出発
――僕はここで生まれたって?
ミューさんが去ってからも、僕の頭の中ではそのことがグルグルと回っていた。
でも、それってどういうことだろう?
僕は草の上に座り、その意味について考える。
――ここで生まれたのだったら、すべての記憶が無いんじゃないのか?
僕は言葉を話すことができる。
文字だって読むことができた。
いろいろな物の名前だって知っている。
シリカのことも、ずっと仲間だったような気がしている。
それって、すべての記憶が無いとは言わないんじゃないだろうか?
僕はミューさんの言葉を思い出す。
『まあ、君みたいな新人は自分のことを忘れちゃってるから仕方がないんだけど』
そうか、僕は自分のことだけ忘れてしまったのか。
それならばなんとなく納得がいく。
でも『生まれた』とはどういうことなのだろう。
レディウ人として生まれたから自分のことを忘れちゃったとか?
それって、レディウ人の前は、なにか別の人物だったということ?
うーん、わからない……。
「とりあえず、服を着るか」
一人で悩んでいてもしょうがないので、僕は巾着袋の中身を草の上に並べてみた。
トランクス、シャツ、黒スラックス、ベスト、靴下、革靴、ボウタイ、そして……燕尾タキシード?
「あはははは。ミューさんって、どんな趣味してんだよ」
乾いた笑いが、誰も居ない花畑に吸い込まれていく。
このセットはまさに執事服。しかし服はこれしか入っていない。
仕方がないので僕は服を身に付けた。サイズがぴったりなのがなぜか悔しい。
「きゅるるる~!」
花畑の執事誕生――なんてことは叫ばなかったが、この格好を見てシリカは喜んでいるようだ。
さらに巾着袋の中には、大きめの封筒が一通入っていた。
「中身は何だろう?」
出てきたのは地図と鍵。そして説明書だった。
「なになに……?」
説明書に書いてあったのは、こんな内容だ。
ようこそミモリ市へ。
あなたには無料でアパートの部屋が支給されます。同封されている鍵はその部屋の鍵です。
アパートには食べ物も着替えもあります。どうぞご自由にお使い下さい。
わからないことがあったら学園に通って下さい。何でも教えてくれます。
アパートと学園の位置は、同封の地図に示されています。
それでは快適な市民生活をお過ごし下さい。
ミモリ市長。
早速、地図を広げてみる。
そこには紙一杯に町並みが描かれていた。地図のタイトルには、大きく『ミモリ市』と書かれている。
「ここは、ミモリ市っていうのか……」
地図で最初に目を引かれたのは、真ん中に描かれている緑色と青色の大きな円形の場所。
「公園?」
不思議に思った僕が円形の場所に目を近づけてみると、そこには『ミモリの森』と書かれていた。さらに、赤いマジックの汚い字で『ココ』と書かれている。
「ということは、この場所か?」
ここは一面に青い花が咲いていて、その周りは森に囲まれている。
一方、地図の円形も、真ん中が青色でその周りを緑色が囲んでいた。
円形の周囲を見ると、人々の住む街らしきものが描かれている。それはミモリの森を囲むように広がっており、街の中にはアパートと学園の絵がいくつも描かれていた。
「アパートと学園が沢山あるぞ……」
この鍵のアパートはどこだろう?
それはすぐに見つかった。
一つのアパートの絵を囲むように、赤マジックで丸印が描かれていたからだ。横に『二〇一号室』という文字もある。きっとこの鍵の部屋の番号だろう。
そしてアパートの近くには、同様にマジックの丸印で囲まれている学園もあった。
「きっと、この学園に通えって意味だよな……」
幸いなことに、丸印のアパートと学園は森の出口の割と近くだった。これならば、歩いてもすぐにアパートにたどり着けそうだ。
「それにしても汚い字だな」
地図に書かれた赤マジックの文字は、どれも丸っこく歪んでいる。きっとミューさんが書いたに違いない。
そこで僕ははっとした。
「そうだ、市役所はどこだ?」
ミューさんに会いたい。じゃなかった、彼女の勤務態度に文句を言わなくちゃ。
僕は一生懸命、地図上で市役所を探す。が、それはどこにも描かれていなかった。
「ちぇっ、なんだよ……」
とりあえずアパートに行ってみよう。
ちょうどお腹も空いてきたことだし。
僕は荷物をまとめて立ち上がった。
「おいで、シリカ」
出発しようと僕はシリカを呼ぶ。が、何も反応はない。
さっきまで僕の周りでちょろちょろと走り回り、きゅるるる~と鳴いていたというのに、一体どこに行ったのだろう?
「おーい、シリカ!」
慌てて周囲を見渡す。しかしその姿はどこにも見えなかった。
――ちぇっ、どこに行っちゃったんだよ。
ミモリの花畑には、さっきミューさんがスクーターでやって来た一本の小路が通っていた。よく見ると、その小路に沿って小川が流れており、小川の両脇には草が生い茂っている。シリカが隠れているとしたらその草むらの中か、青い花畑の中しか考えられない。
すると、少し離れた草むらからガサガサという音がした。目を向けると、ひょっこりと現れたのは白く長い耳。
「なんだよシリカ、そこに居たのかよ」
僕はほっとしながら草むらに向かって歩く。シリカも僕の足音に気付き、草から顔を出してこちらを見た。
「えっ!?」
驚いて僕は足を止める。なぜなら、そのトリティはシリカではなかったからだ。
耳はシリカにそっくりだが体の色が違っていた。そのトリティの体の色は茶色だったのだ。
――トリティ違い?
確かシリカは、耳も体も白色だった。
「きゅるるるる!」
僕の驚きをよそに、そのトリティはシリカにそっくりな鳴き声を残してどこかへ走り去って行く。
周囲をよく見てみると、その他にもトリティがいるのがわかった。この花畑には、何匹もトリティが住んでいるようだ。
「おーい、シリカ!!」
僕は大声で叫ぶ。
すると、小川の方から一匹のトリティがゆっくりとこちらに向かって歩いて来るのが見えた。それは全身が真っ白なトリティ。
もしやと思いながら近づいてみると……間違いない、シリカだ。口元の黒い斑点に見覚えがある。
「おいシリカ、どこに行ってたんだよ」
僕はつい嬉しくなり、シリカを抱き上げようと近づく。するとシリカは立ち止まって、キッと僕を睨んだ。
「きゅるる! きゅるる!」
構わないでほしいという強い拒絶。そんな鳴き声に、僕は思わず足を止めた。シリカをよく見ると、長い耳が変な格好をしている。
耳の裏側を上にひっくり返し、まるでお椀のような形。そして、そこにたっぷりと水を溜めていた。
「お前、水を運んでいる……のか?」
一滴もこぼさないようにと、そろりそろりと歩みを再開したシリカ。僕もゆっくりとシリカの後を追った。
しばらくしてシリカがたどり着いたのは、僕が最初に立っていた場所だった。そして、シリカはその場所に水を撒く。
――この場所にいったい何があるんだろう?
一仕事やり終えたという風に、シリカはほっと一息をつく。
「きゅるるるる~」
そして僕を振り返り、満面の笑みで鳴いた。
僕は思わずシリカを抱き上げる。ふさふさの毛が気持ちいい。
「いなくなった時は、どうしようかと思ったよ。ほら、出発するぞ」
「きゅるるるる~」
僕はシリカの頭を撫でると、地図を取り出し、アパートを目指して出発した。