仏国租界
日も傾きかけ、一旦宿に戻ってきた私たちは、この後夕餉を摂ることにした。
宿への帰り道に偶然、中牟田サンと五代サンに行き会ったので、二人も共に食事をする事となった。
清国での初めての食事。
どんな料理があるのか楽しみで仕方がなかったが、私には少しだけ不安に思う事があった。
「食事は、宿で摂るの?」
私は高杉サンに尋ねる。
「いや……折角だからな、外に出ようと思っている」
「外食……かぁ」
「何だ、随分と浮かない顔をしてやがるじゃねぇか。食いモンには目がねぇお前が珍しいな?」
「私、そんなに意地汚くないもん。水や食べ物がね……少し、心配なの」
私はポツリと呟く。
「心配? 料理がお前の口に合うか、という事か?」
久坂サンは私に尋ねた。
「違うよ! 私、好き嫌いは全然ないもん。そうじゃなくって……その、衛生面で」
「衛生?」
「清国はコレラが蔓延していたって聞いた事があるから……それにね、私の時代でも黄浦江の水には注意するようにって、言われてるくらいだからさぁ」
初の海外旅行で、コレラなんぞに初感染するのは御免だ。
米のとぎ汁など排出したくはない。
ちなみに、米のとぎ汁というのは何なのか? というと……コレラでお腹を下した時の、その物の色と見た目の事だ。
講義の最中に写真で見た事があるが、これは本当に人間の物なのかと思うほどに真っ白だったのを今でも覚えている。
「コレラ?」
久坂サンは首をかしげる。
聞き慣れないとでもいう様な雰囲気だ。
コレラは江戸時代では何と呼ばれていたっけ?
必死に記憶を呼び起こす。
「えっと……罹ると、お腹が下ってすぐに死んじゃうやつ! 三日だっけ? 4日だっけ……」
「三日狐狼狸の事か?」
「そうそう! 確かそんな名前! 流石は久坂サン」
名前が思い出せ、何だかスッキリする。
「絶対に生水は飲んじゃ駄目だからね? 食事も加熱してない物は食べちゃ駄目だよ! 飲食する直前に火が通った物のみを飲んだり食べたりする事……現時点で私たちが出来るコレラの予防法は、それだけ」
私は二人に必死に主張した。
「そうか……お前がそう言うのであれば、私も気を付けよう」
「高杉サンも、分かった?」
「分かっているさ。生憎、俺ぁ狐狼狸なぞで死んでいる場合ではないからなぁ」
高杉サンは笑いながら言った。
「よし! それなら……早速行こうか」
私たちは、宿の出入り口で中牟田サンらと合流し、仏国租界内の料理屋を物色した。
「何か食いてぇモンはあるか?」
高杉サンがおもむろに尋ねる。
「私たちは何でも良いですよ?」
五代サン達はそう答えた。
私は中華料理と答えたかったのだが……中牟田サンにはまだ高杉サンの小姓として通っていたので、仕方なく黙っていた。
「ならば、此処らで良いか……」
高杉サンが指をさしたのは、フランス料理のお店だった。
店内に入ると、明らかに高級そうな様子。
中華料理が食べたかったのだが、これはこれで嬉しい。
デイレクトール、つまりこの店の支配人に席まで案内される。
「Vous prennez un aperitif?」
「な……何と言ったのだ?」
皆、英語はある程度話せる様だったが、フランス語は全く分からないという表情を浮かべている。
「食前酒はいかがですか? と聞いたんですよ」
私は、こっそり答えた。
「お前……仏語が分かるのか?」
久坂サンが驚きの表情で尋ねる。
「少しだけなら……ね。で、食前酒は飲むんですか? いらないんですか?」
「では、頂こうか?」
久坂サンよりも先に、高杉サンがそう答えたので、私はみんなの代わりに注文した。
「Oui, je veux bien……alors, un kir s'il vous plait」
とりあえずキールを注文すると、支配人はカルトを置いて去って行った。
「さっぱりわからんな」
カルトは全てフランス語。
当然と言えば当然なのだが……皆は既に困り果てている。
「おい、お前が適当に選べ」
高杉サンは私に命じた。
「宜しいのですか?」
「良いも悪いもあるまい。お前以外に仏語がわかる奴もいねぇからな」
その言葉に、私は目を輝かせる。
こんな高級店で、好きに前菜やメインなどを選べるのだ。
これは、そうそう無い体験だ。
「alors, vous avez choisi?」
しばらくするとギャルソン、つまり給仕係が注文は決まったかと尋ねに来た。
「 Je prends ca」
何でも良いと言われたので、前菜からデザートまで私が食べたいと思った物を、ここぞとばかりに好きに注文した。
「ok……et comme boisson?」
更に、給仕は飲み物は何にするか尋ねる。
「飲み物は何にしますか?」
「飲み物ならば、先程はじめに頼んだではないか?」
「あれは食前酒。これは、食事中に飲むものです」
私は久坂サンに説明する。
「それならば、折角ですから仏国のお酒を頂きませんか?」
中牟田サンの提案に、皆は賛同した。
「Qu'est ce que vous conseiller?」
給仕にお勧めを尋ねるとその給仕はソムリエと代わり、私はソムリエの勧めるワインをとりあえず注文した。
「それにしても……高杉サンの小姓は有能だ。仏語は何処で習ったのです?」
中牟田サンは目を輝かせながら尋ねた。
「仏語は長崎滞在時に覚えさせた。なぁ、春通?」
高杉サンは突然私に話を振る。
「え……ええ、そうです。ですが、初めて使うので緊張しました……」
長崎でというのは流石に嘘だが、初めて実践するというのは本当だ。
海外旅行自体が初めてなのだから。
そんな私が、どこでフランス語を学んだのか……というと。
私は進学前は、英文科の高校に通っていた。
そこでは、3年間のカリキュラムの中で、英語以外の言語を2科目選択して学ばなければならなかった。
そこで選んだ一つがフランス語。
理由は何だか、格好良さそうだったからだ。
それがこんな所で役立つ事になろうとは……人生とは予測不能な物である。
しばらくすると、食前酒と前菜が運ばれてくる。
「お前を手本にするから、好きに食え」
高杉サンがそう言うと、皆も頷く。
そんな事を言われても…………
がっつり見られていたら、食べづらいじゃない!!
その言葉の通り、私と同じ作法で皆は料理を口に運ぶ。
何だっけ……こんな様な話の落語があったよね。
作法が分からないから人の真似をして食べるんだけど、そのお手本にしている人が里芋の煮物をつい箸から落としてしまって……それが作法の一つだと思ったみんなが、それまで真似してしまうっていう話。
今私が何か粗相をしたら、皆もそれを作法だと思い真似してしまうのだろうか?
そう思うと少し緊張する。
そんな私の緊張はよそに、メインが運ばれてくる頃には皆にもお酒が入り、初めの頃の仰々しい雰囲気などすっかり無くなっていた。
「仏国の酒も美味いな……」
高杉サンは赤ワインが気に入ったようだ。
グラスを持つ姿が、何だか似合う。
「さて……明日からは何処に行きましょうかねぇ? 高杉サンは何か考えていますか?」
五代サンは視察の話を話題にする。
幕府の仕事とはいえ、貿易関係や対外関係の仕事は役人の役目であり、高杉サンらには特に任務は無く視察に費やせる時間はたっぷりある。
「そうさな……まずは清国の街や社会情勢、それに清国人の現状を正確に理解する事。その後は英国砲台や武器類を見に行こうと考えている」
高杉サンの真剣な表情と、真面目な回答に少し驚いたが……それよりも、料理の美味しさに気を取られていた私は、話もそこそこに聞いていた。
至福の表情で料理を口に運ぶ私とは対照的に、真面目な表情で小難しい話ばかりを繰り広げる四人。
こうして見ると、さすがは歴史上の偉人といったところだろうか。
やる時はやる……そんな姿勢を感じた。
「Au revoi , mercir!」
食事も済み支配人に挨拶すると、私たちは店を出る。
「さて……と。宿で飲み直すとするかねぇ?」
五代サンらと別れた後、高杉サンはそう言いながら手にしていたワインを私に渡す。
「え!? これどうしたの?」
「店のモンに譲ってもらった」
「フランス語も分からないのに!?」
「お前が話していたからな……酒を譲り受けるくれぇの仏語ならば覚えたさ」
「……さすが……だね」
あんな短時間の滞在で理解してしまうとは……
私が思っている以上に、高杉サンという人物は周りをよく見ているという事だろうか。
こういう人物だからこそ、歴史を動かすことができるのかもしれない。
「おい……ぼさっとしてんじゃねぇよ。さっさと帰ぇるぞ!」
高杉サンは呆然としていた私の額を小突くと、前を歩きだした。
「痛っっ! もう……何すんのよ!?」
私は頬を膨らませながら後を追う。
「高杉っ! お前は……美奈に傷が残ったらどうしてくれる! だいたいお前はだなぁ……」
久坂サンは小言を言い始める。
「コイツが傷モンになったら、久坂が貰ってやりゃぁ良いだろ?」
「フフ……それは勿論…………」
「お断りします!!」
毎日、こんな他愛もない遣り取りが出来る事こそが、ささやかな幸せなのかもしれない……




