異変
午後のレディウ文学の授業では、僕はネフィーの隣に腰掛けた。
ぼんやりと授業を聞きながら、お昼の会話を思い出す。
『私は一度ならトリティになってみたいな』
ネフィーの言葉が頭の中でグルグルと回る。
彼女なら、「移植手術をしてでもトリティになりたい」なんて言い出すんじゃないだろうか?
でも実際に移植手術をしたら、その後はどうなるのだろう?
僕は、ジンク先生の研究室でのメモを開いてみた。
まず、天使のレディウ人の半減期は五年九ヶ月。
つまり、移植手術をしてから六年くらいでトリティに変身してしまう可能性があるということだ。
そしてトリティに変身すると、その半減期は一年と十一ヶ月。つまり、トリティでいられる期間はほぼ二年間なのだ。この時間を長いと思うか短いと思うかは、その人のトリティに対する想いの強さによるだろう。ネフィーなら「短い!」なんて言い出すんじゃないだろうか。
しかしその後が問題だ。
またレディウ人に戻るのはいいが、記憶を失っちゃうし、半減期はたったの三日と十六時間だし……。
ダメだ。トリティ体験は危険すぎる。レディウ人のままで千六百年の半減期を生きる方が、きっと楽しいに違いない。
もしネフィーが移植手術をしたいなんて言い出したら、そんな風に説得しようと僕は心に誓った。
「なにボンヤリしてたの?」
ネフィーの声で我に返る。前を見るとちょうど授業が終了したところだった。
「いや、まあ、ちょっと……」
――トリティに変身するのはやめてくれないか。
さっきまで思考を占領していたネフィーへの忠告を、いつ言ったらいいのか僕は迷っていた。
そもそも、移植手術をしたいなんて、ネフィーが言い出すとは限らないし……。
「ほら、ぼやぼやしないで行くわよ、ミモリの森に」
本来なら次は生物学の授業なのだが、ジンク先生が消えてしまったので今日は休講になっている。だからレディウ文学が終わったら、すぐにミモリの森に行こうと話し合っていた。
「ああ、シリカも待ってるしな」
きっとシリカはジンク先生の芽に水をやりたくて、アパートで首を長くして待っているに違いない。
僕たちが立ち上がったその時――異変が起きた。
「きゃっ!?」
ネフィーの声が教室に響く。
見ると彼女は床に倒れていた。どうやら何かにつまづいてしまったようだ。
「あはははは。ネフィー、そんなに急がなくてもジンク先生の芽は逃げないよ」
しかしネフィーの顔は青ざめていた。
「あ、足が、足が動かないの……」
体を起こし、床に座ったままで足首を手で押さえるネフィー。転んだ時にくじいてしまったのだろうか。
「大丈夫?」
僕はネフィーに近寄り、しゃがみこんで足首をそっと触ってみる。くじいたのであれば彼女の表情でわかるはずだ。
「!?」
手に伝わる彼女の足の感触に、僕は自分の感覚を疑った。
――なんだこれは! まるで石のようじゃないか!?
ネフィーの足先は、石のようにカチカチに固くなっていたのだ。
「足首が、足首が動かせない……」
「ネフィー、とりあえず医務室に行こう!」
僕はネフィーを背負って医務室に向かう。
途中、友人たちにからかわれて恥ずかしい思いをしたが、そんなことは軽く吹っ飛んでしまうくらいの事態が起きていることを僕たちは医務室で知る。
ベッドの上で靴とソックスを脱いだネフィーの足先は――青白い光を放っていたのだ。
ネフィーの足先が放つ青白き光。
その光は、夢の中の女性と全く同じだった。
「えっ? なんで……」
僕は言葉を失う。
事態を重く見た学園は、すぐに救急車を呼んでくれた。僕もネフィーに付き添って救急車に乗る。
病院に着くまでの間、ネフィーは複雑な顔をしていた。
「私……、トリティになっちゃうのかな……」
体が青白く光り出す現象。これはアクチニウム化に違いない。
ネフィーもそれを察しているようだった。
「これがアクチニウム化だったら……の話だけど」
やっとのことで僕は重い口を動かす。
アクチニウム二二八の半減期は六時間。となれば、ネフィーは明日の朝にはトリティになってしまう。
お昼にトリティになってみたいと漏らしていたネフィー。だからといって「おめでとう」と言える気持ちにはとてもなれなかった。
だって、僕の大好きなネフィーとお互いレディウ人として過ごせるのは、今晩が最後なのかもしれないのだから。
そして、次にネフィーがレディウ人に戻る時は、僕のことなんて忘れているのだから。
「トリティになりたいなんて言ったから、きっとバチが当たったんだわ……」
バチが当たる――それは肯定の意味ではないはずだ。
ネフィーだって、ずっとこのままレディウ人で居たいと思っている。
そう確信した僕は、ネフィーの手をぎゅっと握りしめた。
「ホクト君、私恐い。トリティになりたいなんて言った自分がバカだった。私、ホクト君とずっと一緒にいたい……」
ベッドで横になるネフィーの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ネフィー!」
「ホクト、これはどういうことなんだ!?」
病院に着いてしばらくすると、アンフィとライトが駆けつけた。
「僕にもよく分からないんだけど、レディウ文学が終わったらこんなことになってたんだよ」
「そんないい加減なこと言ってんじゃねえ。お前が付いてて、なんでこんなことになったんだよ!」
今にも殴ってきそうなライトを、ネフィーがなだめてくれる。
「ライト君、ホクト君は関係ないの。これは私の運命なんだから」
運命――つまり、ネフィーが天使のレディウ人だったということ。
ネフィーがレディウ人として六年前に誕生した時から、この瞬間は決定づけられていたのだ。
「でもなあ、俺は納得いかねえよ」
そう言いながらライトはアンフィを見る。
ベッドに横たわる妹の足を、アンフィは優しくさすっていた。
「大丈夫? ネフィー。痛くない?」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。どこも痛くない。ただ、足が石のようになっちゃっただけだから」
ネフィーの足は、すでにすねの辺りまで青白く光っていた。学園にいた時は、足首までだったというのに。
その時、コンコンとノックの音がして病室のドアが開く。医師の先生だった。
「ネフィーさん、気分はどう?」
医師はベッドに近づくと足の様子を診ながらネフィーに尋ねる。
「気分は悪くないです。ただ足が動かせないだけで……」
一通り診察が終わると、医師は僕たちを見た。
「君たちはネフィーさんのお友達?」
僕とライトがうなずく。その横でアンフィが口を開いた。
「私は姉です」
すると医師ははっと表情を変える。
それはそうだろう。二人は双子で、顔はそっくりなのだから。
「そうか……」
医師は何かを考えるような仕草をすると、ゆっくりと顔を上げた。
「君たちには今から私の部屋に来てほしい。ネフィーさん、しばらく一人になっちゃうけど大丈夫だよね?」
「はい……」
不安そうにうなずくネフィーに、僕は「すぐに戻るから」と声を掛けて部屋を後にした。
「アクチニウム化という言葉、君たちは知っているかな?」
部屋に着くと、医師は単刀直入に切り出した。
「わかります。学園で習ったばかりですから。ラジウム二二八がアクチニウム二二八に変わる現象、ですよね?」
的確に答える僕に、医師は驚いた顔をする。
「すごいな君。その通りだよ」
そして一息置いてから、僕たちに告げる。
「残念ながらネフィーさんはアクチニウム化が始まっている。この先ネフィーさんがどうなるか、君なら分かるよね」
医師は僕の顔を見た。
「ええ……」
ネフィーは全身が青白く光って、明日の朝にはトリティになってしまう。
しかし、そんなことを自分の口からアンフィやライトに伝える気持ちには、とてもなれなかった。
いつまでもうつむいている僕に、ライト達が攻め寄ってくる。
「ホクト、お前何か知ってるのかよ。ちゃんと俺たちにも教えてくれよ!」
「そうよ、お願いだから教えて、ホクト!」
「まあまあ君たち、喧嘩はダメだ。私が説明しよう」
医師はライトたちを座らせ、ゆっくりと話し始めた。
「ネフィーさんの足が青白く光っているのは、君たちも見た通りだ。このような現象をアクチニウム化という」
「それで先生、ネフィーはどうなってしまうんですか?」
アンフィが医師に質問する。
「ネフィーさんは、一晩かけてだんだんと全身が青白い光に包まれていく。そして深夜には昏睡状態となるだろう。さらに明日の朝には、トリティに変身していると思う」
「!?」
アンフィとライトが言葉を詰まらせた。
「だからネフィーさんとお話しができるのは今晩が最後だ。この時間を大切にしてほしい」
僕たちは喧嘩をしている場合ではない。
アンフィとライトもそれを理解してくれたようだ。
「じゃあ、僕たちネフィーのところに戻ります」
「ちょっと待ってくれ」
席を立とうとする僕たちを医師は引き留める。
「この部屋に君たちを呼んだのは、もっと重要な話をするためなんだ」
医師は僕たちに再度座るように促した。
もっと重要な話って、ネフィーが変身してしまうことよりも大事なことがあるのだろうか?
すぐにでもネフィーのところに戻りたい僕は、不満を感じながら椅子に腰かけた。
「本当はこんなことはもっと時間をかけて伝えるべきことなんだが、事態が事態なので驚かないで聞いてほしい」
真剣な顔をする医師に、僕たちはゴクリを唾を飲んだ。
「アンフィさん、君はネフィーさんの姉と言ったね?」
医師はアンフィを向く。
「はい。私たち、双子の姉妹なんです」
「やはりそうか……。ということは、この先どういうことが予想されるか、わかるよね?」
――アンフィはネフィーの双子の姉。
そのことが、何か重要な事態を招くのだろうか?
僕とライトがきょとんとしていると、アンフィが暗い顔で医師に尋ねた。
「やはり、私もそういうことになってしまうんでしょうか……?」
えっ、アンフィもそういうことになってしまうって……。
僕はようやく事態を把握した。
そうか、双子なんだから、アンフィもネフィーと同じく天使のレディウ人である可能性があるということなのか。
なんということだ。
頭にガツンと衝撃を受けたようなショックを感じる。
「その可能性が高い」
静かにうなずく医師に、アンフィは取り乱した。
「私、トリティなんかになりたくありません。ずっと、ずっと、ライトと一緒にレディウ人でいたいんです!」
そしてライトの胸に顔を埋め、さめざめと涙を流し始めた。
肝心のライトはまだわかったいないようで、アンフィを抱きしめながら困惑の表情を浮かべている。
「おいおいどうしたんだよ。頼むよホクト、説明してくれよ」
僕は一呼吸置くと、ライトに告げる。
「アンフィもネフィーみたいにアクチニウム化してしまう可能性が高いってことなんだ」
「えっ!?」
ようやく事態を理解したライト。彼の顔が次第に青ざめていく。
「先生、先生! アンフィは僕の大切な彼女なんです。だからトリティになって欲しくない。ねえ、先生、なんとかできないんですかっ!?」
医師に食って掛かるライト。医師は黙ってその様子を見ているだけだった。
――なにか方法はないのだろうか?
その時、僕の頭に一つのアイディアが浮かんだのだった。




