第九十四話 父の凱旋
父信秀が帰ってきました。
『父の凱旋』
今回は加藤さんが戻ってきてから数日して、父信秀が戻ってきました。
古渡勢を率いて威風堂々と、勝ち戦続きというのもあるのでしょうが、何度見ても様になります。
しかし、よく見ると父の後に続く馬廻衆の人数が減っている気がしますし、板金鎧が傷だらけになっています。
これまで馬廻衆の人数が見て解るほど減っていたことは無かったのです。
とはいえ、負傷して凱旋に参加できないだけかも知れませんので、どうしたのか考えるのは止めておきましょう。
必要があれば父が話すでしょうから。
いつもの様に屋敷の前で家の者たちと父を出迎えます。
「吉よ、勝ってきたぞ」
「はい、父上。
戦勝おめでとう御座います」
「うむ。
では、夜にでも部屋を訪ねる」
「はい」
父は疲れた様子は見せませんでしたが、疲れて居ないわけはありません。
これから風呂に入ったりと身体を休めるのでしょう。
日もすっかり暮れた頃、父が部屋に訪ねてきました。
「吉、待たせたな」
「はい、お待ちしてました。
まずは無事のご帰還、重畳に存じます」
「うむ、心配をかけたな」
「戦の勝ち負けに関わらず、無事に帰ってくることが一番の大事ですから、吉は父上のご無事な姿を見られることが一番の喜びなのです」
「ふふ、そうであるな。
此度の戦、結果としてみれば大勝利であったが、儂が太原雪斎の動きを読み切れなんだばかりに、戻れなんだものが大勢出た…」
「ですが、太原雪斎と義元公を切り離すという父上の策は上手くいったのでしょう」
「そうだな、それは間違いない。
敵を分断し太原雪斎を主戦場から切り離した結果、信広は治部殿相手に存分の戦が出来たのだ。
それがなったからこそ、治部殿を生け捕れ和議がなり、同盟を結ぶ所まで持ち込めたのだ」
なんと、同盟まで一気に進んだのですね…。
理想形として話はしてましたがまさかこんなに短期間で実現するとは…。
「義元公と同盟を結べたということは、尾遠参駿と続く大きな商圏を手に入れたということですね。内政に力を入れれば数年で国力を大幅に伸長させられるでしょう。
それほどのことを成し遂げたのですから、戻れなかった方達の遺族には手厚く報いねばなりませんね」
「うむ。無論、そのつもりでおる。
ところで、遠江の戦の詳細は聞いておるか?」
「はい、加藤殿からあらましは聞きました。
兄率いる三河勢が見事な戦ぶりで義元公を追い詰め、父上が後背を塞いで義元公を降伏させたのだとか」
「うむ、概ねその様な戦であった。
特に主戦場の信広の采配は見事であったぞ。
吉が信広に贈った本が役に立ったと言っておったわ」
「そうでしたか、それは良かったです」
あの本、役に立ちましたか。
カンナエの戦の見事な包囲は実際に実現するのは難しいのですが…。
机上の空論を実現してしまう父信秀といい、私の身内は有能すぎですね。
「儂もあの本を読ませてもらったが、正にカンナエの戦いを実現してみせよった。
あの様な大軍を率いての見事な勝利、語り継がれような」
父がそこまで褒めちぎるくらいですから素晴らしい采配だったのでしょう。
もはや見ることは叶いませんが、後世某巨大ネット辞典ではどんなふうに掲載されるのが気になりますね。
「兄上から直接話を聞くのが楽しみです」
父は微笑みます。
「うむ、そうであろうな。
直接今回の本の礼を言うと言っておったからまたそのうちここにも来るのであろう。
それと、知っておるやも知れぬが、広忠殿が武衛様に臣従した」
「ええ、加藤殿から岡崎で以前の和議の申し入れの後、家臣が割れているという知らせを聞いてましたから。
この今川出兵の時期に害される可能性があるとみて影守を頼んでおいたのです」
「うむ、広忠殿から吉が出した書状も見せて貰ったわ。
大きな借りが出来たと言っておったぞ。
それで、広忠殿が竹千代に会いに近々来られると思う。
その折に吉に会って礼を言いたいと、そう言っておった」
「そうでしたか、竹千代君も喜ぶでしょう。
という事は、於大さんもまた広忠殿の元に戻るのですか?」
「一度水野の家に戻って後になるが、再婚の運びとなるであろう。
これからは味方として東三河の旗印の松平家は重要故な」
「それは良かったですね。
於大さんもきっと喜ぶことでしょう」
「そうであろうな。
それで、まだ日取りなど具体的な話はなにも無いのであるが…。
治部殿が吉に会ってみたいと仰せなのだ。
何故、吉が遠く離れた駿河の治部殿を良く知るのか、それを聞いてみたいそうな。
治部殿は吉が話した銭の力銭の道に大層興味を持たれてな」
なんと、義元公と会えるのですか。
歴女としては是非会って見てみたい。
本当に白塗りのマロなのかそれを見極めたい!
「どんな方なのか、私もお会いしてお話してみたいです。
私が知る限り、義元公の知見はきっと武衛様の統治にも役立つでしょう」
それを聞き、父は少し驚いた表情を浮かべます。
「それ程にか。
確かに只者ではないと言うことは感じた。
武衛様の統治に役立つという事は、我が家にも役立つと言うことであろうからな。
よし、正直迷っておったが義元公と再び家臣を交えて会見することになっておるから、会えるようにしてみよう」
「はい。楽しみにしておりますよ」
「うむ。
ところで、武衛様であるが…。
此度の戦で随分と変わられたのだ。
いや、変わられたというのは違うのかも知れぬ。
元々優れた方であったのが凡庸なお飾り守護を演じて居られたのかも知れぬな…。
此度遠江の戦にご出馬され、権威たる守護として存分に役目を果たされたのだ。
それで儂は随分と助けられた。吉の言う権威の力を思い知らされたわ。
儂だけではあそこまで調略が出来なんだであろうな。
それだけ織田ではなく武衛様なれば臣従するという国人が多かったのだ。
これまで敵対し続けておった長島の服部殿すら吉田湊へ馳せ参じたのだぞ」
やはり予想通りこの時代は権威の力がまだまだ強いのです。
しかも武衛様は史実とは違い正に武衛様バージョン弐点零なのです。
私が武衛様にお話したのは古き秩序の再生ではなく、新たな権威の再構築。
それを私から少しアドバイスを聞くだけで自らの物としてしまう武衛様は正に名君と言えます。
「服部殿はあちこちに伝手をお持ちと聞いてます。
この先、伊勢湾に商圏を広げるのに役立ってくれるでしょうね」
「であるな。
服部殿ら水軍衆とは後日交易に関して話をする予定にしておるのだ」
「それが良いでしょう。
やはり尾張から駿河迄の街道の整備は必要ですが、海路の整備も大事ですから」
「うむ。そうであろう。
ところで、吉は治部殿の事を何故あそこまで知っておったのだ?
治部殿が吉に聞いてみたいと言われた時、儂も同じことを思った。
それくらい治部殿を言い当てておったからだ」
それは未来知識があるからですよ。
とは、勿論言えません。
困った時は加藤さんです。
「父上は加藤殿が東国の出身であることはご存知ですね」
「うむ、以前そう聞いた」
「加藤殿は東国に居る時諸国を巡ったそうなのですが、その折に駿府にも行ったことがあったのです。
そこで、駿府の様子を話してもらったのですよ。
その話を聞いて義元公は内政に特に優れた方だと思ったのです。
義元公が作られた国内の仕組みや商業に対する取り組みなど、他国とは一線を画す程の差があります」
「それ程なのか…」
「はい。
次に会われたときに直接本人にお聞きになると良いと思います」
「吉にそう言われると、次の会見する日が楽しみになってくるな」
「そうでしょう。
ところで父上、武衛様ですが…」
「武衛様がいかがされた?」
「父上のお話ですと、この度の遠江の戦で変わられたと思えるほどだったと。
三河遠江の国人らは武衛様に臣従したのでしょうが、尾張では、特に清洲ではその武衛様の変化を好ましく思わない人も居るのではありませんか?」
父の顔色が変わります。
「…吉もそう思うか…。
儂もその事を一番懸念しておった。
何もなければ良いのだが…」
「念のために加藤殿に頼んでいますが、父上はどうなされたいのです?」
父は難しい顔をします。
「儂は…。
いや弾正忠家は家柄で言えば織田庶流で奉行に過ぎぬのは吉も知っての通り。
津島湊や熱田を勢力下に押さえておる故、財力では主家を圧倒しておるが、儂の号令だけでは尾張に古くから根付く国人らは動かぬ。
何をするにも守護代が居らねば纏まらぬのだ。
岩倉は儂の義弟が当主故関係は良い、清洲も先代の達勝様の頃は儂の父の代より目を掛けて頂き良き関係であったと思う。
だからこそ、儂は軍奉行として全軍を率いて出兵出来たのだ。
だが、今の清洲は達勝様が退いて後、年若く養子で入った今の守護代様を譜代の坂井や川尻らが軽んじて自ら少守護代などと嘯いておる。
勝ち戦続き故表向き清洲との関係は悪くはないが、坂井や川尻の真意が解らぬ。
今の守護代様も嫡男が居らぬのが余計に軽んじられておる理由の一つであろうが…」
父は天井を仰ぎ見てしまいます。
もしかすると、今の弾正忠家の微妙な位置づけというのは必要に迫られ動いた結果なのでしょうか…。
最初から下剋上を考えているにしては、父も祖父も守護様や守護代様を常に立てて取って代わろうという所がまるで見えないのです。
それを考えると、先代守護代の達勝様の真意もわかりませんね…。
私は、守護様が父を守護代に任じてしまえばそれで終わりだと思うのですが、血筋が重んじられるこの時代、そんなにシンプルでは無いのでしょう。
「儂の意向は兎も角、守護様になにか起きることだけは避けねばならん。
儂の方でも気にかけておくが、加藤殿から何か報せがあればすぐに知らせてくれ」
「はい」
「おお、そう言えば一つ忘れておった。
吉が教えてくれた二俣城の松井殿であるが、吉の情報通りで味方になってくれ天竜川上流からの渡河がなった。
その際には吉の話しておった縄や平船が役に立ったわ。
礼を言う」
「それは良かったです。
加藤殿から上流から渡河したというのは聞いてましたので、そうじゃないかとは思いましたが、上手くいったようで何よりでした」
「うむ。
吉にはいつも助けられておるな。
さて、遅くまで済まなんだな。
そろそろ休むとする」
「はい。お休みなさいませ」
「ではな」
そう言うと、父は部屋を後にしました。
どうも守護様と守護代様絡みは常に底にある悩み事のようです。
なんとなくですが、そう遠くない時期に何らかの形で解決するような気がするのです。
私は思うのですが、例えば坂井殿というと武勇に優れた剛の者、これまでの戦でも戦功を上げられていると聞きます。川尻殿にしてもそうですね。
彼らは守護代家の家老であると同時に、尾張の有力国人でもあります。
弾正忠家が力を増すと相対的に守護代家の力が衰えているように見える。
実際は、衰えているわけでは無いにせよ軍奉行の弾正忠家が勝ち戦を続け、常勝無敗の勢いで武名を上げていけば、やはり焦りを感じるのではないでしょうか?
結局の所、国人というのは一所懸命と土地を守り家名を繋ぐのが第一ですから衰えて見える守護代家が衰えるのに合わせて自分たちも没落していくのはかなわないと考えているのではないかと思うのです。
そうであれば、彼らの望みは更に勢いある家への鞍替えでは無いのかなと。
しかし、主家が滅んだわけでもないのに不義理は拙いでしょうが。
それとは別に、守護様をお飾りにして好きなように振る舞っていた人達は、今の守護様は快く思わないでしょうね。
三河遠江の国人らを従え弾正忠家という尾張最大の後ろ盾を得ては、もうお飾り守護なんてしないでしょうから特に。
私が考えるほどシンプルでは無いのかも知れないですが…。
いずれ避けては通れない道なのでしょうか。
信長は全ての古い秩序を破壊することで平定しましたが、信秀はそう単純ではないでしょうね。
それまでの秩序を破壊することはそれまでの生き方の否定ですから。
器用の仁の行き着く先は…。