閑話十六 織田信秀 開戦前夜
信秀視点の戦の前夜の話です。
天文十七年三月 織田信秀
安祥を出立すると一路吉田城へ向かう。
各所にあった今川勢の城は去年の戦の後、殆どが既に逃げ出しており、安祥方の武将が入っていると聞く。
三河南部の今川方で最後まで抵抗した上ノ郷城の鵜殿長持殿も一族郎党全てに手出しせぬ事を条件に退去させた。
これで岡崎より南部は全て安祥方、つまりは武衛様に臣従したという事になる。
安祥を出て翌日、吉田城に至った。
既に尾張の軍勢は吉田城周辺へ集結しており、彼処で陣を張る天幕が見える。
この度は、尾張の国人や豪族ばかりでなく、土岐氏に仕えていた者たちも多数陣借りで来ている。
戦で功を立て、良き条件で仕官にありつこうとして居るのであろう。
頼芸様は健在であるのだが、城もなく儂が恥をかかぬ程度の生活が出来るよう、支援しておるが多くの家臣を持つことはもはや叶うまい。
しかし、もし将来美濃と再びこじれた時、この頼芸様の存在が大義名分として非常に大きいことは間違いない。
とはいえ、頼芸様は頼純様が急死なされてから、もはや美濃への復権は口にされなくなった。
尾張の屋敷で、日がな絵を描かれておられるだけだ。
一枚、絵を頂戴したが実に見事な鷹の絵であった。
そう言えば、同じく美濃を追われた揖斐周防守殿と、一色頼栄殿も尾張に居るはずであるが、今どうされておられるのか。
頼芸様と和解されたとも聞いたのだが。
土岐の元家臣らの馬印を見ていたら、つい頼芸様や土岐の一族の事を考えておったわ。
吉田城へ入り、随行の馬廻衆を休ませると、評定の間へ向かう。
既に先触れによって知らせておったので、諸将らが揃って待っておった。
上座のすぐ下には守護代二人が既に並んで座っており、儂は向かい側の席に座り武衛様の到着を待つ。
暫くすると、武衛様の到着を告げる声が上がり、皆平伏して迎えた。
「皆、大儀である。
面を上げよ」
武衛様が皆を見渡すと声を掛ける。
「此度の戦に、これほど多くの武士が集い、余は嬉しく思っておる。
我が父が遠江で辱めを受けてより三十余年、やっとここまで来た。
今川を降し、我らが意地を見せようではないか。
諸将らの奮闘を期待する」
「「「「はっ」」」」
武衛様が訓示され、退席される。
武衛様は、此度はこの吉田城に詰められ、味方する国人や土豪らの対応をしていただける。
去年より調略は進めておったが、武衛様がここに来られた事で、更に臣従を申し出る国人らが増えたのだ。
これが権威なのかと、儂は改めて思い知らされたわ。
守護代以下、諸将が評定の間に残る。
守護代二人が儂に頷いてみせ、儂が諸将に声を掛ける。
「武衛様のお言葉にもあったが、これほど多くの味方の参陣を得て、望外の喜びである。
この度の今川との戦は、我らの命運を左右する大事な戦である。
我らは守る側である故、負けねば勝ちであるが、それだけで満足してはまた今川は出てこよう。
それ故、この機会に軽々には出てこれぬ様叩く所存である」
一先ず言葉を切り、諸将らを見渡す。
戦の前の高揚感もあり、皆戦意に漲っており、それぞれが頷く。
「その為に、我らは去年より準備してきた。
この城と曳馬城には十分な物資が蓄えられておる。
更には水軍衆も来ておる」
水軍まで来ていると聞いて彼処から声が上がる。
「策は既にあり、後は実行に移すのみである。
諸将らの頑張りで、また我らは大きな勝利を獲ることが出来るであろう」
「「「おおう」」」
場内の興奮は更に高まり、皆から声が上がる。
「では、更に細かい策は主だった将らで話し合う故、他のものは出陣に備えそれぞれ準備して欲しい」
「「「ははっ」」」
そう言うと、主だった将以外は皆評定の間を後にする。
弟の信康が先ず声を上げる。
「して、兄者、此度はいかが致す」
皆が儂を注目する。
「うむ。
此度は軍を二つに分け、本隊が主戦場を支えている間に、もう一つの別働隊が敵の後背に回り、横槍致す作戦で考えてる」
「ふむ。
ちなみに、此度は敵味方どのくらいの兵数なのか把握しておられるか?」
「此度は、手の者の調べによれば今川は駿河と遠江の残余を併せて二万五千。
我らは、尾張勢が約二万、これに美濃から来た土岐の旧臣らが加わっておる。
更に、三河が二万。そして、遠江が五千の四万五千。
我らのほうが数の上では圧倒しておる」
「ほう。
これほどの兵が集まるとは…。
しかし、我らは兵数は多けれど、寄せ集めの感は否めませぬな」
「うむ。故に、その辺りも考えて兵を配するつもりである」
岩倉の信安殿が発言する。
「して義兄上、どの様に配する?」
皆を手招きして円座に固まると、続きを話す。
「主戦場は曳馬城の東、つまりは天竜川の西の平原で考えておる。
ここを信広率いる三河勢と、井伊の遠江勢に任せるつもりでおる。
陣借りの美濃勢なども全て信広麾下に置く。
兵数的には二万五千と互角故、敵を支えるくらいは出来よう」
「では、我らは?」
「尾張勢は別働隊として敵の背後を叩く」
「二万丸ごと別働隊にするのか?」
「うむ。
それだけの兵で今川勢を東西より挟み撃ちとし、逃さぬつもりじゃ」
「ふむ。では、いつ出陣する存念か」
「後で知らせるが、明日の明け方迄には出陣する。
そのつもりでおってくれ」
「承知した」
口々に返事すると、諸将は陣へ戻っていった。
その後、儂は用意を頼んでおいた別室へ入ると、呼んでおいた者達を呼びにやる。
暫しすると、一人ずつ、皆で三人の武士が入ってくる。
それぞれ顔を合わせると、皆驚いた顔をするがおとなしく座った。
「此度の呼びかけに応じてくれて感謝する。
特に、服部殿、よく来てくれたな」
「武衛様より呼ばれて来ぬわけにも参りますまい」
「ふむ。
いずれにせよ、粗略には扱わぬ故、これからよろしく頼むぞ」
「はっ」
話が済むのを待っていたかのように、水野信元殿が発言する。
「備後殿、何故ここに佐治為景が居るのでござるか」
悪しざまに呼ばれて佐治殿が水野殿をにらみつける。
儂は、双方を宥めると答える。
「儂が呼んだからだ」
水野殿が不服そうな表情を浮かべる。
「詳しくは戦の後に改めて話しをするが、三方とも必要だから呼んだのだ」
「では、我らになにをしろと仰るので?」
「勿論、書状にもあったように水軍の仕事よ。
津島湊からの船団の護送と、今川方の水軍の阻止を頼みたいのだ。
それと併せて、夜陰に乗じて行う高天神城攻めの支援を頼みたい。
儂の手の者の調べでは城主小笠原氏清殿は遠江衆として出陣し、城には多くは居らぬはず。
しかし、事情が変わっておるかも知れぬし、後方にも敵が居るかも知れぬ。
その場合は、無理攻めせず直ちに撤収する故、引上げを頼みたいのだ」
「城攻めにござりますか。
城攻めには我らも兵を出すべきでござろうか?」
「いや、そなたらの兵らは撤兵する場合の海岸の確保をしてくれれば良い。
水軍の兵を陸地で擦り減らすなど愚の骨頂故な。
この戦いで功を示せば、儂は水軍衆を粗略に扱うことはせぬ故、宜しく頼むぞ」
「「「ははっ」」」
三人が帰っていくと、儂はまた別室に向かう。
そこには此度の戦の鍵を握る者が待っておった。
「済まぬな、待たせてしもうた」
「いえ」
「松井殿、先の戦以来か。
傷もすっかり癒えたようで何よりだ。
お父上の事は残念であったな…」
「はっ。
お気遣い頂き感謝致す」
「先ずは、儂の呼びかけに応じてくれて感謝する。
松井殿の様な優れた武人を味方に加える事が出来て嬉しく思っておる」
「勿体なきお言葉…」
「では、時間もあまりない故、本題に入る」
「ははっ」
「此度、我らは本隊を天竜川の西に置き、今川の軍勢を受け止める構えである。
そして、別働隊が松井殿の城である二俣城の北で天竜川を渡河し、今川勢の背後に出て、背後から攻めるつもりじゃ。
松井殿には、その案内を頼みたい」
「承った。
日によって水かさは変わる故、必ずではござらぬが、徒歩にて渡れる場所がありまする。
そこを案内致しましょう」
「うむ。よろしく頼む」
「して、いつ渡られますか」
「今晩、一刻後に出陣する故、現地に着き次第直ちに渡河致す」
松井殿が驚き目を見開いた。
「こ、今晩直ちにでござるか?」
「うむ。渡河は早いほうが良い故な。
太原雪斎と鉢合わせをしてはたまらん」
それを聞き松井殿が思わず笑う。
「ぷっ、はっは。いや、失礼致した。
確かに、そうですな。
では今晩、案内致しまする」
「うむ。頼んだぞ。
では、一刻後に出陣致す故、松井殿も準備を頼む」
「ははっ。
ところで、拙者がこのまま今川に備後様の策を報告に行くとは思わぬので?」
「松井殿、儂はそなたをかっておる。
重き傷を負い、担ぎ込まれた松井殿の言葉に儂は真の武士を見たのだ。
松井殿は確かに此度儂の呼びかけに応じた。しかしそれは故あってのこと。
故なければここには居らぬだろう。
松井殿がもし儂を謀り今川に行ったとしても、それは儂の人を見る目が無かったということ。
その程度の目しか持って居らなんだということよ。
もしそうなったとしても、儂はその方を恨んだりせぬ。
また、戦場にて相まみえるだけよ」
「…、それ程迄に拙者のことを。
この松井宗信、必ずや備後様の期待に応えまする…」
「うむ。よろしく頼む」
「ははっ。ではまた後ほど」
松井殿が部屋を後にする。
これで、一先ず全ての手は打った。
後は、実際に戦ってみないとわからぬな。
太原雪斎は既に動いておる事は報せにて把握しておる。
しかし、何処に動いておるのか、二俣城に来るのかそれとも主戦場にくるのか、そこまではまだわからぬ。
それ故、二俣城の寝返りが露見する前に渡りきらねばならぬのだ。
儂は直ちに一刻後の出陣準備を命じると、束の間の休息を取ることにした。
これより、一刻後にはまた馬上の人となり、いよいよ戦よ。
準備はすべて済み、後は戦です。