病に臥す
清国での生活も、既に一か月近く経っていた。
今では宿の近辺の地理にも慣れ、コレラなどに罹る事もなく、私は平穏で楽しい毎日を過ごしている。
高杉サンや久坂サンのお守は大変だが……そんな二人が頼りになると感じる時も、たまにはある。
今日が6月5日。
清国の滞在も、予定では残りはあと1か月程だ。
今日は何処に行くのだろう?
そんな事を考えながら、ベッドから飛び起きる。
空は当然の様に快晴……出掛けるにはもってこいの、良いお天気だ。
「おはよう! あれ? 高杉サンはどうしたの?」
既に身支度を完璧に整え、ソファでお茶をすすっていた久坂サンに、朝の挨拶をする。
いつもなら、もう散歩から帰って来ているはずなのに……
「そういえば……高杉の奴、帰って来ないな。何かあったのだろうか?」
久坂サンの言葉に、入口の扉へと視線を移す。
そこで私は異変に気付いた。
「高杉サン……今日は、お散歩に行ってないんじゃない? だって、履物があるもん」
扉の横の靴棚には、高杉サンの履物が残っていた。
「まだ起きて来ないなんて……変だよね?」
「そんな事はない。高杉の事だ、昨夜も遅くまで酒を飲んでいた故……まだ寝ているのだろう」
「そっか。じゃあ、朝餉までに起きて来なかったら起こしてみるよ」
「やめておけ……アイツの寝起きの悪さは天下一品だ。美奈が斬られでもしたら敵わん」
「……そうなんだ」
その言葉に私は怯んだ。
私だって、高杉サンに斬られるのは御免だ。
久坂サンがそう言うなら、とりあえずそのまま寝かせておけばいいか……
「それより、何だその格好は」
「え? 何か変?」
「若い娘が寝衣のまま出て来るとは……あまり感心しないな」
「だって今起きたんだもん。これから身支度するの!」
「支度を整えてから出てくれば良いではないか」
「寝起きにお茶が飲みたかったんだよ」
相変わらず久坂サンは頭が固い。
私にとっては、寝起き姿のままリビングに行くのは当たり前の事だったが……この時代の人にとっては異質に映るのだろうか?
そういえば、久坂サンはいつもピシッとした姿で朝早くから此処に居るような……
「じゃあ……私、着替えてくる! 絶対に覗かないでよね」
「なっ!? そんな事をする訳があるまい」
真っ赤になって否定する久坂サンを見て笑いながら、自室へと入って行った。
この宿の部屋は千歳丸の船室とは大きく異なり、三人同室であるとは言えども、リビングを中心にして丁度三つの個室があった。
普段はリビングで三人共に過ごし、就寝時には自室へ戻る。
そんな具合なので、船での毎日を思えば断然暮らしやすかった。
帰りの船も、高杉サンと同室なのかなぁ……
それを思うと、少しだけ気分が滅入る。
だって、何だか気を遣うんだもん。
高杉サンは寝起きが悪いと久坂サンが言っていたが、私はそんな姿を見た事はなかった。
まぁ……いつも、私の方が遅く起きていたから、当然と言えば当然なのだろうが。
「支度できたよ! そろそろ朝餉に行こうか……って、あれ? やっぱりまだ起きて来ないの?」
リビングに戻った私は、久坂サンに尋ねた。
「まだ起きて来てはおらん。そういえば、言い忘れていたのだが……私はこれから出掛けねばならん」
「え!? 何処に?」
「千歳丸に居た医者どもと視察だ」
「朝餉は?」
「出先で頂くから良い。お前は、高杉が起きて来たら共に行ってくると良い」
「私も一緒に行く! 医療系の視察なら、私も行きたい」
私は久坂サンに懇願する。
「連れて行ってやりたいが……今回は無理だ。お前は小姓として此処に居る。名目上も医者ではないからなぁ」
その言葉に、私はガックリと肩を落とした。
「そんな顔をするな。土産を買って帰るからな。良い子で留守番していてくれ」
「良い子って……いくつだと思ってるのよ。でも……なるべく早く帰って来てよね」
「心得た」
そう言うと、私は久坂サンを見送った。
久坂サンは、出掛ける際に何度も何度も私に念を押す。
決して高杉サンを起こしには行かないようにと……
久坂サンを見送り、リビングでソファに寝転びながら高杉サンを待つ。
しばらく時間が経ったものの、一向に起きては来る気配はない。
いい加減お腹が減った……
高杉サンは、本当に単なる二日酔いか何かなのだろうか?
もしかして体調を壊し、起きられずに部屋で苦しんでいたとしたら……
そう考えると、何だか心配になる。
「やっぱり起こしに行こう!」
そう思いたった私は、高杉サンの部屋に静かに入って行った。
こっそりベッドに近付くと、高杉サンはすやすやと寝息を立てていた。
「何だ……ただ単に熟睡しているだけじゃない」
病気でないのなら、布団を思いっ切り剥いで起こしてやろうと思った私は、途中で笑い出したくなる気持ちを必死に抑え、布団に手を掛ける。
そして……布団を一気に半分程引っぺがした。
その瞬間
高杉サンの目蓋が少しだけ開き、目が合ってしまう。
マズイ! 怒られる!
そう思った私は、懸命に弁解する。
「た……高杉サン! えっと、あのね……朝餉だからと思って起こしに……って、え!? えー!?」
「寝込みを襲いに来るたぁ……良い度胸さな」
「ちょ……そういう冗談は良いから……は、離してよ!」
布団をはがした瞬間に高杉サンにグイッとベッドに引き込まれ、私は今まさに身動きの取れない状態となっている。
逃げようともがくも、力では敵うはずもない。
「……いつから気付いていたの?」
抵抗しても無駄だと悟った私は、動きを止めると尋ねた。
「部屋に入って来たあたりさな。人の気配には敏感にできているもんでな」
「久坂サンが、高杉サンは寝起きが悪いから斬られるって言ってたよ?」
「寝起きが悪ぃ訳じゃねぇさ。人の気配で目が覚めた時は、つい刀に手を掛けちまう性分でなぁ」
「今日は刀は出てこなかったね」
「手元にねぇからなぁ……」
久坂サンが斬られると言ったのは、そういう事だったのか。
刀が枕元に無かった事を幸いだと思った。
今度からは起こしに行くのは……止めておこう。
「ねぇ……いい加減離してよ!」
「久坂が心配か?」
「久坂サンは出掛けました!」
「……ならば構うまいよ」
「構うに決まってるでしょう? 馬鹿な事を言わないでよね!」
私は高杉サンをキッと睨む。
いつもいつも、私をからかう高杉サン。
でも、今回はふざけ過ぎだ。
こんな事をするなんて……
そんな時、私は何だか違和感を感じた。
高杉サンの身体から伝わる体温が、かなり熱い様な気がする。
実際は、本当に体調が悪くて起き上がれなかったのだろうか?
「ねぇ……何だか熱くない!?」
「気のせいだろう?」
私は、気丈にそう言う高杉サンの首筋に手を当てた。
「熱っ! 高杉サン、熱があるじゃない!」
早くどうにかしなくては……そう思った私は、高杉サンから離れようとする。
「このくらいどうって事はない。寝ていればすぐに治るだろうよ」
「そういう問題じゃないでしょう。とりあえず、離してよ。何か簡単に食べられるものを作るから!」
早く食材を買ってきて、お粥や水分を取らせなきゃ。
そう思う程の高熱だった。
「子供の時分より、俺ぁよく熱を出していたからなぁ……このくらいは大したことはねぇさ」
「でも、水分補給しなくちゃ駄目だよ」
「こういう時は飲み物よりも、眠るに限る」
「だったら、とりあえず私をここから出してってば」
高杉サンの熱に、私の体温まで上がりそうだ。
「お前は……抱き心地が……良いな」
そう呟く様に言うと、高杉サンはそのまま眠りについてしまう。
すやすやと寝息を立てているところを起こしてしまうのは何だか可哀想な気がした。
「もう……どうしろって言うのよ」
仕方が無いので、寝入って高杉サンの力が抜けたところで布団から出ようと考えた。
高熱で弱っているクセに、態度はデカいんだから……体調が悪いなんて分からないじゃない。
私は深い溜息をついた。
「……起きたのか?」
布団から抜け出すタイミングを窺っていた私は、いつの間にか一緒になって眠ってしまっていた様だ。
「あ……そうだ! 熱は!?」
私は高杉サンに触れる。
朝よりは下がっているものの、まだ体温は少し高い様に感じた。
「気分はどう? 少しは良くなった?」
「少し寝たらだいぶ楽にはなったな……礼を言う」
こんなに素直な高杉サンは初めて見た。
熱のせいだろうか?
「いい加減離してくれるよね?」
「あぁ……悪かったな」
ベッドから抜け出すと、私は大きく伸びをした。
「お前……何の夢をみていた?」
高杉サンは不意に尋ねる。
「夢? さぁ……覚えてないけど」
夢の内容はおろか、夢を見ていたかどうかさえ覚えてはいない。
「そうか……」
高杉サンの反応が、少し気になった。
「私……何か、寝言を言っていた?」
「クク……さぁな。きっと、良い夢を見ていたのだろうよ」
「何それ! すっごく気になるんだけど! 私、何を言っていたの?」
私は必死で尋ねた。
「そうさなぁ……俺と……」
「え!? 高杉サンと?」
「久坂の名を何度も呼んでいたな」
「他には!?」
「クク……そりゃあ言えねぇなぁ」
「そこまで言っておいて、それは無いでしょう? 良いから早く教えなさいよ」
私は高杉サンの着物を掴み、催促する。
「病人に掴みかかるたぁ……とんだ看護人さな」
高杉サンは、そう言うと楽しそうに笑った。
その後
久坂サンが視察から帰宅する。
私はというと……見事に高杉サンの風邪をもらってしまった様で、久しぶりに高熱を出していた。
まだ本調子でない高杉サンと、高熱を出している私。
そんな私たちを、久坂サンは文句も言わずに、一晩がかりで看病してくれた。
私が食べられそうな食事を用意してくれたり、何度も様子を見に来てくれたりと……本当に、至れり尽くせりだった。
翌日
久坂サンの看病のお蔭もあって、私も高杉サンもすっかり回復していた。
どうして二人同時に熱を出すのか……
久坂サンは不思議そうな顔をしていたが、その理由は心の中にそっと仕舞い込んだ。
今日からまたお出掛けがしたいと駄々をこねてみたものの、それが通用するわけもなく、この日は私も高杉サンも、久坂サンの監視下でおとなしく過ごしていた。
そう言えば……
あの時見た夢は、一体どんな夢だったのだろう?
私が、高杉サンと久坂サンの名前を何度も呼んでいた……と高杉サンは言っていた。
楽しい夢だったのだろうか?
高杉サンのあの表情から察するに、きっと良い夢だったに違いない。
今となっては夢の内容など分からない。
でも、別に構わない。
だって……
今だって、夢みたいに楽しい毎日を、この三人で過ごしているのだから。




