閑話三十三 松平広忠 安祥訪問
月が変わり広忠一行が旅立ちます。
天文十七年四月 松平広忠
遠江での戦の後、儂は父上の代より敵対関係にあった織田家と和議を結び、織田家の奉じる守護たる武衛様に臣従した。
これにより、矢作川の向こうに在る安祥や三河の西を取り戻すことは最早叶わなくなったが、いずれにせよ頼りにしていた今川は遠江の敗戦の結果武衛様と和議を結び、三河はおろか遠江からも手を引き最早周りは武衛様に臣従する家ばかりの八方塞がり。
寧ろ和議で安堵を得られたことこそ幸運と思うべきか…。
しかし、和議とはいえ実質的には降伏した様なものなのであるが、儂の気持ちはあれ以来ずっと軽やかである。
まるで憑き物が取れたように、また顔に笑顔が戻った。
悲壮感が漂っておった家臣らの顔も明るくなった。
川向こうもその向こうの国も皆味方となり、もはや戦が無くなり今川からの出兵要請に怯えることも無いということが、これほど気持ちを楽にするとは…。
離散しておった領民らも戻りつつある位に岡崎に平穏が訪れたのだ…。
岡崎におった今川の家臣らも解放され既に退去し、東三河領内にあった今川の城も全て引き渡されるなど、月が変わる頃には東三河もすっかり落ち着いた。
儂は先の和議の時、近いうちに尾張を訪ねると備後殿と話しておったのだが、そろそろ頃合いであると思い尾張へ向かうこととした。
備後殿に使者を立てた所、先に熱田で竹千代や於大と対面し、その後儂が希望しておった備後殿の姫とも熱田にて会える事になった。
その後、清洲を訪ね武衛様に改めてご挨拶に伺い、備後殿とも会見するという話でまとまった。
そして、その前には長きに渡り宿敵であった信広殿に会いに安祥へ立ち寄る。
阿部大蔵を留守居役とし、尾張へは大久保忠俊、本多忠高ら腹心と熱田に居る人質を出した家臣らを伴い、総勢四十名にて向かうこととなった。
早朝に共に出立する家臣らと落ち合うと、留守居役の大蔵に声を掛ける。
「大蔵、では行って参る。留守居の大任宜しく頼むぞ」
「はっ、殿の無事のお帰りをお待ちしておりまする」
「うむ、ではまずは安祥へ向かうぞ」
「「「はっ」」」
岡崎を出立すると足取りも軽く矢作川の渡しへ到着する。
渡しの船に揺られ、川面を眺めながらふと先ごろ聞いた話を思い出した。
ここに橋を架けるという話であるが、どんな橋がかかるのであろうか。
思わず今しがた通ってきた岸と川向こうを見やってしまった。
それを見た忠高が声を掛けてくる。
「殿、如何されましたか?」
「あ、いや大事無い。些事なことよ。
先ごろまで幾度となく戦をしたこの矢作川に橋を架けるという話を小耳に挟んでな。
それでどんな橋が架かるのであろうと、思い描いておったのよ」
「そうでござったか。
戦のことを考えれば、川に橋を架けるなどと馬鹿げた話にござるが、この先戦もなく多くの人が行き交う事を考えれば、橋はあったほうが宜しゅうござりまするな」
「うむ、渡しの仕事が無くなる故、手当を考えねばならぬであろうが、橋があったほうが確実に人の通りは多くなろう。
そのうち、この渡しの辺りにも宿屋町など出来るやも知れぬな」
それを聞き、忠高は遠い目をして向こう岸を眺める。
「川向こうの安祥の統べる西三河は最早別の国の様になっておるとか。
東三河も戦がなく内政に専念出来ればきっと同じ様に豊かになりましょう」
「ははっ。そうだな、励まねばなるまい。
備後殿は安祥の信広殿を頼れと言っておった。
これまで散々戦ってきた相手を頼るのはちと気が引けるが、味方となったからには歳も儂と近い故、友と呼べるほど親しき間柄になれると良いな…」
「まこと、その様な付き合いが出来るほど平穏になれば、安祥との戦で討ち死にした我が父も喜びましょう」
「先代平八郎殿か…。
そうであるな…」
儂は儂を逃がすために殿となり討ち死にした忠豊の勇姿が脳裏に浮かび上がった。
思わず目頭が熱くなり、続いてこれまで安祥との戦で討ち死にしていった者らの顔が次々と思い出され込み上げるものがあり気がつけば嗚咽しておった。
「と、殿…」
気がつけば皆涙を流しておった。
苦労に苦労を重ねた家臣ら故、皆それぞれに思いがあるだろう…。
矢作川を渡り、皆に声を掛ける。
「そろそろ安祥からの迎えが来よう。
ここよりは気持ちを入れ替えて行かねばならぬ。
我らは客人として安祥を訪ねるのだからな」
「はっ、心得ましてござる」
皆を代表し忠俊が答えた。
「うむ、では迎えを待つとしよう」
それから程なく安祥より迎えの武士が来て、安祥へ向かった。
安祥への道すがら、西三河の光景を家臣らと眺める。
整った農地は広く農民はみな血色良くよく健康的で、良き暮らしをしておることがひと目でわかった。
これでは農民が西に流れるのは無理はない…。
家臣らも驚きを隠せぬ様子で、これは此度は客人として立ち寄るだけであるが尾張より戻り次第また何度も来ることになろうな。
備後殿が頼れと言った理由が良くわかった気がする…。
そうして遠くに安祥城が見えてくる。
安祥の城下町は城にほど近い別の場所にあり、安祥城自体は平城であるがその四方を沼が囲んでおり、いざ攻めるとなれば容易では無いと聞いておる。
不甲斐なき事だが、儂自身はいまだこの城を攻めたことが無い故、どれほどの物なのかは想像するだけであるのだが…、幸い城攻めそのものをする必要もなくなったか…。
そんな事を頭の中で考えておったら、気がつけば城の前まで来ておった。
儂はその城門を見上げると感慨深かった。
これまでは多くの軍勢で幾度と無く攻めたが、中に入ることは叶わなんだ。
しかし最早、軍勢も必要なく重い具足も必要ない。
ただ客人として安祥城へ足を踏み入れるのだ。
城に入ると、信広殿がわざわざ迎えに出てきておった。
これまでは戦の具足姿でしか見たことがなかったが、こうして素襖を来た姿で見ると、儂と変わらぬ普通の若武者に見える。
「松平広忠にござる。
わざわざの出迎え感謝致す」
「なんの、広忠殿やっとこうしてお会いすることが出来た。
織田信広にござる」
信広殿はにこやかに話される。
なんとも気持ちの良い御仁よ。
儂もその表情につられ、自然と顔が綻ぶ。
「これまでは戦でしかお会いすることが叶いませんでしたからな。
しかし、これからはお味方でござる。
親しきお付き合いが出来ることを願っておりまする」
それを聞き信広殿が破顔される。
「はっはっは。
それを聞き、儂も胸を撫で下ろしました。
乱世の世の習わしとはいえ、これまで幾度となく戦い、多くの者を失いましたからな…。
それらの者らの気持ちを無にせぬためにも礎とし、これからは三河を良き国とする為に共に協力し励みましょうぞ」
儂はそれを聞き胸が熱くなる。
「是非に、良き隣人として共に励みましょうぞ」
信広殿が大きく頷く。
「さあさあ、今日は宴を用意しておりますれば。
美味いものを食べ、明日の出立に備えられよ」
「馳走、有難く」
こうして、我らはこれまでは敵として血みどろの戦を続けてきた安祥の者らと打ち解け、宴を大いに楽しんだ。
信広殿の細やかな配慮には痛み入るばかりであるが、やはりこの御仁は只者ではない。
儂と何が違うのか…。
宴の席で信広殿を褒めてみた所、酒が回っておったからかは解らぬが…。
「儂はその様な大した人物ではござらぬ。ただ出来た妹が居て、ずっと助けてもらっておるだけにござるよ」
という事を仕切りと言うのだ…。
腹心だと紹介された山本勘助殿も苦笑をしておるが…。
信広殿の妹というと…。
やはり噂に聞く備後殿の長女の吉殿か…。
儂もあの姫は只者ではないと思っておったが…。
俄然、会うのが楽しみになってきたわ。
そして翌朝、信広殿に見送られ安祥を出立した。
「信広殿、心温まる馳走、実に楽しい夜でござった。
これからも宜しくお頼み申す」
「なんの広忠殿。
儂も楽しい夜でござった。
広忠殿とはまこと気が合いそうでござるな。
儂の方からも宜しくお頼み申す。
また会うのを楽しみにしておりまするぞ。
そうそう、吉に会われるのでしょう。
宜しく言っておいてくだされ」
「しかと言付かった。
儂もまた会うのを楽しみにしておりまする。
では」
こうして、儂らは安祥を後に尾張へと出立したのであった。
まずは安祥へ立ち寄りました。