問答
「待ちなさいよ!」
私は郁太郎を見付けると、その背に向かって声を掛ける。
その言葉に、郁太郎はゆっくりと振り返った。
「まだ私に何か用があるのか? 話は終わったはずだが?」
「終わってなんかないわよ。好き勝手な事を言いたいだけ言って、さっさと居なくなるなんて……何様のつもりよ?」
「何様でもないさ……私は、思った事を正直に述べたまでだ。そもそも小娘の助けなど、借りずとも十分だ。一人で全てをこなすくらい、造作もない事だからな」
「っ……随分な自信ね。郁太郎は、藩医としては凄いらしいけど……気位ばかり高い医者なんて、信用ならないわ」
「お前は、何が言いたい? ただ単に文句を言いたいだけならば、早急に此処を去るが良い。私は小娘の戯言に付き合う暇など無い程に、忙しい身なのだよ」
そう言うと、郁太郎は私から背を向ける。
私は何とか食い下がろうと、郁太郎の腕を掴んだ。
「待って! 私が使えるか使えないかは……ちゃんと見てから判断して! 私のことを何も知らずに判断されるのは、不快よ。私は、血を見たくらいじゃ騒がないし……何だって堪えてみせる!」
郁太郎は、私の言葉に眉をひそめた。
何か気に障ったのだろうか?
「では、一つ問答といこうか」
「問……答?」
「私の問いに答えられるか……という事だ」
「良いわ……受ける!」
一体どんな質問が投げ掛けられるのだろうか。
私は身構える。
そんな私の姿を見て、郁太郎は口角を上げた。
「例えば今ここで私が倒れたとする……その時、お前はどのように対処する?」
郁太郎の問いに私は考える。
救急時、まずは何をすべきなのかを……
「郁太郎が倒れたら……まずは意識を確認する。呼び掛けで目を覚ますかどうか、呼び掛けで駄目なら痛み刺激を与えてみるとか……とにかく、どの程度の反応があるかを探るわ」
「ほう……ならば、痛みを与えても反応しない。更に、身体も全く動かない状態だとしたら?」
「それだと意識レベルは300……昏睡状態ね。あとは……呼吸や心肺機能の確認をするわ」
「呼吸も無く、心臓も止まっていたら?」
医療技術も器具もない私にできるのはBLS……一次救命処置のみだろう。
一次救命処置とは、医療器具や薬品を用いずに行う救命処置であり、一次があれば当然二次もある。
二次救命処置……ALSとは、医師等の有資格者が医療器具などを用いて行う救命処置だ。
私は必死に、一次救命処置のABCを思い出す。
まずはAのairway……気道確保だ。
意識が無いと舌の付け根が奥に下がり、気道を塞いでしまう。
この舌根沈下を防ぐために、気道確保をするのだ。
「外傷が無ければ下顎を上に上げて、舌根沈下を防ぐ。その後はbreathing……人工呼吸。本音を言えば嫌だけど……緊急事態だし、仕方がないから人工呼吸してあげる。それからciculation……胸骨圧迫をするの。degibrillationの除細動は……AEDが無いから、この時代では無理ね。私が今出来るのは胸骨圧迫まで。気管内挿管なんて大それた技は出来ないし、薬剤だって無いもの。これが私の限界よ」
「その対応が適切かどうかは別として、お前のその言葉……それは蘭語ではないな。音からするに、英語……か。お前は一体、何処で医術を学んだ?」
「それは……言えない。でも、きっと私は郁太郎の役に立てると思う。郁太郎や玄瑞の様に医者じゃないけど……医者の補佐が、私の役目だもの。もっとたくさんの知識と技術を学んで、長州のみんなの役に立ちたいの! 私のことがそんなに不安なら……試しに私を使ってみない?」
「試しに……ねぇ。そもそも、女の幸せは良き旦那に嫁ぐ事だろう? 行き遅れている癖に焦りもせず、医術を学びたいなど、お前は親泣かせな娘だ」
「行き遅れって何よ!? そもそも、この時代に親なんて……居ないわよ。強いて言えば、晋作や玄瑞……長州のみんなが私の家族よ」
郁太郎は私の言葉に目を見開く。
「そうか……悪い事を聞いてしまったな。すまなかった」
「別に良いの。私にはみんなが居るから、寂しくなんてないもの。でも……すまないと思うなら、私に仕事を手伝わせてよ。邪魔はしないって約束する!」
「……試しだぞ? もしもお前が使い物にならぬと判断した時は、即座に辞めてもらう。逆にお前が有能な人材であったならば、少ないながらも給金を出してやろう」
郁太郎は私が孤児だと思い、同情したのだろうか。
少しだけ微笑むと、私の頭を撫でた。
「本……当? 給金も出してくれるなんて……郁太郎は意外と良い奴だったのね」
「ちょっと待て。給金はお前が良い働きをしたらの話だ。それに、私とてさほど裕福なわけでは無い。給金といえど、小遣い程度のものだ。それと……」
郁太郎は元通りのしかめっ面に戻る。
浮かれすぎた事をたしなめられてしまうのだろうか。
「気安く名を呼ぶのは止めてもらおう。私とお前は年の差がある……それに、今後は師弟の間柄だ。それに相応しい呼び方をしてもらおうか?」
「……郁太郎は郁太郎じゃない」
「何か不満でもあるのか? 言う事が聞けぬなら、私の元には置かぬが?」
「はいはい、分かりましたよ。所大先生! でも……仕事以外の時間は、私の好きなように呼ばせてもらうもんね」
「……お前は何故、そこまで呼び名にこだわる?」
郁太郎は、困ったような表情を浮かべる。
私が呼び名にこだわる理由……それは、清国での才助とのやり取りにあった。
名前で呼ぶ方が、より親密になれる様な気がする。
だから玄瑞や晋作、それに他の仲間たちの事も名前で呼ぶようになった。
桂サンとは、共に過ごした時間がまだ短いのでそのままなのだが……
「みんなとより親密になりたいからよ。欧米では、親しい間柄の人を名前で呼ぶのが普通だと教えてくれた人がいたの。だから、それにならっているの」
「お前には攘夷の精神が無いのか? この日の本の民としての誇りや意識がお前には足らん」
「良いと思ったものを取り入れて、何が悪いのよ。医術だってそうでしょ? 特に蘭学なんて、異国の学問じゃない。郁太郎は、蘭方医のくせに了見が狭いのよ。異国のものだろうが他藩のものだろうが、見習うべきと思ったものは模倣すべきよ。それが、様々な物の発展に繋がるの。それが出来なきゃ、人も医学も……何一つ、進歩しやしないでしょう?」
つい思った事を言い放ってしまった。
気が付いた時には既に、郁太郎は眉間にシワを寄せていた。
また怒られる……そう思い謝ろうとした瞬間、郁太郎の方が先に口を開いた。
「ただの小娘と思っていたが……少しは頭を使うようだな。確かに、お前の言う事も一里あるやもしれん」
「えっ?」
「だが、しかし……これだけは約束してもらおう。医術に携わる際は、決して名で呼ばぬこと。それ以外は、お前の好きにすれば良い。くれぐれも言っておくが、公私混同は認めんからな」
私は小さく頷くと、郁太郎の手を取った。
「これから、よろしくね? 郁太郎……先生!」
郁太郎は柔らかく微笑むと、私の手を握り返す。
「明日より早速、手伝え。朝の刻限は……そうだな、六ツ半で良い」
「む、六ツ半!? 早すぎるよ!」
六ツ半といえば冬場で7時頃、春や秋では6時頃。
夏では……5時頃だ。
いくら何でも早すぎる……特に、朝が苦手な私にとっては拷問のようなものだ。
「終わりは、七ツ半としよう」
六ツ半から始業して、七ツ半に終わる……という事は、季節によって午後4時から午後6時に終わるわけだから……夏場だと……13時間労働!?
労働基準監督署も真っ青になる程の働かせっぷりだ。
初日を前にして既に、後悔し始める。
しかし……これも、みんなの役に立つ人間になるために、必要な試練だ。
私は必死に自分にそう言い聞かせた。
「……分かった。朝起きたら、部屋に行く」
「言っておくが、少しでも遅れたら……分かっているな?」
郁太郎はニヤリと口角を上げると、私の前から去って行った。
明日から始まる郁太郎との日々……既に不安ばかりだ。
とにかく、今日は早く寝ようと心に決める。
郁太郎の姿が見えなくなった頃、私は広間へと戻った。
この件について、広間で玄瑞に泣きついたのは、言うまでもない。




