あかね雲
「様子がおかしい。息をしていないんだ」
うだるような、南国の夜。
昼の顧客トラブルで高ぶった脳をやっと鎮めて浅い眠りについたばかりなのに、久しぶりのLINEの呼び出し音に覚醒させられる。
携帯電話の時刻は、23時30分。
日本時間は、夜中の2時過ぎ?ぼやけた頭で時刻を計算する。
胸にまたあの痛みが広がる。
ゆっくりと、ベッドサイド、間接照明のランプを点灯する。
「どういうこと?」
夜中に日本からかかってくる電話がいいニュースのはずもない。案の定、電話口のタケシは泣きじゃくっている。
いつも、そう。
自分の不安をお構いなしにぶつけてくる。
「はなちゃんが、、はなちゃんが、、死んじゃうよ。。」
「さっきまで元気だったのに。なんで。。」
胸の痛みは、激痛に変わって行く。。
そっか。
別れってこういう風に訪れるのかあ。
はなちゃんは、ダックスフント。
12歳だった。
私達が、結婚15年目に引っ越したマンションで初めて飼った犬。
それまで夫婦2人と猫2匹と暮らしていたわが家。引っ越しを機に、タケシがどうしても飼いたいと言い張って、突然ペットショップで買って来たのだった。赤茶色の美人の子。いっぺんで私は彼女を好きになった。
倦怠期が始まってだいぶ経ち、子供も居ない私達夫婦にとって、はなちゃんは、新しい風を運んで来てくれた。タケシが連れて来たのになぜか私にばかりなついて、しまいにはタケシが私に近づこうとすると、低いうなり声をあげるようになった。
はなちゃんで味をしめたのか、その後、次々と犬を飼い始めたタケシ。夜遅い仕事をしている彼を待たずに、犬猫達と寝る生活は何年も続いた。
小さな商社で創業期から、社長の右腕として働いていた私も、会社がどんどん大きくなるにつれ忙しくなった。幼い頃から、自分は漠然と普通の結婚をして、普通に子供が産まれて平凡な人生をおくるんだろうなと思っていたのに、どうも様子が変わっていった。
収入も上がり、周りからは、キャリアウーマンのレッテルを貼られた。一方、タケシは、見栄っ張りで稼いでもすぐに全部使ってしまう性格。仲間と立ち上げた会社も、軌道に乗らず、いつまでもくすぶっていた。
そんな中、タケシの浮気が発覚した。
私は、半狂乱になった。
相手は、会社の事務の女の子。
自分の会社の子に手をつけるなんて。
それから、私の心は凍った。
普通に結婚をして、普通に子供を産んで平凡に生きるというささやかな希望は、無くなった。
ちょうどタイミング良く、私自身の仕事は上手くいく一方で、海外の顧客も多く抱え、忙しくなった。仕事と家の往復で毎日家に帰っては疲れて眠る生活。タケシが帰って来なくても、はなちゃんと一緒に眠れば寂しく無かった。
そんな数年が過ぎ、タケシの会社もいよいよ傾いて、彼女にも振られた様子で、私の方はもう、そんな家庭内別居の生活にもとっくに慣れていた。会社の資金が足らなくなったと言われては、お金を工面するのも、なんだか当たり前になっていた。
そんなときに、M川さんに出会った。
仕事関係の知り合いで、ひと目見て好きになってしまった。
相手もそうだった。
でも、彼には再婚したばかりの妻がいた。
M川さんとの恋愛は、私にとって、初めての恋だった。
生活の全てがM川さんの事を考える日々に変わった。仕事の面でも成功している彼は、私に様々な 知識や人脈を与えてくれた。
家に帰っても、ほとんどM川さんの事を考えている私は、病的だった。はなちゃんが近寄って来ても以前のように抱きしめて愛情をかける事も無くなった。はなちゃんは、いつも私を寂しそうに見上げていた。そして、少しだけタケシになつくようになった。
そんな数年が過ぎ、M川さんとの別れは、突然やってきた。
奥さんが妊娠したのだった。
私の心は壊れた。
何日間か床に伏せって仕事を休んだ。
はなちゃんは、黙って心配そうに私の枕元に丸くなっていた。
海外赴任の打診が来たのは、その頃だった。
新規プロジェクトの立ち上げで、発展途上国への進出。
会社の命運をかけて、社長の右腕の私が行くことになった。
私達は、離婚届を出した。
タケシの会社は倒産して、友達の会社を手伝う事となった。
彼は、会社も妻も失った。でも犬猫達は、すっかり彼になついていた。
私は、南国へ旅立った。
危ない地域なので、はなちゃんはとても連れて行けなかった。タケシは、一生面倒をみると言って、はなちゃんを引き取った。
海外赴任も数年経ち、現地での生活も軌道に乗ってきた。
新しい彼氏も出来たが、妻子持ちで、結局、泥沼になる前に別れた。
自分が何をやりたかったのか、もう分からなくなってきた。
仕事は相変わらず忙しく、海外拠点もどんどん大きくなっている。
今日は、珍しく客からの深刻なクレームで、頭を痛めていた。もう疲れたな、死にたいなあなんて、漠然と考えていた。
そんな夜に、突然LINEが鳴った。
はなちゃんが、死んだ。
突然死だった。
私の中で、何かがはじけた。
慟哭した。
これまで、辛い時も泣いた事は無かったのに。
涙が止まらない。
はなちゃん、ごめんね。ごめんね。
寂しかったね。
胸の痛みは、極限まで達した。
次の日の夜、仕事のアポを全てキャンセルして、緊急帰国した。
はなちゃんに会った。
眠るような姿だった。
お金の無いタケシの代わりに葬式代を出し、鎌倉のペット霊園で2人だけで荼毘に付した。
タケシとは、またお金のことで少し言い争いになったが、お互いに相手を攻める気力は残っていなかった。
とんぼ返りで南国へ戻った。
到着寸前の飛行機の窓下には、湿地帯の泥と緑が果てしなく広がっている。
私は、またここで今日から生きていかねばならない。
空港に降りたったのは、夕方だった。
パームツリー越し、真っ赤に染まったあかね雲を見て、がく然とした。
大きな大きな雲。
それは、まぎれも無く、赤茶色のダックスフントの形を描いていた。