて話し合うのだとか。
私はといえば、義元公が一度会いたいと仰っているとかで、父からは何処でどのように会見を行うかはまた後で知らせると言って来ました。
どうも父は私と義元公をあまり会わせたくないようですが、そういう訳にもいかないのでしょう。
五月になると日差しも強くなり、グレゴリオ暦ではもうすぐ七月、初夏の到来です。
そんな折に領地の方から田植えの日取りの知らせがあり、父からの連絡も無いので先に領地の方に視察に行くことにしました。
今回は、いよいよ田植え機の活躍が見られますね。
真四角の田んぼに正条植えに綺麗に並ぶ稲という、平成の世では見慣れた風景をまた見ることが出来ると思うと少々楽しみです。
今回はまた鈴木党の皆さん達と古渡の警護の武士ら、総勢五十名近い人数で領民達への慰労の品を持って向かいます。
領地に着くと乙名さんが出迎えてくれます。
「姫様、よくお越しくださいました。
いよいよ田植え機を使い、田植えをする段となりました。
既に準備は整い、後は田植え機を走らせるだけにございます。
併せて田植え機の試運転の方も進めてまいりましたが、今の所差し障ることはございません」
「それは何よりです。
私もこの日を楽しみにしておりましたよ」
その時私は少し乙名さんが普段と違うことに気が付きました。
どうも緊張しているような…?
私とは何度も会ってますし、田植え機も試運転では問題なかったと言ってます。
「…乙名さん、どうかしましたか?」
乙名さんはぎょっとした表情を浮かべます。
「…、姫様もお聞き及びかと存じますが、本日の田植えは備後様が立会に見えられております」
そんな話、全然聞いてませんよ。
まさに青天の霹靂?
今度は私がぎょっとする番です。
「え?
…、私は聞いていませんよ…」
後ろに控える滝川殿を見ても首を横に振ります。
なにか、考えがあって伏せていたのでしょうか。
「本日視察に見えられる旨は以前より聞かされておりましたが、まさか姫様がご存じないとは…。
という事は、備後様がお客様を伴われているのもご存じありませんか?」
「ええ、聞いてません」
乙名さんはため息をつきます。
「恐らく備後様と一緒に来られた方々は身分のある方々だとお見受けします」
…一緒に来そうで頭に思い浮かぶのは、武衛様でしょうか。
武衛様ともなると乙名さんでも顔は知らないでしょうし。
「そうでしたか、恐らく父上は普段どおりが見たかったのでしょう。
ならば、普段どおりにしていればいいと思います」
そう言うと、乙名さんがジト見してきます。
まあ、そうですよねえ…。
「わかりました…。
では、村人には気にせず田植えする様に伝えます」
「はい、宜しく頼みましたよ」
そうして、乙名さんと一緒に新しく作った田植えを待つばかりの田圃に向かいます。
新田に到着すると田圃の向こうに陣幕が張られ、田植え見学の席が設えられているのが見えます。
来るときには気づきませんでしたが、見える範囲で警護の兵や小者など総勢三百名程の人たちが陣幕の方に居るようです。
陣幕の席に居るのは父信秀と武衛様、それにもう一人…?
大柄な方が武衛様と共に父に説明を受けているのが見えます。
「居ますか?」
私は誰とは無しに声を掛けます。
すると、加藤殿が静かに歩み寄ると背後で膝をつきます。
「こちらに」
色々お仕事頼んでるので常にいるとは限らないのですが今日は居たようです。
滝川殿は勿論見知っているのでチラリと視線を向けただけで視線を戻します。
小次郎殿は初めて見るので一瞬警戒しましたが、滝川殿が無関心なのを見て同じ様にします。
「武衛様と共におられる貴人はどなたか知っていますか?」
「今川治部大輔様にございます」
ああ、なるほど父は義元公にここを見せたかったのですね。
私達と同盟を結べばどの様な利益を享受出来るのか、ご自分の目で見てもらうのが一番ですから。
「わかりました。ありがとう」
「はっ」
加藤殿がまた静かに姿を消します。
熟練の忍びの技なのでしょうか、気配を消し紛れるというのがあまりにも自然過ぎて。
見知っていてもすぐに見失ってしまうのですが、毎度感心します。
小次郎殿も気になったのかもう一度加藤殿が居た辺りに視線を向けるのですが、既に姿が消えているのを見て目を丸くします。
それを見て滝川殿が口元に笑みを浮かべました。
やはり、忍びと武芸者というのは目指す所のベクトルが違うのでしょうね。
武衛様が私達が来たのを見つけて立ち上がると扇子を開いてこちらに向けて、ひらひらさせます。
それを見て義元公が目礼し、父も手を振ってこちらに挨拶します。
私は三人に向けて深々と失礼のないようにお辞儀します。
後ろに控えたお供の人たちも同じ様にお辞儀をします。
そして父のところから小姓が一人走ってきて、父の言付けを伝えます。
「備後様は、我らの事は気にせずいつもどおり進めて欲しい。との仰せにございます」
それを聞き、父の方を見ると父が頷くので頷き返します。
三方がまた落ち着かれたところで、作業の進行を指示します。
「乙名さん、父上は気にせず作業を進めよと言っていますから気にせず進めて下さい。
もし何かあっても父上が必ずとりなしてくれるでしょう」
乙名さんは緊張を隠せませんが、覚悟を決めたという表情を浮かべると頷きます。
「わかりました、それでは始めさせていただきます」
こうして、新田に対する田植えが始まったのです。
続く。
いつもどおりの筈が、珍客が来ていました。
否が応でも緊張する局面です。




