草津千軒江戸構え ―中編―
「わぁ! やっぱり草津は、硫黄の香りが凄いね」
無事に草津に辿り着いた私達を待ち受けて居たのは、真っ白な大地と、辺り一面に立ち込める硫黄の香りだった。
「そういえば、草津は人気の温泉って言ってたよね。でも、見たところ湯治客が居ないけど……どうして?」
「クク……そりゃあこの時期にゃ、湯治に来る者は居るまいよ」
「どういう事?」
「見ての通り、雪が凄ぇからな。本来ならば、宿も開いてねぇのさ。何故なら、ここの民は皆……冬場は麓の村に下り、そこで暮らすからな」
「宿が営業していないのに、私達は草津まで来たって事!?」
晋作の言葉に、私は目を見開く。
そんな私を見て、晋作は口角を上げた。
「案ずるな。宿はとってある」
「さっき、冬場は営業していないって言ったじゃない」
「だから、特別なんだよ。あらかじめ、宿屋に無理言って支度をさせてある。長州男児に不可能はねぇさ」
「っ……さすがは、お金持ちね」
私は溜め息混じりに言った。
何はともあれ、此処までの道のりが徒労に終わらなくて良かった。
雪見風呂
そう考えただけで、心踊る。
「すっごい! こんな豪華な部屋なんて、初めて!」
貸し切りの宿に、豪華な部屋。
こんな所、元の時代で泊まったとしたら、きっと一泊で数万円はするだろう。
庶民育ちの私にとって、これは夢のような出来事だ。
「気に入ったなら良い。どうせ、この宿には俺らしか居ねぇからな……騒ぎ放題さな」
「晋作……貸し切りとは言え、宿に迷惑となる様な事だけは、してくれるなよ?」
「フン……相変わらず、お前は頭が固ぇなぁ」
玄瑞の言葉に、晋作は苦笑いを浮かべる。
「ねぇ! お風呂に行こうよ」
「風呂……か」
「私ね、やりたい事があるの」
「やりたい事だぁ?」
晋作は訝しげな表情をしている。
「あのね……お風呂で、雪を見ながらお酒を飲むの。だからさ、早くお風呂に行こうよ!」
「行こうって……まさか、我々と共に湯に浸かるつもりか?」
「え? 勿論、そのつもりだけど?」
「なっ!? 何を馬鹿な事を……」
「馬鹿な事って……江戸時代の温泉は、混浴なんでしょう? 晋作がそう言ってたもん。だからちゃんと、湯浴み用にコレを持って来たんだよ」
「し……晋作! お前は何を吹き込んだのだ!? いくら混浴が常とはいえ、共になど入らずとも、我々は美奈が出てから入れば……」
玄瑞は、晋作に必死に言う。
「おい美奈、湯に行くぞ。玄瑞は行かねぇ様だからな。雪見酒とやら……俺が特別に付き合ってやらぁ」
「じゃあ、宿の主人にお酒を貰って行かなきゃね。玄瑞は、お留守番してるの? 折角なんだから、一緒に行けば良いのに……」
「っ……仕方あるまい。私も、行こう」
私達は主人からお酒を受け取ると、足早に温泉へと向かった。
「うわぁ、本当に雪景色だねぇ。寒いから早くお湯に浸かりたいなぁ」
晋作の話によると……
江戸時代前までは、湯浴み着を着て入浴するのが普通だったそうだが、この時代になると湯には裸で入るという風に、習慣も変化していったそうだ。
とはいえ、湯は混浴で……それでは気が引けるので、湯浴み着ではないが、私は浴衣で代用する事にした。
それは、晋作の案だった。
かけ湯をすると、私は温泉に向かって走り出す。
「さすがは草津温泉だぁ。雪景色といい……本当に幸せ!」
「あまり走り回ると、転んでしまうぞ」
「玄瑞はまるで母親の様さなぁ」
「フフ……お母さんだってさ」
「だ、誰が母親だ!」
私は、頬を膨らませている玄瑞と、その隣で笑っている晋作の手を取る。
「早く入ろうよ!」
「そ、そうだな」
「お……おい、引っ張るんじゃねぇよ」
貸し切りの宿に、貸し切りの湯。
そして、美味しいお酒。
まさに至福の時だ。
「まぁまぁ……一杯どうぞ」
「湯に浸かりながらの雪見酒というのも、中々良いものだな」
「隣に居るのが、もう少し色気のある女ならば……文句ねぇんだがな」
「もう! 晋作はいつもそればっかり! 雪の様に白い肌に、まとめ上げた艶のある黒髪……これはもう、色気の塊でしょうが」
「っ……そ、そうだな」
「クク……良かったな。玄瑞は同意しているぞ? まぁ、そういうのは自分で言うモンじゃねぇがな」
真っ赤になった顔を背ける玄瑞を見て、晋作は大笑いしている。
そんな晋作を見て、私は頬を膨らませた。
「さて……私は、少し逆上せた様だからな。向こうで涼んで来るとしよう」
「そう? 行ってらっしゃい」
「転ぶんじゃねぇぞ?」
玄瑞は湯から上がると、椅子のある方へと歩いて行った。
「そもそも……どういうのが色気なんだか、私には分からないんですけど!」
「そうさなぁ……お前に足りねぇのは、淑やかさだろうよ」
「淑やかさ?」
「女は物静かなのが良い。何も言わずそっと肩を寄せ、酌をする。あとは、流し目だ。芸妓の様に、しんなりと……」
「こ……こんな感じ?」
私は晋作に肩を寄せると、杯にそっとお酒を注ぐ。
いつも見る遊女達を真似て、流し目をしてみた。
「クク……お前は本当に面白ぇなぁ」
「そんな事! いえ、そんな事はございませんよ。晋作様」
「っ……まだ芸妓ごっこをしてやがるのか?」
「晋作様のご所望とあらば、生涯このままでも構いません」
いつもの口調が出そうになるのを、必死に飲み込み静かに言った。
「発育が足りねぇが……まぁ良い。お前は黙って居りゃあ、顔は良いからな」
「っ……黙って居ればって、どういう意味よ!?」
「クク……なぁんだ、もう化けの皮が剥がれちまったか?」
晋作は杯を一気に飲み干すと、私の肩を抱き寄せる。
「ちょ……ちょっと! この手は何よ。私に手なんか出そうモンなら……一生かかっても払えないくらいに高くつくわよ?」
「っ……誰がお前なんぞに手ぇ出すかよ。お前に手ぇ出すくれぇなら、玄瑞に出すさ!」
「し……晋作と玄瑞って……まさか!」
私の言葉に、晋作は額を小突く。
「痛っ!」
「馬ぁ鹿……冗談に決まってんだろうが!」
「だって……二人共、仲が良いから……怪しいなぁなんて」
晋作は深い溜め息を一つついた。
「話は変わるが……な。あの日の事だが……悪かったな」
「えっ? 何の事?」
「お前に、節操がねぇと言っちまった事さ」
「あぁ……あれね。良いの! 半分は当たりだから」
「半分当たりだと!? どういう意味だ」
私の言葉に、晋作は眉間にシワを寄せ、詰め寄る。
「話してなかったけど、あの試衛館……ゆくゆくは私達の敵になるの。今はまだ田舎でくすぶってるけど、上洛後は新選組という組織になって幕臣になる」
「ほう……奴等が幕臣にねぇ。ならば、敵に違いねぇな」
「試衛館で過ごした数ヵ月間で私は、その中の一人を好きになってしまったの。この先……敵になる事は、分かっていたのに……」
「何……だと!?」
「惣次郎とはね。一緒に稽古したり、江戸の街を見て回ったり……今思い出しても、楽しかった思い出しかないわ」
私は杯に手を伸ばす。
「そいつとは……どこまでいった?」
「何処まで? 遠出はしてないよ。近くの甘味屋に行ったくらいかなぁ」
「そういう意味じゃねぇよ」
「じゃあ、どういう意味よ?」
「フン……この様子ならば、何も無さそうだな」
「とにかく、土方サンの監視が凄くてね。夜まで惣次郎の部屋に居ようモンなら、私を抱えて部屋に連れ戻すの! 良く分からないけど……行きすぎた行動を取らないようにって、口癖のように言ってた」
「そうか。あの目付きの悪ぃ田舎侍も、少しは役立ったと言う訳か……」
晋作は口角を上げると、私の頭をそっと撫でた。
「まぁ……好いているだ何だと言っても、お前のは所詮はガキの戯れ言さな」
「ガキって何よ」
「近い年の男から、好いていると言われちまやぁ、お前がその気になるのも仕方あるまい」
「そんなんじゃ……ないもん」
「クク……お前が此処に戻って来ている時点で、その恋とやらは……まがい物さな」
「……まがい物」
その一言に、私は俯く。
「そういえば、松陰先生にもね……同じ事を言われたの」
「先生に……だと?」
「先生がね、こっちに戻って来た時点で……私は、晋作や玄瑞を選んだんだって。惣次郎よりも、二人の方が好きなんだって」
「先生も面白ぇ事を言いやがるなぁ」
「私だけでなく、惣次郎も同じ。私でなく、試衛館のみんなと生きる道を選んだんだもん。それにね……」
「それに?」
「僕の事を忘れてって……私、別れ際に言われたのよ。だから……私は、忘れる事にしたの」
気付けば、私の目からは大粒の涙が溢れていた。
「ガキのクセに……男を想って、一丁前に泣くたぁなぁ」
「晋……作?」
「まぁ良い。お前は何も案ずるな……そんな、まがい物の恋は、俺が忘れさせてやらぁ」
私の頬に手を添え、真剣な表情でそう言う晋作から、私は目が離せなかった。
「っ……どうやって?」
「こうやって……だ」
晋作の顔がゆっくりと近付いてくるというのに、私の身体は固まったまま微動だにできずにいる。
「痛っ!」
反射的に目蓋を閉じた瞬間、額に鋭い痛みが走った。
「クク……お前、何て顔してんだよ。阿呆面してんじゃねぇよ」
「だっ……だって!」
「お前は玄瑞が愛でているモンだ。俺が、そんなモンに手ぇ出す訳があるまいよ」
「っ……晋作なんて、こっちこそ御免よ!」
「そりゃあ良かった。お前なぞに惚れられても、迷惑なだけだからなぁ」
「フン! 絶対に有り得ないから、安心してちょうだい」
私は真っ赤になりながら、晋作から顔を背けた。
「まぁ、そう怒るな。お前の反応は、ことのほか面白ぇからなぁ……つい、からかっちまう。その……悪かったな」
「へぇ……素直に謝るなんて、晋作らしくないね。もしかして、もう酔いが回ったの?」
「そう……かもな。だが、忘れさせてやるというのは本当だ。これから、俺達は更に忙しくなる。余計な事など、考えて居る暇もあるまい」
「忙しくなる……ねぇ」
「これだけは忘れてくれるな? お前には、俺も玄瑞も居る。だから……お前はいつまでも、俺らに挟まれて居りゃあ良い」
「フフ……双璧に挟まれるなんて、まさにその言葉の通りね」
「……そうさな」
私達は、顔を見合わせ微笑んだ。
「なんだ、私抜きで何を話していた? 随分と楽しそうではないか」
玄瑞は湯に足を入れながら、少し面白くなさそうに言った。
「私はね……これからも、ずっと双璧に挟まれていたいなぁって話してたの」
「双璧に……挟まれる? 何の話だ?」
「こういう事!」
私は、不思議そうな顔をしている玄瑞の手を引き、自分の左隣に招く。
「右には晋作。左には玄瑞。ね? 私、双璧に挟まれて居るでしょう?」
「フフ……そういう事か。お前のする事は、本当に愛らしいな」
「お前、玄瑞を大切にしろよ? お前を愛でる稀有なモンなんざ、後にも先にもコイツしか居るまいよ」
その後の私達はしばらくの間、雪見酒を楽しんだ。
それは、湯から上がるのが勿体なく感じるくらいの、幸せな一時だった。
「さて……そろそろ上がらねば、本当に逆上せてしまう」
「そうさなぁ。続きは部屋でやるとしようじゃねぇか」
「賛成!」
名残惜しい気持ちを抑え、私は勢い良く立ち上がる。
「なっ!?」
その瞬間、玄瑞に思い切り手を引っ張られ、私は再び湯の中へ沈められてしまった。
「何するのよ!?」
「良いから! お前は、そのまま立ち上がるな!」
「はぁ? それじゃあ、湯から上がれないじゃない」
頬を膨らませる私と、慌てふためく玄瑞。
それを見て晋作は、再び大笑いしている。
「お前……気付いてねぇのか?」
「何が?」
「透けてやがんだよ……お前の浴衣がなぁ」
「嘘っ!?」
その言葉に、私は咄嗟に首まで湯に入る。
「俺ぁ気にしねぇが……どうにも玄瑞が気になるそうだ」
「あ……当たり前だろう! 晋作に、美奈の柔肌を見せる訳にはいくまい」
「そんなモンは、こっちから願い下げさな。さぁて、俺ぁ先に上がるぞ?」
「美奈は、私達が上がってから出て来ると良い。すまぬが、少し待ってくれ」
そう言い残すと、二人は湯から上がって行った。
一人残された私は、考える。
「晋作は……本当に、玄瑞想いだなぁ」
いつも口を開けば、玄瑞を大切にしろだの、玄瑞のモンには手を出さないだの……そんなに、私達をくっつけたいのだろうか?
どうしてかは、よく分からないが……何だか、少し複雑な気分だ。
「さっきは……本当にビックリしたんだから」
頬に手を当てられた時の、あの真剣な表情を思い出す。
ああいうタチの悪い事をするなんて……これだから、手慣れた男は嫌だ。
晋作は……
芸妓の前では、あんな顔をするのだろうか?
あんな風に……言葉をかけるのだろうか?
「いつまでも馬鹿な事を考えてないで、そろそろ上がろっと」
私は湯から出ると、身支度をして部屋へと急いだ。




