土佐の二人
湯治から江戸へと戻った私達は、忙しい日々を過ごしていた。
そうは言っても、例によって忙しく働いているのは、玄瑞なのだが……
そんなある日の事だった。
「美奈……今宵は、大切な会合がある。夕餉前には藩邸を出るので、そのつもりで居てほしい」
玄瑞にそう言われた私は、コクりと頷いた。
江戸へと戻ってからというもの、私は様々な会合に連れて行ってもらっている。
とはいえ、政治や時勢など全く分からない私は、食事をする事が目的になってしまっているのだが……
「支度は出来たか?」
「勿論!」
「ほう……今宵の支度も、実に可憐だな。会合に連れ立つのは構わぬが、これでは相手方もお前に見惚れてしまうだろう」
「そっ……そんなぁ」
照れる私に、玄瑞は変わらぬ笑顔を向けている。
「馬鹿な事を言ってねぇで、さっさと行くぞ?」
「げっ! 晋作……いつから居たのよ!?」
「はじめから居たさ。それこそ、お前らの痛ぇやり取りすら全て見ていた」
口角を上げながら言う晋作に、私は顔を赤らめた。
全然気が付かなかった……
褒められて良い気になっているところも含めて、全て見られていたなんて一生の不覚だ。
それもこれも、晋作が小さいからいけないのだ……と、心の中でそっと自分に言い聞かせた。
その後の私達は、会合が開かれる予定の料亭まで足を運ぶ。
今日の料理はどんな物だろう?
私は、そんな事ばかり考えていた。
そう、この時までは……
「遅くなり申し訳ない。まさか、武市先生の方が早くお見えになられるとは……」
「いえいえ、良いのですよ。今日は丁度この辺りに野暮用がありましてね……ですから、約束の刻限より早く着いてしまった次第です」
「そうでしたか……それでは、私達も失礼させて頂きます」
「どうぞ、どうぞ」
玄瑞はこの男性を、武市先生と呼んでいた。
という事は……この人が、武市半平太なのだろうか?
武市先生を遠目に眺めつつ、私は腰を下ろす。
その際に、私に一つの視線が向けられている事に気が付いた。
それは武市先生の物ではなく、武市先生の傍らに居た男性の物だった。
「武市先生、先生のお隣に居らっしゃる方は初めてお会いする様ですが……」
「あぁ、コレですか? コレは私の用心棒のような者でしてね。お気になさらずとも良い」
「そう……ですか」
納得の得られる答えは得られなかったが、玄瑞がそれ以上追及する事はなかった。
私が食事を進めている間も、武市先生が連れてきた彼の視線を感じ、何だか食べにくさを感じた。
「……ご馳走様でした」
「何だ、全然食べていないではないか」
「お腹一杯になっちゃって……あ、私少し外で涼んでくるね」
「そうか……言っておくが、中庭からはくれぐれも出ないように」
「分かった」
そう返事をし、私は立ち上がった。
「中庭とは言え、何かあってはいけません。そうだ、この者を連れて行きなさい」
「それは助かります。是非そうさせてもらうと良い」
本音を言えば断りたかったのだが……満面の笑みを浮かべる武市先生と玄瑞の姿に、断る事などできず、私はコクりと頷いた。
中庭に出てきたものの、何だか気まずい。
用心棒の彼は一言も発せず、ただ私の後ろに居るのだ。
「ねぇ……貴方、名前は?」
沈黙に耐えきれず、質問を投げ掛ける。
しかし、待てども答えは返って来ない。
痺れを切らした私は、彼の目の前に歩み寄ると、再度同じ質問をぶつけた。
「貴方の名前を聞いているんだけど!」
「あっ……僕に言っちゅうが? 気が付かんかったきに」
「ここには、私と貴方しか居ないでしょう? 貴方以外の誰に話し掛けるのよ」
「そ……そう。まっこと、すまん」
「で、名前は?」
「……以蔵。岡田……以蔵」
岡田……以蔵。
この、冴えない感じの人が岡田以蔵?
可愛いらしい顔立ちに、おどおどした受け答え……まさか彼が、人斬り以蔵と恐れられた剣士とは。
私のイメージしていた人物とは程遠い容貌だ。
「そう、以蔵という名前なのね」
「え? 僕の名を覚えてくれゆうがかえ?」
「何を言っているの? そんなの、当然じゃない」
「当然……か」
嬉しそうに微笑む以蔵に、何だか可愛いと感じてしまう。
「それより貴方……さっきは、ずっと私を見てたでしょう? 折角の夕餉が食べにくかったんだから」
「えっ……す、すまん。おまんの気ぃを悪くさせるつもりは、無かったんじゃが……その、つい……」
「おまん……じゃなくて、美奈よ」
「美奈……か、覚えたがぜよ。美奈を見ちょった理由は……その……」
以蔵は何だか言いにくそうな表情を浮かべている。
「何よ?」
「えっと……美奈が……まっこと、はちきん……いや、こっちの言葉にすると……可憐、じゃったき……つい」
「か、可憐!?」
意外な言葉に、私は戸惑う。
そんな私の表情などお構いなしに、以蔵は話し続けた。
「僕は……武市先生と共にしちょったけんど……美奈の様な女は初めて……じゃったきに。それと……君は、こんな僕の名を覚えて……くれるち言うた」
「名前を覚えるなんて、当然の事じゃない」
「当然じゃ無いねや! 僕は武市先生の道具じゃ。道具に名前なんて……要らないき」
「そんな事、誰が言うのよ?」
「っ……武市先生」
「何それ? 道具だの、名前が要らないだの……そんな事を言うなんて酷い。どうして、そんな人の元に居るのよ?」
人を人とも思わない言動をした武市先生が、私は腹立たしかった。
「酷くなんか……ないねや。武市先生は良い人じゃ」
「そんな扱いをする人が、良い人な訳ないでしょう?」
「武市先生を悪く言うたらあかんぜよ!」
突然の大声に、私はビクッと肩を震わせる。
「っ……すまん。先生に会わんかったら……僕は、今の様には居られなかったきに。先生は、恩人じゃ」
「恩人?」
「そう。先生だけが僕の剣を褒めてくれたき。先生だけが……僕を認めてくれゆう。……僕は、先生の為ならどんな事でもできるがじゃ」
「……そう」
以蔵は、目を輝かせながら言った。
そんな姿に、私はもうそれ以上反論できなかった。
「なら……友達になろうよ」
「友……達?」
以蔵は、あからさまに困惑している。
「ここで会ったのも、何かの縁……でしょう? だから、今日から私と以蔵は友達」
「僕と美奈が……友達? 友達なんて……初めてじゃ」
嬉しそうに微笑む以蔵に、私は笑顔を返す。
「もしも……何か困った事があったら、何でも相談して? 友達なんだから、遠慮は要らないわ」
「……分かった!」
そろそろ身体が冷えてきたので、室内に戻ろうという事になった。
振り返り、ゆっくりと歩き出した先には、見覚えのある姿がある。
「晋作!」
「お前の帰りが遅ぇから迎えに来てやった」
「会合は終わったの?」
「まだ終わっちゃいねぇが……じきに終わるだろうよ」
晋作は駆け寄る私を受け止めると、以蔵へと視線を移した。
「そんな怖ぇ面ぁすんじゃねぇよ。心配要らねぇよ! 美奈とは何でもねぇさ」
「……っ」
「お前も、戻るぞ?」
以蔵は晋作の言葉にコクりと頷くと、私達の後を追って来た。
その後すぐに、会合は終わりを迎える。
武市先生と以蔵と別れる際、以蔵が小さく微笑んだのを、私は見逃さなかった。
「蓼食う虫も好き好き……か」
会合からの帰り道、晋作が不意に呟く。
「何の話だ?」
「クク……玄瑞、お前も気を付けねぇと、美奈に悪ぃ虫が付くってこったな」
「悪い虫だと?」
「コイツは不思議と人を惹き付ける様だからなぁ? とまぁ……お前も、その一人か」
「訳の分からぬ事を言うな」
晋作は、不思議そうな顔を浮かべる玄瑞を見て笑う。
「そういえば……蓼って何?」
「蓼か? 草の一種さな。胃の腑の薬にも使われている。とはいえ、蓼には独特の香や辛みがあるから、大抵の虫は食わねぇ。だが、そんな蓼を好む虫も居るのさ。つまり……」
「その先は聞きたくない! だって、この諺……私、知ってるもの」
「クク……うちの姫君は、中々聡明なこって」
「もう! 晋作はいつも、そうやって馬鹿にするんだから」
「それが分かりゃあ、上等さな」
私は頬を膨らませた。
玄瑞はいつもの様に、そんな私をなだめる。
いつもの会合に、いつもの帰り道。
ただ一つだけ違ったのは、今夜は武市先生や以蔵という、歴史に名を残す人物と出逢った事だ。
それだけでも、大収穫だったのかもしれない。




