試衛館
「で? お前は剣術はどの程度できるんだ?」
晋作の姿が見えなくなった頃、土方サンが私に尋ねた。
どの程度と言われても……
「全くできないよ? 竹刀や木刀にすら触れた事もないもん」
私はさらりと告白する。
「はぁ!? お前……正気かよ? 経験もねぇクセに、住み込みで習おうってのか!?」
土方サンは驚きのあまり、大声を出した。
「土方サン……最初はね、誰でも初めてなのよ? 土方サンだって、初めて剣を握った日があったでしょう? それと同じよ」
私は土方サンを諭すかのように言った。
「お前……生意気なんだよ! そもそも、その話し方は何とかならねぇのか? お前は、どこぞのお姫様かよ!」
「まぁ……こんな美女が居たら、お姫様だと思うのは仕方ないかもしれないけどね? それ以前に、お姫様が此処に居る訳がないでしょう?」
「お前は……自分の立場が分かってねぇようだなぁ?」
土方サンは私の両頬をつねる。
「痛い! 痛いってば!」
何という事だろう。
晋作と離れたというのに、此処にも私の頬をつねる男が居たとは……そんな事は、想定外だ!
「ハハ……美奈は可笑しな娘だな。トシに怯むどころか、対等に話すとは……トシの見込み通り、気概があるな」
「カッチャン、笑ってねぇでコイツを何とかしてくれよ! 全く、躾もなってねぇ女なんざ女じゃねぇよ!」
「いやいや、彼女はこのままで良いと思うがなぁ。実に可愛らしい顔をしているではないか」
「……黙っていればな! 顔が良くてもなぁ、気性の激しい女は、俺ぁ好まねぇよ」
二人は、本人を抜きにして好き勝手言い合っている。
「おやぁ? そちらのお嬢さんは、どなたです? ……土方クン。もしや、貴方は……」
その声に振り返れば、稽古上がりかと思われる男たちが続々と集まってきていた。
「山南サン! 変な想像は止してくれ」
土方サンは、男たちの中央に居る男性を、山南サンと呼んだ。
「休憩かね?」
近藤サンは山南サンに尋ねた。
「ええ、そうですよ。この様に暑くては、多少の休息も大切ですから……ね……」
山南サンは言い切るか、言い切らないかの内にその場に崩れ落ちた。
「山南サン!」
その場に居たみんなが、山南サンに駆け寄る。
「みんな、どいて!」
私の声に、反射的にみんながどいた。
その隙に私は、倒れた山南サンの様子を診た。
脳梗塞?
それとも、貧血か何か?
私には診断など出来るはずは無いが、それでもここに居る皆よりは幾分マシだろう。
それにしても……この暑さなのに、汗が出ていない。
加えて、身体も何だか熱い気がする。
稽古上だったと言っていたし、この時期の道場内はきっとかなりの暑さだったはず。
これは……うつ熱状態なのかもしれない。
「そこの筋肉質の貴方! とりあえず、山南サンを涼しい部屋に連れて行って横にさせて。それから……貴方は、氷とか井戸水とか何でも良いから、身体を冷やせる物を大量に持ってきて! 私は、部屋に荷物を取ってくる」
突然の指示に皆は困惑しながらも、それぞれの役目を果たそうと動き出した。
山南サンの部屋に急いで行くと、既に皆が準備を済ませていてくれた。
とりあえず、片方の脇の下や首筋、太股などに氷や井戸水で冷やした手拭いを入れる。
衣類を脱がせ、身体に水をかける。
「お、お前……何してんだよ」
土方サンは私の肩を掴む。
「良いから、皆でこのまま団扇で扇いでて!」
「わ……わかった」
私のあまりの剣幕に気圧された土方サンは、他の皆と共に山南サンに風を送る。
その間、もう片方の脇の下で体温を測った。
「38度9分か……発汗も無いし、多分うつ熱状態なんだと思う」
うつ熱というのは……体温が上手く放散できずに、体内に熱が蓄積してしまい、高体温をきたす状態の事だ。
運動などにより熱産生が熱放散を上回り、バランスを崩してしまうと、起こしやすい。
まぁ、分かりやすく言うと……熱中症だ。
しかし、うつ熱状態という事は、3段階の重症分類の内の3度なのだろう。
3度は重症型だ。
意識喪失と発汗の無さ、それに38度以上の発熱。
本来ならば、緊急入院モノだ。
意識も無いので、経口補水液……つまり、スポーツドリンクの様な物を飲ませる事は不可能だ。
早く何とかしなくては……
私は必死に頭を巡らせる。
「やるしか……ないよね」
一つの策を思い浮かべると、私は荷物をまさぐった。
乳酸リンゲル液
そして
輸液セット
リンゲル液は、氷で冷やしている。
このリンゲル液は生理食塩水に色々と加えられたもので、病院でもよく見かける輸液製剤の一つだ。
何故こんな物を持っているかと言うと……それは、人に入れる為ではなく、輸液の滴下速度を練習する為に配られたものだった。
輸液セットも同様だ。
これらは全て点滴の手技を習うために配られたもの。
しかし、どれも新品の本物であるので、実際に使用できない事も無い。
問題はただ一つ……
私は、人体に注射をした事が無いという事だ。
昔は、学生同士で注射や採血をし合ったらしいが、今はやらない。
どこかの学校で、事故があって以来、全国的に行われなくなったそうだ。
だから、私たちは人形に針を刺しただけだ。
しかし、不安だなどとは言っては居られない。
死ぬか、生きるかなのだから……
「これを持って立ってて!」
側に居た人に輸液製剤を手渡した。
アルコール綿で輸液製剤の刺し口を拭い、ビン針を刺す。
今度は山南サンの側に寄り、刺しやすそうな血管を指で探した。
「おい、お前……何をする気だ!」
土方サンは声を荒げた。
「うるさい! 山南サンを死なせたくなかったら、黙ってて」
私は土方サンを制止すると、再び血管を探す。
「ここだ!」
良さそうな位置を見付けると、アルコール綿で拭いながら、深呼吸をした。
そして、針をゆっくりと刺し入れる。
針が血管に入った感触がしたが、これで一息ついては居られない。
輸液がしっかりと落ちるかが重要だ。
「うん……落ちてる!」
輸液が落ちていくことを確認すると、時計を見ながら輸液セットのクレンメを調節し、滴下速度を変えていく。
そこまで終わると、私は緊張の糸がほどけたかの様に、膝から崩れ落ちた。
「おい! 大丈夫か?」
咄嗟に土方サンに支えられる。
「うん……大丈夫。これはきっと、精神的な疲労って奴ね……」
私は、力なく笑った。




