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異説・桜前線此処にあり  作者: 祀木楓
第13章 京での日々
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金創術

 

 

 

 翌日


 私は指定された通りの時間に、郁太郎……先生の元へと訪れた。


 部屋の前で小さく深呼吸をする。


 手伝いと入ったものの、一体何をすれば良いのだろうか。


 診療所は既に使われてはいないと言っていた。


 藩屋敷内でやることなどあるのだろうか。


 色々と考えつつも、私はゆっくりと襖を開いた。




「ひっ……」



 襖を開いた瞬間目に入った異様な物体に、私は小さな悲鳴を上げる。


 その声に気付いた郁太郎は、ゆっくりと振り返った。



「お……随分早いじゃないか。私はてっきり、初日から寝坊でもするのではないかと思っていたが……」


「寝坊なんてするわけ無いじゃない。それより……この気味の悪い人形は何?」


「ああ……これは銅人だ。なんだ、知らんのか?」



 私がコクりと頷くと、郁太郎は銅人という名の人形を抱え、部屋の隅へと追いやった。



「これは銅人と言って、鍼灸を学ぶ為の経絡人形だ。これには十四経絡やツボが刻まれていてだな……ツボに鍼が的中すると水銀が出る仕組みだ。ほら……な?」


「凄い……この時代に既にシュミレーターのようなものがあるなんて……」



 銅人から水銀が出るのを眺めつつ、私は感嘆の声を上げる。


 これは鍼灸用で、作りも私から見たら古臭くてちゃちな物かもしれない。


 しかし、江戸時代は誰でも医者になれた時代だと記憶していた私にとって、この時代の医者たちがこんな風に医術を高めていた事に驚かされる様な事だった。


 私たちも、注射全般に点滴の為の静脈路確保……それから採血に至るまで、シュミレーターという人形で何度も練習する。


 それと似たような物が、こんな昔から開発されているとは……



「その、シュミレーター……とは一体何だ?」


「えっと、注射の練習をする人形だよ。練習もせずに、いきなり人間に打つわけにはいかないでしょう? だから、この銅人のようにまずは人形で練習するのよ」


「お前は……本当に、何処で医学を学んだのだろうな。不可解な言葉を遣うかと思いきや、銅人すら知らん。だがしかし、医学知識が無いわけではない……」


「それは……」


「まぁ良い。その内聞かせてもらえる日が来るだろうからな。お前が言いたいと思うまで、待つとしようではないか」


「……うん、ありがとう」



 私が笑顔を向けると、郁太郎もつられるようにして小さく微笑んだ。



「ところで、郁太郎……先生の仕事は何? 私は何をどう手伝えば良いの?」


「今のところすべき事は無いさ」


「すべき事がない!? じゃあ、どうしてこんなに早い時間に私を呼んだのよ?」


「ハッキリ言ってしまうと、お前を少しばかり試させてもらったのだ。早朝から日暮れまで長い時間の過酷な条件、それを知って尚も医学に携わりたいという信念があるかどうか……私は、それが知りたかったのだ。お前は殊の他、朝に弱いと桂サンから、聞き及んでいたのでな。気分を害したなら、すまなかった……だが」


「謝らなくて良いよ。でも、もう二度とそんな事はしないで。前にも言ったけど、私にはすべき事があるの。だから、どんなに辛くてもこの道に進むわ」


「……そうか」



 郁太郎は満足そうな表情を浮かべると、私の頭をそっと撫でた。



「折角早くに呼んだのだ。お前にどれ程の知識や技術があるのか、少し話を聞くとしよう」


「知識と技術……ねぇ。残念だけど、技術は無いわ。だって、私は医者ではないもの。適塾で学んだ郁太郎先生の様に、人体を解剖した事もないし……」


「ならば、人の体の仕組みすら分からぬと言う事か?」


「それは、ある程度は分かっているつもりよ。臓器の位置とか機能とか、仕組みとか……知識としては、一応頭に入っている。確かに実物は見た事も無いけどね」



 私の言葉に、郁太郎は眉をひそめる。


 意味が分からないとでも言いたそうな表情だ。



「そうか……ならば、その言葉を信じるとしよう。話は変わるが、私の元に訪れる患者はどんな者が多いか知っているか?」


「……時代が時代だから、やっぱり刀傷?」


「その通りだ。昨今は攘夷の名の元に、暗殺やら天誅やらといったものが横行しているだろう?」


「そっか……それに巻き込まれた藩士が、郁太郎先生の元に駆け込むのね?」


「それもあるが……どちらかと言うと、逆だな。正直に話すと、それらに失敗して手負いとなった者が多い」



 郁太郎は険しい表情を浮かべている。


 この時期の京では、長州をはじめとする過激な攘夷論者たちが、こぞって暗殺行為を繰り返していたのだ。


 幕府側も彼らをなるべく刺激しないようにと考えていた為か、下手人の追求もほとんど行われる事は無く、例え捕えたとしてもほんの軽い罰で済むことが多いという。


 そんな幕府の対応が、過激派の者たちの行動を更に助長させてしまうのだから、何とも因果な話だ。


 しかし皆が皆、天才と名高い以蔵や惣次郎のように剣に長けているわけではない。


 だから失敗してしまい怪我を負い、この屋敷に駆け込む者も多いというのだ。


 それを聞くと、何だか複雑な気分だ。


 確かに新しい時代を切り開くために、長州の皆の一つ一つの行動が必要なものなのかもしれない。


 だが医療に携わる者として、人が人を傷付けるような行為に賛同する事はできない。


 それでも、長州の皆の力になりたい気持ちは本物で、その想いは確固たるもの。


 私の心は、どうにも矛盾だらけだ……



「どうした、気分でも悪いのか? 顔が強張っているぞ?」



 郁太郎は心配そうな表情で、私の顔を覗き込んだ。



「違うの……少し考え事をしていただけ。えっと、話の続きは?」


「大丈夫ならば良いのだが……。話の続きか? そうだな、ならば今日も一つ問答といこう……例えば今、刀傷の者が訪れたとしたならば、お前は如何様に処置を行う?」


「うーん……刀傷と言っても、色々な物があるよね? どのくらいの大きさで、どの程度の深さかとか……あとは、出血の具合とか? 止血可能な程度なのかとか……もう少し情報が欲しいところね」


「情報か……お前の言う通りだな。では、こうしよう。右の太ももにやや深めの刺し傷があり、他には全身的に3寸から5寸の切り傷が複数ある。失血の具合はさほどではないが、痛みにより意識は朦朧としている。さて……かような者を如何する?」



 郁太郎は問答が好きなのだろうか。


 私に質問を投げかける時の顔は、殊の他楽しそうだ。


 さて……今回の問答は、刀傷についてだ。


 これは、簡単なようで意外と難しい。


 右大腿部の刺し傷と、いくつかの切り傷か……まずは何からすべきなのか、私は考え込んでしまう。



「なんだ? 此度は何も思い浮かばぬか?」


「急かさないでよ。今考えているの! もう少し待って」


「病も怪我も、待ってはくれぬ。緊急時において、患者の容態は常に変化するばかりではなく、その多くは悪い方へと向かっていくのだ。我々は、一刻たりとも無駄にはできぬ。瞬時に見極め治療に移さねば、助かる命も助からなくなってしまうからな」



 郁太郎の言う事は最もだ。


 実際に、私がこうしてのんびりと考えている内に容態が急変し、患者を死なせてしまうかもしれないのだから。



「何にせよ、まずは傷口を洗いたいと思うの。でも……この時代の井戸水が衛生的な物かどうか、今でもよく分からないし……かといって、焼酎のようなアルコールでは皮膚を治そうとする細胞まで殺してしまうし……まずは、そこで迷っていたのよ」


「細……胞?」



 不思議そうな顔をしている郁太郎に、私は出来る限り分かりやすく自分の考えを説明した。


 創傷は私の時代では、まずは水や石鹸水で丁寧に洗い流す。


 昔は消毒をしてガーゼ処置をしていたが、今では行わないそうだ。


 先程言ったように消毒薬が細胞に悪影響を与える事、それから消毒薬でも殺菌しきれないという事が主な理由だ。


 縫合が必要ならば縫合をするし、破傷風などに罹るリスクがあるならば、それについての対処も行う。


 創傷部は乾燥させてはならないので、被覆剤で覆えばとりあえずの処置は終わりだ。


 被覆剤というのは、透明で伸縮性のあるシートで創面を保護する役割を果たす。



「ねぇ、この時代に石鹸なんてあるの?」


「勿論あるが、一般的には使われんからな……お前が見た事が無いのも無理はない。師である緒方先生より頂いたものだが、確かまだ残りがあったはずだ」


「……あるんだ。しかも、緒方洪庵が作ったとか……驚きなんだけど」


「作ったのは緒方先生ではない。先生の師である、宇田川玄真先生だ。ほら……これがそうだ」



 私は郁太郎から石鹸を受けとる。


 それは私の時代の石鹸のように良い香りのする物ではなく、それどころかあまり綺麗な物にも見えない。


 これは本当に、石鹸としての効果があるのだろうか。



「金創術で最も困る事は、やはり術後の高熱だろうな。患部が膿み、患者が衰弱していく事は良くある」


「そうだよね……抗生剤も解熱剤も無いものね。他には?」


「牙関……だろうか」


「それは知ってる!」



 牙関は玄瑞に以前教えてもらった。


 破傷風の事だ。


「やっぱり……何とかしたいよね」


「何をだ?」


「色々! 薬もそうだけど、この時代に無いものを色々と作り出すのよ。そうすれば、助かる命も増えるもの」


「そうできたら良いのだがな……所詮は夢物語に過ぎぬ。夢を語る前に、まずは出来る限りの事をする方が余程有意義だ。違うか?」


「そう……ね」



 その後も郁太郎と色々な事を話した。


 郁太郎も自分の道具を惜しみ無く私に見せてくれ、丁寧に説明してくれた。


 初めて会った時の様な固い雰囲気はもう既に無く、私も郁太郎も打ち解けていた。


 郁太郎に本当の事を話してしまっても良いのではないか?


 そんな思いにかられる。








 夕餉後


 縁側で玄瑞と話をしていると、何やら騒がしい声に気付く。


 玄瑞と私は顔を見合わせると、門前へと向かった。



「何があった!?」


「久坂サン……すみません。実は、少しばかり……しくじってしまって……お蔭でこのザマです」


「説明は後程ゆっくり聞く。まずはその者を郁太郎殿の部屋に運ぶ。私も手伝おう……それと、美奈。お前は郁太郎殿に声を掛けた後、女中に言って湯を大量に沸かさせてくれ」



 私は小さく返事をすると、玄瑞に背を向け走り出した。


 郁太郎の部屋に向かいながらも、先程の血塗れの者の姿が目に焼き付いて離れなかった。


 初めて見る金創術……郁太郎は一体、どのように処置をするのだろうか。

 



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