閑話十七 松平広忠 終わりの時
信広の宿敵、広忠視点の閑話になります。
天文十七年三月 松平広忠
儂は、見慣れたこの庭を朝からずっと眺めておる。
小姓らもみな下がらせ、一人考えさせてくれと。
かつては先の妻であった於大や嫡男の竹千代が戯れておったこの庭を。
あの頃の儂は今よりずっと笑っておったな…。
今は竹千代も於大も尾張の信秀殿の所で、客人の扱いを受けておるらしい。
安祥の信広が三河の軍勢を二万も率いて遠江に出陣したと聞いた。
二万といえば、この三河から出せる兵の最大動員数に近い。
近年これほどの兵を率いて他国へ出陣したのは我が父、清康以来か。
今川より先月、三月に遠江奪還に大軍を率いて出陣致す故、呼応して東三河の軍勢を集め安祥を攻めよと書状が届いた。
去年の吉田城攻めの折と、ほぼ同じ内容の書面だ。
違うのは、此度は太原雪斎殿だけでなく、義元公まで出陣されると言うこと。
つまり、今川の総力を遠江に出すと言うことなのであろう。
先の陣触れは振るわなんだ。
三千にも満たぬ兵しか集まらなんだ故、儂は家臣らと如何に少ない兵で信広を討つか額突き合わせて悩み抜いた。
そして、考えた策であったが、結局うまく行かなんだ。
上和田より後詰が来ねば或いは勝てたのかも知れぬが、それも含めて信広の策。
信広のほうが一枚上手であったということか…。
近ごろは、東三河の国人どころか奥三河の国人まで信広に靡いておる。
同じ松平一族ですら、今や安祥方の方が多いのだ。
儂は、深い溜め息をついた。
以前、信秀殿から来た和議の書状、あの内容は悪くはなかった。
実質的に安堵であり、臣従するのも信秀殿ではなく守護の斯波家、しかも口先だけにせよ信秀殿と同じ立場の同盟者になれと、そういう内容であった。
故に、あの書状が来た時、家中は割れた。これまでここまで割れることもなく、一途に松平宗家を立ててくれておった家臣らが割れたのだ。
しかし、今川には人質が居る。竹千代らは尾張におるが、代わりに差し出した家臣らの人質が子や親たちが駿府に居る…。
それ故、儂は今川を裏切る事が出来なんだのだ。
去年は無理をして兵を出した。負けはしたが今川に申し訳は立った。
しかし、また有為な家臣らが何人も討ち死にしたのだ。
家臣らの人質は大事であるが、彼らの命を守るために家臣らが死ぬのだ。
何のための戦であるのか、儂はあの戦のあと嘆息しか出なんだ…。
そして、此度の出陣。
陣触れは出した。しかし、集まった兵は二千にも満たなかった。
この兵力では安祥を攻めることなど自殺行為。
これ以上家臣や兵を損じては、岡崎の存続が危ういのだ。
だが、今川から与力として派遣されておる今川の家臣共は、城攻めが無理なら安祥の城下町や田畑を焼けという。
確かに、そのくらいなら出来ぬことも無いかも知れぬ。
しかし、安祥は乱取りはおろか、田畑を焼いたり苅田をすることすら禁じておる。
戦になっても雑兵は追わず、降伏すれば命もとらぬ。
つまるところ、三河での信広の評判はすこぶる良いのだ…。
儂は信広と常に比べられてきたが、儂の評判は必ずしも良くない。
儂とて同じ三河の民故、乱取りもせぬし田畑を焼くこともない。
しかし、儂から幾度となく安祥を奪還すべく攻めておることが、民には負担なのだ。
安祥のように銭にあかして民を救済したりする事も出来ぬ。
戦続きで村々が荒廃し、村を捨てた百姓共が西に流れていく事を止める力を儂は持たぬ…。
思えば儂は、父の背中をずっと追いかけてきた。
若くして三河を纏め上げた稀代の英雄、父清康を。
父が統一戦を始めた安祥を取り返したかったが、もはや叶うまい…。
そこへ、荒々しい足音が儂を現実に引き戻す。
今川から来ておる今川家臣三人衆が止める小姓らを振り切ってやって来た。
「広忠殿、出陣の準備は出来ましたかな。
岡崎勢が安祥を荒らせば、安祥勢は全てとは言いませぬが引き返しましょう。
安祥が戻ってくれば、岡崎勢はすぐに城に戻ればよいのです。
さあ、すぐに出陣なされよ」
「山田殿、岡崎は戦続きで領内は疲弊しきり、兵も集まらず、万が一攻められても籠城する兵糧すら事欠く有様なのです。
此度の出陣要請は、お受けすることは出来ませぬ」
山田殿の顔が怒りで赤く染まり大声で恫喝する。
「これまで散々義元公に世話になっておって、いざ今川が大事の時に手のひらを返されるのか!それが三河武士でござるか!」
悪しざまに三河武士をコケにされ頭に血が上りそうになるがぐっと抑える。
コヤツは話を聞いて居らなんだのか。
「そうは言われても、無い袖は振れぬのだ」
「広忠殿、いま岡崎が動かねば、義元公が武衛を蹴散らした後、松平に二心ありと疑いの目で持たれても申し開きできませぬぞ!
そうなれば、駿府で客人として遇されている岡崎から来ておる人質らの安全は保証できなくなりますな」
汚い奴らめ。結局それを出すか…。
大声を上げる今川家臣に気づいた儂の家臣たちがやってくる。
その中の年長者の大久保忠俊が宥めに掛かる。
「山田殿、一先ずお下がり頂けませぬか。
我らが殿と話します故」
忠俊は駿府に人質を取られている家臣の一人故か、仕方なしという表情を浮かべた山田殿らが他の家臣らに伴われて引き下がっていく。
「五郎右衛門、済まぬな…」
「いえ、主君を守るのは家臣の務めにて…」
そして、居住まいを正すと。
「殿、存分になされませ。
我らはそれに従います。
我らの人質の事は気になさいますな」
儂は忠俊の顔をジッと見つめる。
いつもと変わらぬ真摯な目を儂に向ける。
「済まぬ…。
儂は、もう何のために戦をしておるのか解らぬのだ。
三河の民の心は既に儂より離れ、信広に靡いておる。
そして、家臣らの人質を生かすためと兵を出せば、その家臣らが死んでいく…。
何のために今川に従っておるのか…。
何処で儂は間違えたのであろうか…」
「殿…、過ぎたことを考えても詮無きことにござります。
我等とて、織田を三河から追い出すには今川の力を借りるしかないと思い賛同したのです。
我等の人質が殿の判断を誤らせるくらいであれば、我等は人質に死ぬように言いまする。」
儂はそれを聞き、目から涙が零れ落ちる。
儂には過ぎたる家臣達よ…。
見れば忠俊の目からも涙が溢れておる…。
「五郎右衛門…、苦労を掛けるな…。
もう少しだけ考えさせてくれ。
明日には答えを出す故、出陣の準備だけはしておいてくれ」
「ははっ」
忠俊が静かに部屋を後にする。
そして、また一人になった。
儂はまた庭を眺める。
和議を入れ、斯波家に臣従すれば、また於大や竹千代と暮らせるであろうか…。
儂の目の前にかつて見た二人の戯れる姿が映し出される。
儂は思わず声をかけようと立ち上がった、すると背中に何者かがぶつかる衝撃と痛みが走る。
後ろを見ると首筋になにかが刺さった男が儂の方を睨みつけておった…。
そして、そのまま崩れ落ちた。
手には儂の血のついた短刀が握られておった。
ふと前を見れば、見知らぬ男が立っていた。
「我が主の命により、広忠殿を影守してござった。
失礼つかまつる」
そう言うと、儂の背中の傷を見ようとした。
儂は突然の出来事にされるがままであった。
その男は手際よく手当をしてくれた。
「傷は幸い肉で止まり、浅うござる。
手当をしておきました故、傷に障る様な事をせねば程なく治りましょう」
「その方、主に頼まれたと言っておったが、我が家臣の手のものか?」
「いえ、拙者は織田備後守様の姫の家臣でござる。
此方が姫よりの書状にござる」
書状を差し出し、そして息絶えた男を指差す。
「この者は今川の手の者にござる。
では、拙者はこれにて御免」
そう言うと、塀を軽々と飛び越え姿を消した。
あの者、只者ではないな…。
姫よりの書状を開いてみる。
『松平広忠殿
この書状を開いているということは、命を狙われたのでしょう。
この度の戦で今川が勝つことは叶いません。
人質も生きて戻るでしょう。
あなたのご子息の竹千代君は尾張に来て多くのことを学び立派に成長し、お父上であるあなたとまた会う日を心待ちにしております。
早く会いに来てあげてください。
吉 』
なんとも緊張感の無い手紙に儂は思わず笑ってしまった。
ん?書状はまだ有るな。
『お父上
竹千代はあつたのしょうにん、かとうどののべったくで母上とくらしております。
はやく大きくなってお父上のやくに立てるよう、日々がくもんにぶげいにがんばっております。
おわりにきて、もじばかりかさんすうもおぼえました。
きちというかわりもののひめがおしえてくれるのです。
おちちうえ、またあえる日をたのしみにしております。
竹千代』
『おまえさま
またかぞくそろってくらすことをゆめみておりまする。
ぶけのならわしなれど、たけちよがふびんでなりませぬ。
於大』
儂は、二つの手紙を読み、気がつけば笑顔で泣いておった。
止めどもなく涙がながれる。心のつかえまで洗い流されるがごとく…。
「於大、竹千代、待っておれ。
父はもう直ぐお前たちの元へ行くぞ」
儂は心が決まった。
「誰か有る」
大きな声で呼ぶと家臣が駆けてくる。
家臣が部屋に入ると声を上げる。
「殿。
なっ、この者は小者の弥八ではござらぬか」
そして、手の短刀に目が行く。
「この短刀、血がついておりまする。
もしや…。
大事ござりませぬか」
「うむ。危うく刺される所をその首に刺さっておる物の持ち主に助けてもらったのよ。
傷の方も、手当を受けた故大事無い」
「なんと、そのような事が…」
さっき出ていった忠俊も掛けてくる。
「殿、声がしましたが。何事にござりますか」
「五郎右衛門、直ちに今川の家臣を拘束せよ。
手向かうようなら斬っても構わぬ」
「はっ…?」
忠俊はいきなりの言葉に驚く。
しかし、直ぐに血の付いた短刀を握りしめた弥八の遺体に目が行くと、事情を察する。
「ははっ」
忠俊が跳ねるように飛んでいく。
儂は、ここ数年感じたことがないほど気持ちが軽やかであった。
今川家臣は、結局為す術無く拘束され、牢に入れられた。
儂は、家臣らを前に宣言する。
「皆の者、これまで苦労をかけたな。
儂は、先の和議を受け入れ、斯波家に臣従することと致した。
ただ、先の和議の頃よりは時が経ちすぎておる故、同じ条件かどうかは解らぬ。
しかし、儂は松平宗家が続くのであれば、どんな条件も受ける気でおる。
いずれにせよ、全ては遠江の戦の後で有るが、吉田城へ来ておる斯波殿に書状を出す。
この度の戦には岡崎は不干渉という事と致す」
話を聞いた家臣らが様々な表情を浮かべる。
そのうちの一人が声を発言する。
「殿、儂らの人質はどうなるのでござろうか…」
忠俊はああ言っておったが、皆が皆そう思っているわけではあるまい。
「此度の戦、恐らくまた斯波殿が勝つであろう。
そうなれば、儂は人質は皆戻ってくると考えておる。
遠江の国人共は皆斯波家に臣従することとなる。
斯波家は今川に遠江の国人らの人質を返すように要求するであろう。
それが、恐らく和議の条件の一つであることは間違いない。
そうなれば、遠江だけでなく、新たに臣従を申し出る我等の人質も返すように要求するであろうからな」
人質を出しておる家臣らが一先ず安堵の表情を浮かべる。
本来なれば、竹千代もその一人であったのだ…。
忠俊が皆を代表して発言する。
「我等は殿の判断に従いまする」
「「「従いまする」」」
そう言うと皆平伏する。
「皆の忠心、嬉しく思う。
では、遠江の戦の間、我等は動かぬが、城内、領内の警戒は気を緩めぬよう頼むぞ」
「「「「ははっ」」」
そうして、儂は儂の戦を一先ず終える事と致したのだ。
備後殿の娘、吉姫か。
和議がなればどんな御仁か一度、此度の礼を兼ねて会いに行くとしよう。
時系列的に此方が先立ったので、此方を先に書きました。
これで三河の問題は解決です。