閑話三十 織田信秀 信広との対面
やっと安祥まで戻ってきました。
天文十七年三月 織田信秀
儂は供回りの者らと共に吉田城を出立すると安祥へと向かった。
行きと異なり帰りは街道沿いに進み岡崎近くに来るとあの小豆坂に差し掛かった。
六年前の小豆坂の戦いが脳裏に去来する。
あの頃はただ懸命に戦っておったが、よもやこの様な日が来ようとは想像もせなんだな…。
遠く岡崎の方向を眺めながら馬に揺られ在りし日に思いを馳せておったら、気がつけば矢作川に到着した。
ここで下馬し川を渡ると安祥までもう少しであるな。
先触れを安祥に行かせ、暫し後安祥へ到着した。
城へ入ると信広が腹心らと出迎える。
「信広、出迎えすまぬな。
少し話をしよう」
「父上、お疲れでしょう。
部屋の準備をします故、一先ず休まれては」
「うむ、馳走受けるとしよう」
そう言うと、供回りの者にも休んでくるように言うと、屋敷へ案内される。
そこで足を洗い清めた後に、足湯というものを馳走された。
足湯は暖かく心地よいばかりでなく、部屋の準備ができる頃には旅で強張った足がほこほことしほぐれた気がした。
部屋へ案内されると、まずは馳走の礼を言う。
「信広、足湯とやらは中々良いものであるな。
旅の疲れが解れたわ。
馳走感謝致す」
「それは良かった。
吉良殿の領地に温泉があるらしいのですが、温泉地でよくやられておる足湯というものを教えてもらったのです。
温泉に参られよと声を掛けて頂いて居るのですが、三河が落ち着いたら訪ねてみたいものです」
「ほう、そうであったか。
儂もそのうち温泉でゆるりと過ごしてみたいものよな。
此度の話しはそれにも関係がある話よ」
「戦の後始末の事ですな」
「左様。
つい先ごろ決まったばかり故、信広もまだ耳には入っておらぬであろうな。
まず、遠江であるが国人らはすべて武衛様に臣従し平定された」
信広は驚く。
「先の遠江の戦でも平定が随分と早く感じたものでしたが、今川の影響が色濃い東側でもう平定がなるとは…。
どう後始末なされたのですか」
「うむ。
国人というのは基本的に安堵を求めて従うのだ。
本貫は別にあり、派遣されておる国人もおる故必ずではないが、その地に根を張る国人は安堵を条件にすればまず問題はない。
故に、此度は武衛様に臣従するのであれば安堵する旨を国人らに広め、実際に安堵した所遠江の国人らが曳馬城へ列をなし皆安堵を受け臣従を誓ったのだ。
更には国人らの今川へ預けておる人質をみな取り戻した」
「なんと、そこまでされては臣従せずには居られぬでしょう」
「うむ。それ故な。
更には、信広が上手く生け捕りにした故、今川との和議がなり同盟を結ぶこととなった」
「なんと、同盟まで結べましたか。
吉の見立てでも同盟の話が出ておりましたが、まさか本当に結べるとは…」
「うむ。儂も此度は和議がなればそれでよし、後は同盟はおいおい話を進めてゆければと思っておったのだが、吉の話を少しした所随分と興味を持たれてな。
それで同盟と相成ったのだ」
「父上、吉の話、義元公にしてよかったのですか?」
「吉の話を出さねば説得できぬところがあった故な…。
出した後で、一度会いたいと所望されてちと後悔したわ。
だが、その甲斐もあって尾張から駿河まで一つの商圏、銭の力銭の道で繋がる事となった。
吉の言う通り、治部殿は銭の力を理解する御仁であった」
信広はそれを聞き、大きなため息をつく。
「なんとも夢の大きな話が突如眼前に現れると中身もその意義も分かっておっても現実味がありませぬな。まるで夢幻を見ておるような…」
「うむ、儂も正直そう感じるところがある。
此度の戦の結果、これで尾張から三河遠江に至るまですべて平らげ、駿河までその影響下に置くこととなったのだ。
つい先ごろまでこの三河で戦を繰り返しておったのにな」
「三河はまだ川向こうに問題が残っておりまするが…」
「信広、松平宗家、つまり広忠殿は武衛様に臣従した。
それに併せて、まだ敵対しておった東三河の国人衆らも尽く武衛様に臣従したのだ」
「そ、そうでしたか…。
広忠殿とは長いこと敵対関係にありました。
幾度となく干戈を交え、以前ほどではないにせよ去年も一度戦いました。
その宿敵のような御仁が、今やお味方ですか…。
いざ現実にそうなったと聞くと、これまた夢幻のような」
信広はつぶやくようにそう話すと庭を感慨深げに眺める。
無理もない、安祥を攻めてよりずっと広忠殿と戦を繰り広げてきたのであるからな。
「それで、信広。
吉の進言でもあるのだが、広忠殿の嫡男に儂の娘、つまり信広の妹でもあるな。
輿入れさせることとなった。
広忠殿も願ったりだと言っておった故、話がすんなり決まった」
「なっ、吉と広忠殿の嫡男では年が離れておりましょう。
それに、吉を広忠殿の元にやって良いのですか?」
「こ、これ。慌てるでない。
吉をやる訳がないであろう。
心配せずとも吉は何処にもやらぬわ。
妹というのは、去年生まれた市の事よ。
輿入れさせると言っても婚約だけで、実際の輿入れはまだまだ先であろうよ」
信広はそれを聞き安心した表情を浮かべる。
「これは失礼を。
輿入れするのは市ですか。
実際の輿入れは十年以上先になりそうですが、そうですか…。
松平とも縁が出来ることになりますな」
「うむ。
それ故な、武衛様のご意向でもあるのだが、広忠殿は当面疲弊しきった東三河を立て直すため、暫く内政に専念することとなる。
その際、武衛様が信広を頼るのだと推薦されたので、広忠殿が近々訪ねてこよう。
これまでのことは水に流し、助力してやってくれぬか」
「わかりました。
これからは合力して三河を富ませてみせましょう。
広忠殿とは歳も近い故、いずれ友にもなれるやも知れませぬな」
「美濃も同盟関係故、この三河に戦火が及ぶことは当分あるまい。
安心して内政に励むが良い」
「心得ました」
「それで、信広よ。
来月吉日に井伊の姫との祝言を上げる事と致した。
そのための準備を進めよ。
井伊殿とも話はついておる故、また井伊殿からも話があろう」
「はっ。
では、井伊殿とも相談し祝言の支度を進めまする。
父上も、今年は勘十郎と斉藤の姫との祝言がありましたな」
「うむ、勘十郎も妻を迎え変わってくれると良いのだが」
「勘十郎も元服を果たし、既に那古野の城主たる身ですから。
相応になってもらわねば困りますな…」
「そうであるな…」
信広はやはり尾張にはあまり関わる気がなさそうだな…。
とはいえ、此度の戦の見事な勝利、守護様の家臣筋からも話が広まろう。
蚊帳の外には居れぬと思うのだが…。
今はまだ蚊帳の外に置いておいてやるのが親の情けか…。
「では、儂は今宵は日も暮れた故、この城で一泊し明日朝には尾張に戻る。
井伊の娘には此度のこと、信広の方から話をしておいてくれ」
「承りました」
そうして儂は翌日安祥を出立すると尾張に戻った。
これからは暫し那古野にて論功や戦後の後始末をせねばならぬ。
その前に一度古渡に戻って吉とも話をするか…。
尾張から駿河まで、これで一先ず落ち着くのです。