夢現
私は、重い瞼をゆっくりと開く。
此処は……何処だろう?
目の前には小さな建物。
しかし、それは見知らぬ物だ。
確かに私は、あの店で刀を突き刺し、意識を失った筈。
なのに、何故こんな場所に居るのだろうか?
そういえば、腹部の傷も痛みも感じない。
「晋作……? 玄瑞……?」
二人の名を呼ぶが、姿が見えない。
もしかしたら……私は、声すら出てはいないのかもしれない。
「ねぇ……何処に居るの?」
それでも私は、必死に二人を探す。
この風景
もしかして……
元の時代に戻ってきたの?
それとも……
全ては夢?
今この瞬間も、二人と共に過ごした時間も、惣次郎との恋も……全ては夢か幻か。
見知らぬ場所で私は、一人立ち尽くす。
「お嬢さん……大丈夫ですか?」
突然、男性に肩を叩かれた。
「貴方は……誰?」
男性は、柔らかい笑みを浮かべている。
「美奈。私は貴女にずっとお逢いしたかったのですよ」
「どうして……私の名を?」
「さぁ、どうしてでしょうねぇ? 私が生きた人間ではないから……でしょうか?」
「はぁ!? 生きてないって……貴方は死人だとでも言うつもり!?」
この人は何を言っているのだろうか?
生きた人間ではないだなんて……
嫌な冗談を言う人だ。
その話が本当だとしたら……私とて、死んでいる事になってしまうだろう。
しかし
私には足もある。
幽霊というものは見た事は無いが、足がない物だと相場が決まっている。
だが……死ぬような行動を取っていただけに、この人の話も無下には出来ないような気がした。
「ねぇ……私……死んだの?」
「どうでしょうねぇ?」
「っ……ふざけないで! 生きた人間ではないと言うなら……貴方は、神様か何かなんでしょう? だったら、私が死んだかどうかくらい分かる筈よ」
言い知れぬ不安からか、私はその男性に掴みかかる。
「私は、神でも仏でもありませんよ。ただの大罪人です」
「大罪人? 神様じゃないなんて……ますます分からないわ。貴方……名前は?」
「名前は……伏せておきましょう」
「どうして?」
「今となっては、名など意味を持たないからですよ」
物腰の柔らかい男性だが、その言い回しといい……何だか奇妙だ。
何より、私を知っている。
この人は一体、誰なのだろう?
「そんな顔をしないで下さい。私は貴女に危害を加えるつもりはありませんよ」
「でも……」
「おやおや、貴女らしくもないですね」
「私らしく……ない?」
まるで、私の事を良く知っているかのような口振りだ。
私は思わず、眉をひそめる。
「貴女はどうして、あんな事をしたのです? 若い娘が……自刃するなど……正気の沙汰とは思えませんね」
「えっ!?」
「玄瑞や晋作が……悲しむとは考えませんでしたか?」
「どうして……それを……」
この人は、私がした事をまるで見ていたかの様に話した。
それに……
玄瑞や晋作の事も知っている。
この人が何者なのか、知りたい。
どうしたら、名前を名乗ってくれるのだろうか。
「全て話してごらんなさい。貴女が不安に思う事を……全て」
「っ……どうして、見ず知らずの貴方に話さなければならないのよ! 自分は名乗りもしないクセに……そんなの、おかしいでしょう?」
「フフ……貴女はやはり面白い。私がもう少しだけ長生きしていたならば……私の元で学ばせる事も出来たのでしょうね」
「学……ぶ?」
その言葉に私の頭の中で、一人の人物の名前が浮かんだ。
「吉田……松陰?」
「……もしかしたら、私はそんな名だったかもしれませんね」
男性は何だかはぐらかすか様にそう言うと、優しく微笑んだ。
「貴方が……松陰先生なの? どうして、こんな所に……」
「私が貴女に逢いに来たのではありませんよ。貴女が、私に逢いに来たのです」
「私が……先生に?」
「双璧の事で思い悩んでいるのでしょう?」
「っ……そう……よ」
この人が吉田松陰。
見たところ穏やかで、いかにも人格者といった感じだ。
玄瑞は勿論、晋作ですら心酔した人物。
そんな松陰先生が、何故ここに?
私がこの時代に来るよりずっと前に、松陰先生は処刑された筈だ。
という事はやはり……
私は、死んだのだろうか?
そう思うと、何だか全身の力が一気に抜けていく様だった。
「村塾に居た頃も、双璧はよく口論していました。たいていは、討論から口論に発展しましてね……最終的には、傷を作る様な喧嘩にまでなってしまうのです」
「そうなの!? それって、今日の出来事と同じだ!」
「貴女は自分の存在が、彼らの不仲の原因であると捉えているのでしょう?」
「その通り。晋作は玄瑞に、私を甘やかすなと怒るし……玄瑞は晋作に、私の扱い方に対して怒るの」
私は、俯いたまま言った。
「……貴女のせいではありませんよ。先程も言ったように、二人はよく口論していました。貴女の事で口論となるのは、二人が貴女を大切にしているからでしょう」
「私が……大切?」
「人それぞれ性格が異なるように、優しさの形も異なります。玄瑞の優しさは分かりやすいかもしれませんが、晋作の優しさは分かりにくいでしょう」
「そうね。晋作は、たまぁに優しくしてくれるけど……たいていは、意地悪ばかりするわ」
「だからこそ、余計に分かりにくいのでしょうね。ですが……晋作は間違いなく、貴女を大切に想っていますよ」
松陰先生は、何故か自信有り気に言い切った。
「どうして?」
「それはね……晋作にとって不要な者であるならば、貴女を側に置く事はしないからですよ。彼は、人の好き嫌いが言動に顕著にあらわれますからね」
「……そう」
「今頃きっと……二人は、悲しみに暮れている筈です。私を失い、今度は貴女を失うのですから……」
松陰先生の言葉に、私は胸を痛めた。
私が居なくなれば、二人の為になる。
そう思って、自ら刀を突き立てた。
しかし
松陰先生の考えが本当ならば……私は、取り返しのつかない事をしてしまったことになる。
松陰先生を失い……私を失う。
私の事を大切に想っていてくれたのだとしたら……
松陰先生の死に対する傷が癒え始めた頃に、また新たな傷を作ってしまったという事だろう。
「そういう意味では……貴女も立派な大罪人ですね」
「っ……そうね。でも、私には……違う罪もある。だから、松陰先生よりも罪は重いかもしれない」
私はそう言いながら、ポロポロと涙を流す。
自分は、本当に馬鹿だ……
二人に謝りたいのに、もう謝る事すらできないのだ。
「私より罪深いとは、どういう意味ですか?」
松陰先生は、私の背中をさすりながら穏やかに尋ねた。
「私……ゆくゆくは敵になる相手を……好きになっちゃったの。その人とずっと一緒に居たかったけど……玄瑞たちに恩があるから……」
「それで?」
「その人を忘れようとしたけど、まだ忘れられなくて……二人の側に居るのに、何だか気持ちだけが宙ぶらりんなの」
松陰先生は、静かに私の話を聞いてくれていた。
「そんなに好いているのに、どうして離れたのです?」
「それは……今更、二人を裏切れないから……」
「本当にそれだけでしょうか? 彼らはね、もしも貴女がそんな理由で二人の元を離れると言うならば、きっと貴女を祝福するでしょう。貴女とて、彼らの性格は分かっているでしょう?」
「……っ」
「つまり、貴女は無意識に……その彼ではなく、玄瑞や晋作を選んだのですよ。私には、貴女が恋という不確かな感情に、舞い上がっていただけの様に思えます」
「そんな事……」
私の言葉を遮るかのように、松陰先生は言う。
「本当に好いているのであれば……何もかもを捨てて、共に生きる道を選ぶ筈です。違いますか?」
松陰先生の問い掛けに、私はどうしても答えられなかった。
どう答えて良いのかすら、分からなかったのだ。
「貴女は、自分が恋していると錯覚していたのではありませんか? 相手が自分を好いているから、自分も相手を好いていると思い込んで居たのではありませんか?」
松陰先生の声色はとても優しいものだったが、その言葉にの一つ一つは、私の心を抉るかのように厳しいものだった。
「双璧の元へと戻った時点で、貴女は彼よりも双璧を選んだのです。その彼より、玄瑞や晋作の事を大切に想っているという事でしょう」
「私が、惣次郎よりも……玄瑞や晋作を好きだと……言いたいのですか?」
「はっきり言ってしまえば、そうなりますね。今の貴女は、自分に酔いしれているに過ぎません」
松陰先生は、私の頭をふわりと撫でた。
「恋に破れた可哀想な自分に、ただ陶酔しているのです。それでは、この先の人生も……たいした物にはなりませんよ?」
「この先の人生って……」
私は既に死んでいるのだから、この先なんて無い……松陰先生にそう言い掛けて、口をつぐむ。
「人生には、様々な選択が存在しますが……ここで忘れてはならない事が、一つだけあります」
「忘れてはならない事?」
「全ての選択は、自分自身が行ったという事です。その選択が最善か、はたまた最悪か……そんな事は、誰にもわかりません。ですが……自分で選択した以上は、必ず自分で責任を負う様に努めるのです」
「責……任」
私は松陰先生の言葉を、小さく繰り返す。
「貴女が彼を忘れると選択したのであれば、責任持って、そうする様に努めるべきです」
「でも、どうすれば良いのか分からないの」
「貴女の分からないは、口癖ですか? それは……分からないのではなく、分かろうとしないのではありませんか?」
「分かろうと……しない」
「案ずる事はありません。貴女の側には常に、双璧が居るでしょう? それだけではありません……」
松陰先生は一呼吸おくと、話を続けた。
「この先、貴女は更に多くの者と出逢うでしょう。稔麿に九一に、一誠に……長州の者だけでなく、土佐や薩摩の面々。彼らとの出逢いは、貴女の人生を確実に潤す筈です」
「でも……私はもう……」
「最後に、貴女にも晋作と同じ言葉を送りましょう」
相変わらず、松陰先生は穏やかな表情を浮かべている。
「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし……貴女はまだ、死するべき時ではありません。双璧たちと志を合わせ、新たな歴史を築きなさい」
「……はい」
「本当に死ぬべき日が来るまで、止まらず進み続けるのです。貴女の志は何なのか、それを常に念頭に置く事。良いですか?」
私は、返事の代わりにコクりと頷いた。
「美奈……貴女は、素直な良い子です。ですから……そろそろ、お行きなさい。貴女はまだ生きられる。とにかく二人を……頼みましたよ?」
「松陰……先生!? 私、先生にもっと色々と教えて欲しいの! お願い! もう少しだけ……」
「忘れないで。貴女は、もう……私の立派な教え子ですよ」
最後に松陰先生は私を強く抱きしめ、頭を撫でる。
私からそっと離れた先生は、眩しい程の光に包まれた。
「先生! 私……先生の分も、二人を支えるって約束するよ。先生が見られなかった、景色を……二人には、必ず見せるから!」
私がそう言うと、先生は満面の笑みとなった。
「先生……ありがとう!」
松陰先生が消えると同時に、私の意識も徐々に薄れていった。




