時代という足枷
高杉さんが帰った後、久坂さんは私を部屋へと案内してくれた。
広い庭には、母屋から少し距離を置いて、一軒の離れがある。
きっとここが私の根城になるのだろう。
「早速だが、今日から此処に住まうと良い。離れならば家人に気兼ねせずとも寛げるだろう?」
久坂さんは満面の笑みを浮かべている。
こんなに気の良い人も珍しい。
「何から何まで……ありがとう。でも……」
「でも?」
「ううん、何でも無い!」
離れに一人寝……それが私には気がかりだ。
しかし、折角久坂さんが部屋を与えてくれたのに、離れ住まいが怖いなどとは言い出せなかった。
「身の回りの世話は女中にでも頼むゆえ、お前は何も心配しなくて良い。それと……な」
久坂さんは隣の部屋の襖を開けた。
「この部屋を医術を学ぶ部屋にしようと思う」
「医術を……学ぶ部屋?」
「もう忘れたのか? 先程も高杉と話していたように、お前は藩医見習いで……私の弟子、だろう?」
「そっか……そうだよね。すっかり忘れてた」
私の言葉に、久坂さんはフッと笑みをこぼした。
「しばらく医術の勉学とは離れていたとはいえ、それでも藩医の家柄……十五の時分より、久坂の家督を継いでいる身だ。少しは教えられる事もあるだろう。しかと励んでくれよ?」
「よ……よろしくお願いします、先生!」
私は深々と頭を下げた。
すると、久坂さんは真剣な表情から一変して締りのない顔になる。
「すまん……もう一度、その……言ってはくれまいか?」
「よろしくお願いします?」
「そうではない! その先だ」
「…………先生?」
「そうだ、それだ! 愛らしい娘に先生と呼ばれるのも……中々良いものだな」
久坂さんのニヤついた表情に、私は深い溜め息をついた。
ほんの一瞬だが、頼りがいのある久坂さんを格好良いと思ってしまった自分が馬鹿みたいだ。
「こんの…………変態!!」
「なっ!?」
キッパリと言い放った私に、久坂さんは面白い程に慌てていた。
久坂さんが部屋を去ってから、私は荷物の整理に励む。
気づけば陽は傾き、夕餉の時刻。
女中が離れの私の部屋に食事を持ってきてくれたことで、私は整理の手を止めた。
「ねぇ……ちょっと聞いても良い?」
お膳を並べる女中を呼び止める。
「何でございましょう?」
「あのね……すごく不思議な事なんだけど、どうして此処にお膳が二つあるの? 私……そんなに食べないんだけど」
「それは、旦那様がこちらで食事を召し上がられるからですわ。他に何も無いようでしたら、私はこれで失礼致します」
女中の言葉に、驚きのあまり何も言い返す事はできなかった。
旦那様って……久坂さんのこと?
どうして此処で夕餉を摂るの?
二膳しかないってことは……文さんは一緒じゃないの?
その不思議な光景に、いくつもの疑問が浮かび上がる。
「……待っていてくれたのか? 先に手を付けていてくれて良かったのだが」
久坂さんがひょっこりと部屋に現れる。
「『待っていてくれたのか?』 じゃないでしょう? これはどういうことよ?」
「……何を怒っている? 夕餉の献立にお前の苦手なものでもあったか? ならば今後は出さぬように伝えておくから、遠慮などせずに言ってくれ」
「嫌いなものなんてないわよ。私が聞きたいのは、どうして久坂さんが此処で食事をするのかです!」
「私と一緒では、迷惑……だったか?」
久坂さんは悲しそうに尋ねた。
「そんな……迷惑なんかじゃないけど……久坂さんが此処に居たら、文さんが寂しがるでしょう? 私なんかと食事をするなら、奥さんと食事をしなさいよ! 女心の解らない男ね」
「女心って……先に言っておくが、私は文と共には食事を摂らん。そもそも普段から、寝食は別々だ」
「別々? どうして? 夫婦なのに、そんなの……可笑しいし、文さんが可哀想だよ。一人でご飯を食べたって、美味しくなんてないじゃない」
何だか私が押しかけてしまったせいで文さんに寂しい想いをさせてしまっていることに罪悪感を覚えた私は、いたたまれず俯いた。
「……何故、美奈がそのような顔をする? 私は文と過ごすよりもお前と過ごす方が有意義だと考え、それを選んだ……ただそれだけのことではないか」
「久坂さんは、なんにも解っていないのね。よく考えてみなさいよ……好きな人から避けられるなんて、そんなの悲しすぎるでしょう?」
「私自身、文に対する愛情など持ち合わせてはいないが……それは文も同じこと」
「何それ……二人は……夫婦……なのに?」
私は首をかしげる。
「夫婦であることと、愛することとはまったくの別物だ。そもそも、祝言を挙げるということはな……己の為ではなく家の為。いくら他に好いた者が居ようが、定められた者と添い遂げるしか道はない。それがどんなに好みでないとしても……な? お前の時代ではどうかは知らぬが……今の時代ではそれが当然のことだ」
「私の時代では、好きな人同士がするもの……だよ? そんなのって……何だか悲しいね」
「好いた者同士……か、美奈の時代は良い世の中なのだな? 誤解のないように言っておくが、文は……高杉を慕っているのだ。今も昔もずっと……」
「高杉さんって、あの高杉さん!? あの小さくて傲慢そうな高杉さんが良いの? そうなんだ……人の好みは分からないモノなのね。そういえば……だから、高杉さんを見た時に嬉しそうな表情をしていたんだね。今思うと納得」
「高杉の前で、小さいは禁句だ。アイツはあれでいて神経質で繊細な男だからな」
久坂さんは深い溜め息をついた。
「……それにしても、松陰先生は全く罪なことをなさったものだ」
「罪な……こと? ねぇ、文さんの相手は高杉さんじゃ駄目だったの?」
「私の予測でしかないが、松陰先生は私か高杉かどちらかで迷っていらっしゃっていた筈だ……だが、高杉は見ての通り気性の激しい男。きっとそこを危惧されたのだろう。大切な妹君だからな、慎重になるのも当然だ」
「まぁ……確かに。私も高杉さんが旦那さんてのは……嫌かなぁ」
「高杉の家柄が良いことに加え、アイツはマサ殿との縁談も進んで居たからな。文の気持ちが高杉に向いていようと……所詮は無理な話だったのだ」
文さんの心中を想うと、少し悲しくなってしまった。
結婚相手を勝手に決められてしまうなんて、私なら耐えられない。
「だから……例え私が妾を作ろうと、文は気にも留めないだろうな」
「……久坂さんには、お妾さんも居るの?」
私は悪戯っぽく尋ねた。
「そんな大層なモノは居ないさ。今は……な。だがお前が私に囲って欲しいとねだるならば……その時は、二つ返事で囲ってやるがどうする?」
「……結構です!!」
「そう、か……それは残念だ」
塩をかけられた青菜のようにシュンとなる久坂さんの姿に、笑いをこらえることはできなかった。
久坂さんの話を聞いて、彼の悪印象が一掃されたかのようだった。
久坂さんが悪いのではなく、好きな人と添い遂げることの出来ないこの時代が悪いのだ……と。
「あのさ……ごめん……ね?」
「なぜお前が謝る?」
「私……久坂さんのことを酷い人だって誤解して、何だか嫌な態度を取っちゃったから……悪かったなって」
「美奈、お前は素直ヤツだな。だが、そんな風に気に病まずとも良い。それくらいで気分を害する程、器の小さき人間ではないさ」
「……私が……素直? そんな風に言われたのは初めてなんだけど」
「どうだ? 印象が好転したついでに……私に囲われてみないか?」
「それとこれとは別の話です!!」
「……やはりお前は手厳しいな」
ふいっと顔を背けた私に、久坂さんは苦笑いを浮かべる。
「でも…………」
「でも?」
「久坂さんのことは……嫌いじゃないよ!」
「そ…………そうか」
私が照れ臭そうに告げると、久坂さんはフッと笑った。