切紙
翌日
私は、近藤サンに呼ばれた。
話があると言っていたが、話なんてあの事しか思い当たらない。
そんな私はいつにも増して、憂鬱な気分で近藤サンの部屋へと向かった。
「近藤サン、入っても良い?」
私は、近藤サンの部屋の前で尋ねる。
「あぁ……よく来たね。さぁ、入りなさい」
近藤サンは襖を開け、私を招き入れる。
「えっと……話ってなぁに?」
私が尋ねると、近藤サンは急に笑顔になった。
何だか意外な表情だ。
話って……私が帰る事じゃなかったの?
「話とはね……美奈に切紙を授けようという事だよ」
「切……紙?」
聞き覚えの無い言葉に、私は首をかしげる。
「我が天然理心流には、多くの段階がある。免許皆伝という言葉なら聞いた事があるか?」
「うん。それなら分かるよ」
「天然理心流を極めるならば、数々の段階を踏むのだが、今の美奈は入門と言ったところだ。入門から今まで毎日、トシから足腰の鍛錬や子具足の手解きを受けているだろう?」
「そうね……はじめの半月は、竹刀もまともに握らせてもらえなかったもの。あれは、キツかったな」
私はあの日々を思い出し、深い溜め息をついた。
だが、今は違う。
稽古の時間以外でも、惣次郎が付きっきりで剣術を教えてくれている。
その稽古は、土方サンよりも厳しい稽古であるが、その分上達も早くなった気がする。
「美奈も入門からもうすぐ三月だ。鍛錬も真剣に取り組んで居るし、上達も申し分無い。きっと、元より素質があったのだろうな。とても初めて剣術を学ぶとは思えん程だ」
「それと、切紙に何の関係があるの?」
結局今までの話では、切紙が何なのか分からない。
それどころか、切紙とは切り絵の類かと思ってしまう始末だ。
「あぁ、話が逸れてしまったな。切紙とは、天然理心流を極めるまでの段階の一つだ。これを経て、目録や中極位目録……果ては私の様に、これを人に教える免許を持つ事ができる様になるわけだ」
私は首をかしげる。
「分かりやすく言うと、天然理心流には6つの段階がある」
「段階?」
「切紙に目録。中極位目録に免許……そして、印可に指南免許だ」
「近藤サンは全部通って来たの?」
「勿論だ。十三年はかかったがね」
近藤サンはそう言うと、口角をあげる。
正直、十三年が長いのか短いのか……凄いのかどうかすら、私には分からない。
でも近藤サンの表情から察するに、きっと凄い事なのだろう。
「つまり……切紙ってのは、その一番はじめの位だって事? うーん。それって、微妙だよね……強いんだか弱いんだか、よく分からないよ」
私の言葉に、近藤サンは笑い出す。
「そうだなぁ……確かにその通りだ。だがこれは、トシも惣次郎も通って来た道だ。参考になるかは分からんが……入門から切紙を授けられるまでは、一年弱から一年半はかかるな」
「という事は……異例の大出世!?」
「まぁ……そうだな。切紙がほんの始まりだとは言え、実戦では有効な筈だ」
「そっか……私、強くなれたんだ。これで……みんなを護れるね!」
私は、目を輝かせる。
「だがな……」
近藤サンは、浮かれきって調子に乗る私を諭すかの様に、話を続けた。
「剣術とは、所詮は人が人を斬るためのもの。その身を護るためだと言ってしまえば体が良いが……どんな理由を持ってしても、最終的に人を傷つけているという事実は歪まない」
「それは……そうだけど……」
「それと、な。刀を抜くという行為は……同時に自分が死ぬ覚悟を持たなければならないという事だ。美奈には、それが出来るか?」
突然、重い雰囲気の話になり、私は戸惑う。
自分や誰かを護るために、他人を殺す……か。
しばらく考えたが、その考えは上手くはまとまらなかった。
「漠然としすぎていて分からないか……ならば少し質問を変えよう。そうだなぁ……例えるならば、惣次郎を護るために、トシの前で刀を抜けるか?」
何だ……その例えは。
余計に訳が分からない。
「惣次郎は……迷わず土方サンを斬ると思う。だって、惣次郎は私や土方サンより強いし……私の陰に隠れるような男じゃないもの」
「確かに……そうだな。では、これならどうだ?」
近藤サンは、私の的外れな回答に大笑いしている。
「惣次郎が傷を負っていて戦えない。トシは惣次郎にとどめを刺そうとしている。しかし、美奈がトシとやり合ったところで、結果は目に見えている……これならば、お前はどうする?」
今度の例えは分かりやすい。
こんなの答えは決まりきっている。
「迷わず刀を抜くわ!」
私は真剣に言った。
「トシと刀を交えたとて、勝ち目は無いが?」
「そんなの関係ない! たいした時間稼ぎにならなくても構わない……私は、こういう時の為に剣術を習ってるんだもん」
「そうか……良い答えだ。だが……個人的には、あまり無理はして欲しくはないな。お前は今や、皆の妹の様だからなぁ」
近藤サンは苦笑いを浮かべる。
その後、私は近藤サンから書状を渡された。
達筆すぎて、正直読めはしないが、こういうのは気分や雰囲気が大切だ。
近藤サンにお礼を言うと、私は懐に書状を仕舞う。
「竹刀も卒業……だな」
「どういう事?」
「何だ、気付かなかったのか? 普段、惣次郎もトシも、木刀を使っているだろう?」
「そう言えば……竹刀姿を見るのは、私に教える時くらいだったかも」
私は不意に思い出す。
「本来ならば……竹刀では無いんだよ。まぁ、試合は竹刀を使うがな。一人で鍛練する際には、木刀を用いる。とはいえ、美奈は女だし剣術の経験も無いからな。今までは竹刀を握らせていたわけだ」
「女だから……ねぇ」
「だが、気概も腕も十分あると思う。だから今後は木刀を使って良い。お前はもうすぐ帰るのだろう? 目録までは届きはしないが……残りの時間も有効に励むように」
近藤サンは私の肩をポンと叩く。
「ありがとう……長州のみんなに、良い報告ができるよ。近藤サンも、他のみんなも……私は大好きだか……ら」
優しく微笑む近藤サンに、私はついつい泣いてしまった。
近藤サンと……試衛館のみんなと別れた先を考えると、胸が痛む。
「ほう。気丈な美奈も、かような表情をする事もあるのか……やはり、年相応な娘なのだな」
近藤サンは何だか感心している。
「もう……近藤サンは私を何だと思っているのよ。私だって悩む時くらいあるわよ」
「すまん、すまん。何とも意外だったものでな。時に……惣次郎との事はどうするのだ?」
「どうするって……どうにもならない……じゃない」
私は近藤サンから顔を背ける。
「どうにもならない……か。本当にそうなのか? 例え立場上で敵対したとしても、心底憎しみ合えるものなのか?」
「そんなの……出来るわけ無い。けど……」
「まぁ良い。今は分からずとも、その時が来ればきっと答えは見つかるだろう」
近藤サンは最後に、私の心に引っ掛かるような言葉を残した。
先なんて……分かりきっているのに。
「私……そろそろ道場に戻るね」
「あぁ。しっかり鍛練しておいで」
近藤サンの笑顔を背に、私は道場へと向かった。
剣を振るって雑念を吹き飛ばしてしまいたい。
鍛えている時は何も考えなくて済む。
あと数日……私は何をすべきなのだろうか。




