船旅
私に異変が訪れたのは、船が出港してからすぐのことだった。
海の見えない街で育った私は、船に乗ること自体が初めてだ。
「久坂さん……気持ち悪い」
私は涙目で久坂さんに訴えた。
「もしや、船酔い……か?」
「た……多分。船なんて……初めて乗るから……とにかく気持ち悪い」
久坂さんは、そっと私の背中をさする。
「吐けるのならば吐いてしまった方が良い」
「絶対にイヤ!」
いくら色気の無い私でも、人前で吐くなんて絶対に嫌だ。
こみ上げそうになる物を、気合いでねじ伏せる。
「私には医術の覚えがあると言っただろう? 気分が優れないのに、医者の前で我慢なぞするな」
「そ……そういう問題じゃない!」
私は吐き気に耐えながら、ポロポロと涙を流す。
「……お前は強情だな」
久坂さんは深く溜め息をつくなり私を横抱きにすると、船室へと向かった。
「だ……だめ! 久坂さん……今動くと……出ちゃう……かも」
「……出したければ、出せば良い。私は医者だ。その程度何とも思わん」
私の必死の訴えも虚しく、久坂さんはサラリと言う。
「我慢……する!」
船室に入ると、久坂さんは私に少しずつ水を飲ませた。
それから、久坂さんは私の頭を自分の膝の上に乗せると、右側を下にして横になるようにと言った。
「こうすると、少しは楽だろう?」
「う……うん。少しだけ……ね。右側臥位は……理にかなっている……もの」
「眠れそうなら、このまま眠ってしまう方が良いのだが……」
久坂さんはそう呟きながら、私の頭を撫でた。
その状態でしばらくすると、どうやら吐き気も落ち着いてきた様で、その代わりに睡魔が襲う。
人のぬくもりが……心地……良い……。
再び目覚めるとそこに久坂さんの姿は無く、既に朝日が昇る時間となっていた。
船上から見る太陽はとても眩しく、それでいて美しい。
昨日の船酔いは嘘のようにおさまっており、とても清々しい気分だった。
「……起きたのか?」
私の姿に気が付いた久坂さんが近付いてくる。
「もう気分は悪くないか?」
「お陰様で治ったみたい。ありがとう。それより……真剣な顔をしてどうしたの?」
「長州まであと僅か……気分が良くなったのなら、そろそろ美奈の身の上話でも聞こうかと思ってな?」
「身の上話?」
「そうだな……先の世でどのように暮らしていたか……など、何でも良い」
そう言われてみれば、久坂さんに私の事を何一つ話していなかった。
特に聞かれもしなかったので、話すタイミングが無かった……という方が正しいのかもしれないが。
「お前は、どのような暮らしをしていたのだ?」
「暮らし? 暮らしなんて大したことないよ。庶民中の庶民だもの……この時代に言い換えてみれば、町人みたいなものね。とりあえず言えることは、学生だったって事かな? 私は、看護師になるための学校に通ってたの」
「かん……ごし? がっ……こう?」
「そっか……言葉の意味がわからないのよね? えっと……看護師って言うのは、医者の補佐をする人。医者が患者に医療を施す手伝いと、患者の療養上の世話って言えば分かる? 補佐や世話とはいえ、あらゆる医学と看護技術を学ぶからそれはもう大変で……医学が進歩している分、もしかしたらこの時代の蘭学以上かもね。それから……学校は、そういうのを学ぶ場所のことよ」
「蘭学……か。すると、お前は外科医術を学んでいたのか?」
「人体だとか、外科的なことも学ぶけど……それに限らず内科から何から、全てを一通り学ぶのよ。今は三年生だから、病院実習……えっと、医術の現場で看護技術の経験を積んでいたところだったの。まぁ……それも中途半端になっちゃったんだけどね」
私の説明に、久坂さんは少し考える素振りを見せる。
「私の時代の医学は、今よりずっと進んでいるから、久坂さんや桂さんも興味を持つんじゃないかな? だって、確か……二人とも藩医の息子でしょう? 久坂さんは医者だって言ってたしね」
「お前は……桂さんを知っているのか?」
「私の時代では、幕末……えっと、今のこの時代が大人気でね。長州の人達だったら、久坂さんや桂さん……それに高杉さんや伊藤さんとか……すっごく有名だし、とっても人気があるんだよ。まぁ、私は新選組が好きだけど……」
「……長州の者たちが人気? お前の住む時代は、可笑しな世の中なのだな。桂さん程の人格者ならば分かる気もするが、伊藤というのは俊介だろう? あの節操無しが有名で人気だとは……この国の行く末が不安でならんな」
久坂さんは目を丸くする。
「そう? きっと……新しい世を作るために頑張ったり、実際に維新を成し遂げた人達だから憧れるんだろうねぇ」
「お前には聞きたいことが多すぎるな。しかし……残念ながら船着場はもう目前だ。続きの話をするのは落ち着いてからにしよう」
「そうだね」
私は笑顔で答えた。
昼四ツ頃。
現代でいう午前10時頃、私たちはついに長州に上陸した。