閑話参 加納口の戦い
加納口の戦いの顛末。
信秀視点です。
天文十三年八月 織田信秀
前年、美濃の斎藤利政殿に国を追われた守護の土岐政頼様を美濃にお戻しする為、予てより懇意の付き合いのある、朝倉孝景殿より出兵の依頼。
美濃に対し影響力を深めたかった儂にとっては、渡りに船と兵を出すことにした。
少しなりとも美濃を切り取れれば、今後にも繋がる。
守護の武衛様から出兵の裁可を得ると、尾張の諸氏に出兵の呼びかけをした。
三河への抑えも必要故、あまり多くの兵は出せぬが岩倉や武衛様配下の方々も呼びかけに応じてくれて、五千の兵を率いて美濃へ出陣と相成った。
朝倉からは朝倉宗滴殿率いる七千の兵で西から出陣との知らせ。
古渡の屋敷で吉に出陣を告げると、後で読んでほしいと何やら手紙を渡された。
那古野にて出陣式を執り行うと、道すがら諸将と合流し木曽川に辿り着く頃には予定の五千の兵が集まった。
我が軍勢は木曽川を渡り、順調に進軍を重ねると加納口へ至る。
朝倉勢は赤坂で美濃勢を蹴散らした後、美濃守護の居城大桑城を奪還する軍勢と、稲葉山城を西から攻める軍勢に分けられ、稲葉山城の主攻は我ら織田方に任された。
加納口を視野に抑えた我軍はここに陣を張り、まずは斎藤勢の動きを見張り、物見を周囲に放ったが伏兵など城外に敵勢は居らず、籠城の構えと見えた。
儂は遠目に稲葉山城を見ながら、ふむ。と、一息つくと懐中の手紙を思い出した。
懐から手紙を取り出すと、父上殿と綺麗な字で宛名書きが見える。
以前和尚と話をした時に、和尚が褒めておったが、我が娘ながら大したものだ。
手紙を開くと花の香が漂い、宛名書きと同じく綺麗な文字で綴られた文面が見えた。
細かな気遣いに気持ちを解された儂は、どんな手紙だろうと頬を綻ばせながら手紙を読み出した。
戦地での儂を気遣う言葉に続き、書かれた内容に、儂は一瞬目を疑った。
そして、思わずフフッと小笑いしてしまった。
これは、また快川和尚の差し金かな。と。
和尚は美濃の出と聞く、ならばこのあたりもよく事情を知っておられるのだろう。
手紙の内容は、此度の稲葉山攻めについてであった。
正に、まず今の状態が予想されていた。
稲葉山城は堅城で、力押しで落とすには犠牲が多すぎる。
また、稲葉山城からは周囲がよく見え、敵軍の動向が手に取るように見えるとある。
確かに、そう言われて稲葉山城を見れば、あちらから利政殿がこちらを伺ってるようにも見える。我が陣など丸見えだろう。
和尚の策はこのような策であった。
美濃勢は尾張勢が攻めている間は、城を固守し攻め手に消耗を強いる。
しかる後、攻め手が消耗、疲弊し軍を引けば奇襲されるおそれがある。
ならばそれを逆手に取り、日が落ちてから陣をそのままに軍を分けて森に伏せる。
まずは挑発し、おそらくは打って出るような事はないから、時期を見て焦れたと見せて、軽く当て、疲れ果てたと見せて、攻め手を下げる。
美濃勢が蹂躙すべく奇襲を掛けてくれば無様に逃げ、美濃勢を死地に誘い込み、挟撃して散々に打ち取る。
さすれば、美濃勢は警戒し再び打ってくることはない。
朝倉勢が守護の城を取り戻し、稲葉山城の攻め手に合流してくれば、和議の使者を出し、まず守護様を大桑城にお戻しする。
そして、織田方は大垣を獲り、それ以上は望まず引き上げる。
読み上げて、ため息を付いた。
流石名高き快川和尚、儂の意にも沿う理にかなった良い策だ。
これは吉の言葉であろうか?
父上は、勝ち続けなければなりませぬ。
負けが続けば、織田一族の支持を保つことは困難となり、足下が揺らぎましょう。
守護様と父上の関係は良好なれど、清洲の守護代の家中は火種を抱えております。
また、今は守護様を通して良好な、岩倉も負けが続けばその限りではありません。
小さくとも勝ちを重ね、父上は決して負けてはならぬのです。
父上の御武運を、そして無事のご帰還を願っております。
吉
ふむぅ。儂はこれを読んで大いにため息を付いた。
まだ十歳のはずが、和尚の薫陶のたまものか、よく見ておるわ。
確かに、ここ暫く勝利を重ねてきた尾張勢は、意気揚々にて士気が高いのは良き事なれど、言われねば慢心して戦ったやも知れぬ。
ゆめゆめ油断など出来ぬ。
我軍は、諸将を集めで軍議を開き、策を伝えると了承を得た。
日が暮れてより、陣や旗印、篝火はそのままに、陣替えをした。
岩倉織田は、先鋒の誉れを得たいとの事で、難しき役割なれど、攻め手の役となった。
我が勢は、千の兵でこのまま本陣を張り、岩倉織田が引き上げてきたら、うまく通して無様に下がらねばならぬ。
そして、守護様と清洲の軍勢は森へそれぞれ伏せ、伏兵とした。
その夜は奇襲もなく、十分に休息を取り翌朝より、我が勢と岩倉勢にて弓の届かぬ所から罵詈雑言を投げかけて挑発を繰り返した。
城兵の憎々しげな顔が覗き、偶に矢が飛んでくるが届くわけもない。
代わる代わる罵詈雑言を浴びせたところで、焦れたふりをして一度陣まで引く。
その上で、矢盾を担いだ岩倉勢が二千の兵で攻勢に出た。
絡め手からは朝倉勢が攻め上がる。
岩倉勢が大手門へ向けて兵を進めると、守備の兵が矢を雨あられと射掛けてくる。
攻め手の武将が矢に当たったふりをして倒れると、脇の兵士が両脇から抱え、矢盾を背に逃げ出す。
そういう姿があちこちで見られると、そのうち岩倉勢は堪らぬとばかりに総崩れの体で麓目指して逃げてきた。
そして、本陣まで逃げ帰ると、予て打ち合わせの通り、岩倉勢はそのまま後方へ後退していく。
本陣の我が勢も混乱を装い、陣を下げていく。
すると、岩倉勢が木曽川へ辿り着こうかという頃に、はたして美濃勢が騎馬を先頭に大挙打って出てくる。
それを見て、我が勢は、大慌てで槍兵を並べ応戦の準備をする。
これがもし演技でなければ、我軍は木曽川に叩き落されていたところだ。
美濃勢が罵詈雑言の鬱憤ばらしの如く殺到し、我が勢は軽く当たると、叶わぬとみて逃げに入る。
すると蹂躙すべしと更に敵の槍兵が突進してくるのが見えた。
我が勢と岩倉勢は乱戦の様相で、その時を待った。
そして、敵の槍が乱戦に加わろうとしたその時、森に伏せていた兵が一斉に包み込むように美濃勢に横槍を入れる。
織田勢を狩り尽くすつもりで出てきていた美濃勢はたちまち混乱し、これまで負けたふりをしていた岩倉勢と我が勢も本気で敵と当たる。
程なく美濃勢は多くが討ち果たされ、なんとか我が囲みを突破した敗兵が城へ逃げ戻っていった。
後は、策の通り、その後敵が打って出ることは無く、宗滴殿らが合流したことで、和議となった。
こちらの条件どおり、守護様を大桑城にお戻しし、大垣は織田家で切り取ったのだ。
その後、儂達は意気揚々と尾張に凱旋し、我が勢は那古野にて戦勝の美酒を堪能することが出来たのだ。
儂の名は更に高まり、戦勝の報告をした武衛様も満足げであった。
これも、吉が招いた和尚のお陰よ。
何か、お礼の品を届けさせよう。
そして、吉に無事と勝利を知らせ、喜ぶ顔を早く見たいものだ。
そして、歴史は変わり、討ち取られた筈の多くの尾張の諸将が無事凱旋を果たした。
大垣一帯は織田の勢力下となり、守将に一族の織田信辰、そして城主として土岐頼芸が入った。
本文では語ってませんが、大桑城に土岐頼純が入り、和議の証として道三の娘、帰蝶12歳が輿入れした。