トロイメライ
今日もまた、ここで夢を見る
金曜日の放課後。この校舎内は下校する生徒、部活動へ向かう生徒、はたまた補習を受けに行く生徒と、様々な人の声でにぎわっていた。耳だけでなく、頭まで痛くなってくるような喧噪の中、ただ1ヶ所だけ、しぃんと、静まり返った場所がある。校舎一階にある、小さな音楽室だ。校舎の増築で大きな音楽室ができたことで使われなくなったそこは、数年前に唯一活動場所として使っていたらしい合唱部がつぶれたことで、誰も来ない場所になっていた。誰も使っていないにも変わらず、ピアノなどの楽器類やCD類、著名な音楽家たちの肖像画などがそのまま残っている。毎日の清掃できれいにされ続けているそこは、私の一番のお気に入りとなっている場所だった。
「今日はこの曲、練習してみようっと」
私は鞄から、1つの楽譜を取り出し、ピアノに立てかけた。多少古くなっているそれは、今でも十分にきれいな音色を響かせてくれる、まさに私の“相棒”のようなピアノだ。いつものように椅子に座り、いつものように弾き始めたところで、『いつもとは違う』事が起こる。
「……わぁ、すごいきれいなねいろ……」
突然の出来事に私はピアノを弾く手を止め、辺りを見回す。すると、教室の真ん中あたりにある机の上に、小さなひかる女の子を見つけた。その小さな影は明らかに高校生の者ではない。私が驚いて椅子ごと転がると、その子はあわてたようにしながら声をかけてくる。
「はわわ、大丈夫ですかぁ?! ごめんなさい、驚かせようとしたわけじゃないんですぅ……」
そう言いながらその子は宙に浮き、ピアノの上に飛び乗った。正確には『舞い降りた』とでも言うべきなのだろうか、音も立てずにそこに座り込んだのだ。
「だ、大丈夫なわけないよ……。いったい何なの……」
間近で見て気が付いたのだが、背中には白い翼が生えているようだ。クラスに1人はいるオカルト系の好きな人間ならきっと、今目の前で起こっていることをも信じてしまうのだろうが、生憎私はそういうものを信じない人間だった。
「あ、わたしは、音楽の天使みたいなものなんですぅ。ずっと、ずぅーっと、ここで生徒さんたちを見守ってきたんですよぉ~?」
語尾を伸ばしながら話す、自称天使のその子には、どことなくあどけなさが残っていた。背中の羽さえなければ幼稚園児なんじゃないかと思うくらいだ。私が唖然としていると、その子は続ける。
「数年前までは合唱部さんのお歌が聞けて幸せだったんですけど、生徒さんたち、みーんな来てくれなくなって、ちょっと寂しかったんですぅ。だから、今年あなたが入学して、ここにきて毎日素敵な音色で演奏してくれるようになって、とっても、とぉっても、嬉しかったんですよぉ~!」
そういってその子は私の目の前でぷかぷかと浮遊し始める。ほめてくれているようなのでうれしいが、相手がこんなよく分からない物体では何とも言えない気持ちになる。
「ほめてくれるのはうれしいんだけどさ、あなたはいったい……?」
その子は天井近くまで上がって、そっと私に微笑みかけた。その笑顔だけは、正しく天使の物だと認めてもいいくらいだ。
「ふふっ、わたしは、この校舎ができるずっと前から、この学校の生徒さんたちの音楽を聞いてきたんですぅ。だけど、その中にあなたの様な『聞く人を幸せにする音色』を響かせられる人はいなかったんですよぉ。きっと、これからもあらわれないでしょうねぇ」
そしてその子はそっと、私の所へ降りて1房の小さな羽を渡してきた。根本は白いのに、先端に行くにつれて様々な色にグラデーションがかかっているように見える。
「それは、わたしからのプレゼントなんですよぉ。わたしの事を忘れずに、いろんな人を幸せにして挙げられるためのおまじないですぅ。」
その子が話し終えた途端、辺りが急に白くなった。気が付くと、私はいつも通り、何の変哲もない音楽室の窓際でうたたねをしていた。
「……あれは夢……だったのかな……」
そう呟いた私は。自分が何か握っていることに気が付く。そっと手を開いてみると、そこには夢の中で天使にもらった、不思議な色の羽があった。『夢だけど夢じゃない』なんていう、どこかで聞いたことのあるような言葉がふと私の脳裏に浮かぶ。そして、そんなことを考えてしまった自分に、思わず笑いがこぼれた。
「さて、そろそろ帰ろっかな」
私は羽をそっと鞄にしまい立ち上がる。そして昇降口を出たところで、ふと校門の横に立てられた石像に目を向けた。そこには、先程のあの笑顔で微笑む、あの天使がいた。こんなところに、こんな像があったんだと驚いていると、理事長先生が私に気付き、あるいてきた。
「どうしたのって……この像が気になるのかしら?」
私が頷くと、彼女は天使の像を見上げながら、まるでお伽話をするかのように、この学校と『音楽の天使』の言い伝えを話してくれた。
「この場所に校舎が移る前、この学校は音楽の天使に見守られてるって言われていたのよ。素敵な奏者の前に現れては、不思議なお守りを授けていつの間にかいなくなるんですって。この場所に移ってからは聞かなくなったのだけれど……。もしかしたら、いなくなっちゃったのかもしれないわねえ……」
どこか寂しそうな顔をする理事長先生に、私は今まで生きてきた中で一番の笑みで答えた。
「音楽の天使は、今でも私たちの傍で笑ってますよ。きっと、これからもずっと」
理事長先生は私が断言したことに驚いた後、そっと微笑んだ。
タイトルにもなっている『トロイメライ』という言葉は、「夢見心地」という意味のドイツ語です。シューベルトの子供の情景でも有名ですよね。私がクラシックの中で唯一好きな曲なのです。そんな曲のタイトルをテーマに書いてみたこの作品を原点に、これからも私らしい文章を書いていけたらなと思います。今回は読んでいただき、本当にありがとうございました!