第九話 美濃攻め
吉は陶芸に挑戦です。
そして、父は史実では惨敗した美濃へ出陣していきました。
『陶芸に挑戦』
また年が明けて天文十三年、吉は十歳になりました。
この世界に転生してはや五年。
小さかった身体もすくすく成長し、身長も既に四尺を軽く越えてる気がする。
というのも、そろそろ女中さんに身長が追いつきそうで…。
流石に、もう父も抱き上げてはくれない。
閑話休題、木工細工に関しては、此処から先はさらなる工具がないと厳しい。
今の私の立場では、気軽に何かを手に入れることは難しい。
なにしろ姫なので、男の子のように行動も自由ではない。
とはいえ、十歳にもなれば女中が常に付いて回るということは流石にない。
しかし外出の時は女中と、使用人の男性が必ずついてきて、自由に何処かに行くということは出来ない。
それで、何かできることはないかと考えたら、愛知県には陶器で有名な場所が二箇所あったはず。
一箇所は瀬戸、もう一箇所は常滑。
この内、常滑は知多半島、水野氏の治める地であり、織田家の勢力内だと瀬戸になる。
直接行くには少々遠く、父に許可を得られるかも判らないので、伝手が無いか屋敷のものに聞いてみると、使用人の男性の一人に縁者が瀬戸にいるとのこと。
それで、上手くいくかどうか判らないが、この屋敷で陶芸が出来ないかどうか聞いて貰った。
すると、窯の職人がこの屋敷まで出向かなければ難しいかも知れないが、陶芸の真似事くらいならさせてもらえるということになった。
勿論、父に許可を得る必要があるので、父が戻った折にその話をすると、案外あっさり認めてもらえた。
そして後日、瀬戸から職人さんが粘土や道具を持参し、屋敷を訪れた。
手隙の女中さんや使用人たちが見学してる中、職人さんが粘土の準備をしてくれる。
その後、実際に轆轤の上に粘土を置いて、轆轤や道具の使い方を説明してくれた。
そして、実際に目の前で小さな湯呑みを作ってくれた。
本職の職人さんだけに、手際もよくたいしたものだ。
次に、私が教えてくれたとおりに湯呑みに挑戦する。
最初は粘土の柔らかさに戸惑ったが、なんとか湯呑みを完成させる。
職人さんが、ホウ。と感心する。
実は、陶芸自体は前世でカルチャースクール的な物で経験済みだったりする。
とはいえ、平成のスクールで出てくるような教材の粘土はもっと滑らかで作りやすい。
この時代でそんなに簡単に作れるとも思ってなかったが、作るだけならなんとかなりそうではある。
ただ、粘土から準備というのは流石に職人の技なので私には無理だ。
それから、職人さんの指導を受けながら、簡単なものからということで、鉢や、茶碗など実用的な物を幾つか作った。
あとは、冷暗所で乾燥させ、固まったら釜で焼くのだが、勿論屋敷でそれは無理だから、後日また取りに来てくれて、釜で焼いて完成品を届けてくれるらしい。
職人さんが勿論素人レベルでは有るのだが、私の腕に感心したらしく、定期的に屋敷で陶芸をさせてくれることになった。
なんでも、この辺りには月に何度か来てるらしく、そのついでに寄ってくれるらしい。
そして、後日、私は作り上げたのです。
陶器製の蘭引もどきを。
と言っても、私が全て作り上げたわけではなくて、職人さんとの合作。
流石に、素人が多少上達しても、急須の注ぎ口みたいなものを作ってうまく付けられるわけもなく構造だけ私が作って、後は職人さんに絵図面を見せて完成させてもらった。
後日、完成品を届けてくれた職人さん曰く、こんな逆さ急須のお化けみたいなもの、何に使うんだい。とのことで、それはそうだと思わず苦笑した。
そして、実際に思った用途に使えるかどうかわからないけど、使えたら職人さんに成果物をプレゼントするという約束をした。
今の私の立場ではまだお酒は触らせてもらえませんからね。少なくとも我が家では。
裳着したあとは大人扱いだから、色々出来るはず。多分。
『美濃攻め』
季節は変わり、夏が終わろうという頃。
また城が慌ただしくなり、出陣の準備が始まった。
また一つ歳を取り、男っぷりが増した父は、戦支度を済ませると、私の肩を両手で持つと、暫し見つめ、吉よ大きくなったな。と微笑む。
そして、儂はまた戦に行ってくる。また勝ってくる故息災でおれ。と言い聞かせるように告げる。
私は、いつものように、父上、御武運を祈ります。と伝える。
しかし、今回はこれまでとは違うのだ。
懐から手紙を出すと、落ち着いたら読んで下さい。と、父に渡す。
父は、手紙を受取り、意外そうな表情を浮かべたが、直ぐに手紙を懐にしまうと、大きく頷き。うむ、わかった。ではな。
といい、また威風堂々、城の者を引き連れて、城門から出陣していった。
勝利続きの父の家臣たちは皆意気揚々と士気は高そうだ。
私は、父や家臣たちの無事を祈り、彼らが遠くに消えるまで見送り続けた。
『吉姫先生誕生?』
父が美濃へ出征してる間、私はまたいつもの暮らしを送っている。
陶芸は、目的の蘭引の完成を以って、一先ずの区切りとし、同じものを幾つか作ってくれるように職人さんに頼んでおいた。
十歳にもなると、寺ですることも随分様変わりする。
私は、寺で手習いとして教えていることは、全て修めてしまい、今は快川和尚の蔵書の写本をやり、手習いのあと和尚とお話して帰る。
そんな感じに変わっていた。
ところが、和尚は私に手習いの師範をやらないかと言ってきたのだ。
一つには、以前より更に教え子が増えたことと、和尚も弟子の小僧さんが増え、以前のように手習いに長く時間を割けなくなったらしい。
もう一つは、教えることで、以前学んだことの復習になり、また新たに学ぶことも有るはずだと。
私は暫し考えた。
青田買いプランは既に頓挫、どうにも見えない壁は思いの外厚いようで、言葉は交わすが、打ち解けるところまでは行かない。
しかし、師範として教えれば、もう少し近づけるのではないかと。
そう思い至った私は、和尚にわかりましたと答えた。
それから、私の手習いは、手習いの師範をやり、写本をやり、和尚と話して帰る。
というパターンに変化したのだが…。
意外に、師範をやるというのは楽しいのだ。
最初は年少の子を見ていたのだが、年少の子は年長になった小僧さんでも見られるということで、年長の子を教えることになった。
年長の子の素読などを聞き、間違ってる所があれば指摘するのだが、かつて私が和尚にそうしていたように、内容について聞かれるようになった。
それが、意外に子供たちに好評だったらしく、最初は書物の一節の意味を聞かれたら教えたりしていたのだが、そのうち中国の戦国時代にあった戦いの解説や、或いは史実の人物の言葉や献策について解説するという講座の様なものをやるようになった。
まさに、歴女の面目躍如の薀蓄語りまくり講座なので、私も楽しかったりする。
その講座が何故か妙にうけて、小僧さんどころか、和尚まで気がつけば片隅でニマニマしながら聞いていたり、既に手習いを終えたはずの人たちまで噂を聞きつけてまた寺に来るようになって、大賑わいになってしまったのだ…。
どうしてこうなった…。
しかし、子供たちばかりか小僧さんや既に手の届かない所に行ったはずの、若手の家臣の子弟達までまた来るようになったおかげで、私に対する認知度は大いに高まった。
距離も多分、グッと縮んだはず…。きっと…。
ちなみに、素読などの定番の習い事は最年長の別の子が見ることになった。
美濃へ出陣した父や家臣たちの運命は如何に。