魔女
あれからどれ位の距離を走破したのだろうか?
凄惨な殺し合いの場から、だいぶ離れたと思われる森の中で、黒ネコが不意に立ち止まった。
「・・・ここまで来れば、死肉を漁るグールの知覚範囲外よ」
つまりは安全圏ということか。
しかし・・・気になる単語を口にしたな。
「グール?」
聞いたことのない名称だ。口ぶりからして魔物の一種か?
だが、そんな私の呟きなど無視して、黒ネコはその姿を消した。
隠れたのではない。文字通り、影も形も残さず消えたのだ。
しかもほんの一瞬の間に。
・・・騙されたのだろうか?
思考は突然の事態の急変に混乱したままだが、無意識に肉体は警戒態勢へ移行。腰をかがめ、短剣を両手に構える。
些細な状況の変化、異臭がしないか、音を注意深く探る。
「・・・・・・」
生き物の気配は感じない。
だが、何故か気を抜いてはいけないと本能が警告している。
例えるなら、ここは魔獣の巣の中だ。
一見して何の変哲もないこの森が、今の私にとっては死地同然。
背中に嫌な汗が流れる。
集中力は極限にまで達し、五感が研ぎ澄まされるのが分かる。
そして・・・なんとなく。
本当にただ、何となくという違和感を覚え、上に視線を向けた。
大木に相応しい太い幹、そこから伸びる枝先に、ソレはいた。
「やっと気付いてくれた?」
長い黒髪の妖艶な美女が、面白いものでも見つけたとばかりに、私を悠然と見下ろしていた。
そして同時に悟る。
この女こそ、不気味なまでの緊張感を生み出していた発生源だと。
見た目に反して、あの女は人外の何かだと。
だからこそ、私の口は無意識に女に問いを投げかける。
「・・・お前は、何だ?」
すると、黒髪の女が目を細めた。
同時に発する、威圧的な見えない圧力が、確かに私の全身に圧し掛かった。
歯を食いしばっていなければ、その場に膝を屈していたであろう不可視の圧力は、しかしすぐに霧散した。
「あたしはメルヘイム。ご覧のとおり魔女よ。貴方の名前は?」
先ほどの威圧など、まるで無かったように気軽に自己紹介してくるとは・・・。
しかし、それよりも気になるのは魔女という単語だ。
魔女というのは、一般的な職業なのだろうか?
そんな疑問が脳内を埋め尽くすが、とりあえず、それは後回しだ。
何せ今は私の名を聞かれているのだから。
相手は正体不明の女だ。だが、名を先に名乗った。
ならば、私もそれに応じなければ。
・・・だが、答えようにも私は自分自身が誰かも分からない。
名前すら、未だに思い出せないのだ。
「・・・・・・・・・」
「・・・名乗れない理由でもあるの?」
こちらの沈黙を見かねてか、メルヘイムと名乗った女が怪訝そうに私を見つめている。
ここは・・・正直に答えるべきだろう。
これはあくまで私の勘だが、メルヘイムという魔女に隠し事をしても、即座に看破されそうだ。
「いや、私も知らないんだ」
「はっ?」
うん、こんな事を言えば、誰でも困惑するよな。
だが、ここは誠意を見せる意味でも、正直に答えるしかない。
「正確に言えば・・・私は自分が何者なのか、思い出せないんだ。どうして奴隷になったのか。どこで生まれ、自分が何歳なのか。名前すらも分からない」
「記憶喪失?・・・嘘を言ってるわけでは・・・・・・なさそうね」
「信じてくれとしか言いようがないな、こればかりは。・・・一つ、気になっている事があるんだが、魔女というのは一般的な職業なのか?」
この際、気になっていた事を聞いてみよう。
記憶がないのだ、恥も外聞も気にしていられない。
「・・・・・・まさか、魔女という存在すらも忘れているの?」
「ああ。話のところどころ、分からない単語が幾つかあって、意味不明だ。魔女はその一つに過ぎないな」
「・・・ふーん、魔女を知らない、か。随分と希少な人間ね、貴方」
「そうなのか?」
「ねえ、名前が思い出せないなら、私が当面の繋ぎとして、仮の名前を付けてあげましょうか?」
「ぜひ頼む」
私の即答に、なぜかメルヘイムの全身が石像のように固まった。
そしてすぐに
「正気?」
と、変な物でも見たかのように、呆れた視線で私を見つめている。
ひどい言われようである。
まるで、厚意に甘えた私が馬鹿みたいではないか。
「なんだ?何か拙いことでも言ったか?」
私自身、どんな名前を名乗ればいいのか見当もつかないので、なにか適当な呼び名でもいいので欲しかったのだが。
「・・・魔女に仮の名前でも名付けられたら、便利な奴隷の誕生よ」
「そうなのか?」
だとしたらひどい女だな、こいつは。
「・・・・・・どうにも本当みたいね。信じられないわ、魔女を知らないなんて」
「そう言われてもな・・・」
事実だから仕方ない。
しかし、そんなに驚かれることなのか、魔女を知らないだけで。
そっちの方が私にとっては驚きなんだが。
「・・・貴方、これから先どうするの?行き先に当ては・・・あるわけないか」
「ああ、全くないな」
自慢じゃないが、一欠けらもない。
「そう。・・・ならあたしに付いてこない?とある街まで案内するわ。ああ、安心して、奴隷として売り飛ばしたりしないから。それと、貴方がその街での生活基盤を築くまでは面倒も見てあげるし、なんだったら後ろ盾にもなってあげる。あたし、その街ではそこそこの地位を確立してるから」
魅力的すぎる提案だ。むしろ願ったり叶ったりだが・・・。
「なぜ、そこまでしてくれる?」
そこだけが気になる。善意だけというわけではなさそうだが。
「もちろん、タダではないわ。貴方には見返りを求める。お互いに損がないように。どうする?あたしの提案に乗る?乗らない?」
・・・答えなど、一つしかないだろう。
それに例え提案を断ったとしても、無理やり拉致されそうだ。
「乗るよ。それ以外に選択肢はなさそうだ」
「賢明な判断ね」
ニコリと上機嫌に微笑むメルヘイム。
だが、私の目には底の見えない冷笑に映った。無論、それを口に出すような愚行は犯さない。
こうして色々あったが、私は一人の魔女に拾われ、もとい保護された。
そして誘われる。
混沌の街、エルヴァースへ。