ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト
イネさんに案内されて着いたのは、ポンペさんの居る部屋だった。
「先生、少しよろしいですか?」
ドアの前でイネさんが声を掛ける。
「あぁ、構わないよ。入りなさい」
その言葉に私たちは、イネさんと共に入室した。
「そこの二人はどなたかな?」
ポンペさんは、私と久坂サンを交互に見た。
「この二人は、養生所を見学に来たのですよ。久坂サンと、美奈サンですわ」
イネさんは私たちの名前を告げた。
「久坂玄瑞と申します。私は萩で医者をしております。こちらは美奈と言いまして、私の元で医術を学ばせています」
久坂サンと私は頭を下げた。
「そうか……実に面白いね。イネのように医術を学ぶ女性がいるとは……驚いたよ」
「そうでしょう? 私も驚きました。ですから、先生の元にお連れしたのですよ」
イネさんは嬉しそうな表情を浮かべている。
「それで、この病院はどうだったかね?」
「学ぶべき点が多く、素晴らしいものでした。私も一人の医者として、こういった施設が増える事を願わずにはいられませんね」
「そうか、そうか。で、そちらのお嬢さんは如何かな?」
久坂サンの答えに満足そうな表情を浮かべたポンペさんは、続いて私に尋ねた。
「確かに素敵な施設です。この時代としては近代的な物だと思いました。ですが……この病院には、足りないものがあると思います」
「足りないもの……か。なにか気になる事でもあるのかね?」
ポンペさんは、訝しげな表情に変わる。
言っても良いものか……私は少し迷ったが、思いきって告げる事にした。
「ポンペさんは、ナイチンゲールをご存知ですか?」
「ナイチンゲール……か。確か、クリミア戦争に従軍した看護人だね?」
「そうです。この病院に足りないものがあると私は言いました。それは……看護人です」
「看護人だって?」
意外だとでも言いたそうな表情のポンペさんに、私は自分の考えをぶつける。
「この病院では、たいていの患者に付き添い婦が居ますよね。その付き添い婦が患者の療養上の世話をしています」
「それの何が問題かね?」
「医者は診療のみを行い、身の回りの世話は付き添い婦が行う……付き添い婦とはいえ、医学的な知識はありません。これでは、患者の観察が不十分だと思います」
ポンペさんは、腕を組ながら真剣な表情で、私の話に耳を傾けている。
「そこで、看護人を使うのです。カイザースヴェルト学園で看護や医学を学んだナイチンゲールのように……この国にも、医学の知識を持った看護人を育て、配置すべきだと思います。それが患者の安寧や、医者の診療の負担を軽減させることにも繋がるのではないでしょうか?」
「ふむ……君の考えはよく分かった。この国に私の病院に異を唱える者がいるとは驚きだ。たいていの者は貴女の師の様に、手放しで褒めるものだがね……」
「……生意気なことを言ってしまって、すみません」
「いや、いや。謝る必要は無いさ。もう少し話を詳しく聞きたいくらいだよ」
ポンペさんは険しい表情から一変、豪快に笑って見せた。
「久坂と言ったかな? すまないが、少しこのお嬢さんをお借りできないだろうか?」
「美奈を……ですか?」
「なぁに、この娘を取って喰おうというのではない。ただ、少しだけ話をしたいのだよ」
「……わかりました」
久坂サンとイネさんは、揃って廊下に出て行った。
「さて、何から話そうか。若い娘とこうして話すのは久しぶりだからね、何だか緊張してしまうよ」
そう言って笑うポンペさんを見て、少しだけ不安が和らいだ。
しかし、次の言葉でその空気は一変する。
「単刀直入に伺おう。美奈、君は何故ナイチンゲールを知っているのかね?」
「そ……れは……」
私はうろたえた。
「クリミア戦争を知っている娘など、この国に居る筈は無い。そして、ナイチンゲールを知る者もまた、この国には居はしない筈だ」
ポンペさんは私を鋭い視線で見据えた。
「彼女は看護婦として従軍し、病人の収容施設の環境の改善に尽力したと聞く。衛生に努めることで負傷者や病人の致死率を大幅に下げた。君はそのことを言いたかったのだろう?」
「…………はい」
「問題は、その情報を君が何処で得たか……だ。この国の今の情勢で、英国人と触れ合う機会など一介の娘には無いはずだからね」
そう告げると、ポンペさんは椅子から立ち上がり、私の方へと歩み寄る。
「見たところ、イネのように混血では無いようだし……私にはそれが不思議でならないのだよ」
私は思わず視線を逸らした。
「理由を話しては……もらえないのかね?」
「あの……一日、いえ一晩だけで良いんです。気持ちを整理したいので……そのお答えは少し待っては頂けませんか?」
室内にはしばらくの沈黙が訪れる。
「そうか……君には何か深い事情があるようだね。分かった。君の中で整理がつくのを待とうじゃないか。その上で私に話してもいいと感じたその時は……話してくれるかね?」
「はい……ありがとうございます」
私が小さく答えると、ポンペさんは笑みを浮かべた。
「これだけは覚えておいて欲しい。私は医学を学ぼうとする全ての者の味方だ。すなわち……例え君に何らかの深い事情があろうと、私は君の味方でもあるという事だ」
この言葉を最後に、私は部屋を去った。
廊下に出るなり、そこで待って居てくれたイネさんにお礼を告げる。
私と久坂サンは、藩邸への帰り路を急いだ。
その晩
私は縁側で月を見上げ、頭を悩ませていた。
どうしたら良いのだろう?
この時代の人間でない事はむやみに他言するなと、高杉サンから厳しく言われている。
私に歴史的な知識や未来の技術がある事が露呈すれば、私を利用しようとする輩が出てくるだろう。
そうなれば平穏なこの生活は失われ、命の危険すら伴う可能性がある。
それを高杉サンは懸念し、幾度となく私に忠告していたのだ。
確かにそれは最もだ。
だが、しかし…………
「こんな所に居ては身体に障るぞ?」
久坂サンはそう言いながら、隣に腰を下ろした。
「高杉サンは今夜も居ないの?」
私は尋ねた。
「何だ、高杉が居なくて寂しいのか? お前も言い合いをする相手が居なくて、存外つまらないと感じているのだろうな」
「そんなんじゃないよ。ただ、少し相談があっただけ」
「その相談は、高杉でないと駄目なのか? 養生所を出てからお前の様子がおかしかったからな……これでも心配していたのだが」
久坂サンは苦笑いを浮かべた。
「高杉サンじゃないと駄目っていう訳じゃないよ……」
「そうか……ならば、その相談事とやらを私に話してみないか?」
その一言に、私は今日の出来事を話すことにした。
ポンペさんとの会話の内容。
私の身の上を告げるかどうか……
高杉サンからの忠告。
その一つ一つを全て説明した。
「そうだなぁ……私も高杉と同意見だよ。私とて、美奈には危険な思いはさせたくはないからな」
久坂サンは私の頭にポンと手を置くと、穏やかな表情を見せる。
「そう……だよね」
「だが……その様子だと迷っているのだろう?」
「……うん、そうなんだよね。言いたいけど、言ってはダメ……そんな状況に、なんだかモヤモヤするの」
「そうか……。ならば、何故お前はポンペ殿に伝えたいと思っているのだ? 私は、その理由をまず先に聞くべきだったな」
何故、私の事情をポンペさんに伝えたいのか?
その理由は、ただ一つだ。
「医学を……発展させたいから」
私は呟くように言った。
「医学の発展?」
「そう……。私の持つ医学的な知識を全て伝えれば、世界中の医学は飛躍的に進歩すると思うの。この時代ではまだ、治療法すら分からない病気とか、たくさんあるでしょう?」
「労咳に瘡毒、コロリに中風に江戸患い……あり過ぎて言いきらないな」
「それらの治療法や有効な薬剤の原料や作り方を、簡単にだけど……私は知っているの。でも……だからと言って、薬を作る技術も無ければ、医者の様に手術もできない。つまり、私はただ知っているだけ。それでは、何の役にも立たないわ」
私は深い溜め息を一つつき、話を続けた。
「でもね。その知識を……ポンペさんのような医者や、医学を研究している人達に伝えたらどうなると思う?」
「研究者の手により有効な薬剤が開発され、正しい治療法が日本いや、諸外国中に広まっていく……だろうな。是即ち、医学の発展に繋がる……という事だろうか?」
「そう、その通り! それってね。私が長州の皆の力になれる、唯一の方法だと思うの」
理解力のある久坂サンに感心しつつ、私は思いの丈を余すことなく伝えた。
「長州の誰かが怪我や病気をした時なんかにね……今より医学を発展させていれば、現時点では救えない命も救えるかもしれないでしょ?」
「それは、そうだが……」
「私ね、久坂サンも高杉サンも……萩の街のみんなも……大好きなの! 突然現れた私に優しくしてくれた皆に、恩返しがしたいの」
「恩返し?」
私はコクりと頷いた。
「私が持っている物はね……おおまかな歴史の知識と、ある程度の医学の知識しかないもの。これらを使って恩返しするなら……やっぱり、さっき言ったみたいな方法しか無いでしょう? でも……勝手にそんな事をしたら、高杉サンに怒られそうで……」
久坂サンは、俯く私の肩をそっと抱き寄せると、静かに言った。
「美奈が私たちの事をそう思っていてくれる事は本当に嬉しいよ。お前が私たちを大切に思う気持ちと同様に、私や高杉もお前を大切に思っている。仲間……とでも言うのだろうな。それはお前も何となく分かるだろう?」
「…………うん」
「だが……はっきり言ってしまうとな、私は反対だ。きっと高杉も、そう言うだろうな。とにかく、お前を危険な目に遭わせる事は避けたいからだ」
「それは分かるけど……」
「まぁ、聞け。確かに、反対ではあるが……美奈の意見を蔑ろにする事は私の意に反する事でもある」
「……意味が良くわからないんだけど」
遠回しな言い回しに、私は首をかしげた。
「つまりは、今回に限っては仕方が無い……と思う事にしよう、そう言いたかったのだ」
「本当?」
「まぁ……な。ただし、良いか? 今回は相手が医者だからこそ許したのだぞ。医術のみに専念している者であれば、秘密を告げてもさしたる問題は無いだろう。だが……政治論者の類には絶対に近付いてはならん! 奴らにその秘密を漏らす事は身の破滅を呼ぶ。頼むから、これだけは約束してくれ……」
久坂サンは真剣な表情で言った。
「わかった。約束する! それと……」
「ん? 何だ、まだ何かあるのか?」
久坂サンは首をかしげる。
「いい加減、手を離しなさいよ! いつまで触ってんのよ!」
私は久坂サンの脇からするりと抜け出ると、立ち上がった。
「何だ……気付かれてしまったか」
「いつも、いつも……どさくさに紛れて、そういう事をするんだから!」
「そういう機会でないと、触れられぬからな」
悪びれも無く言う久坂サンに、私は背を向ける。
「もう! 久坂サンの変態っ!」
「なっ!? いつも言っているが……その言い草は無いだろう? 些か酷くはないか?」
こんなやり取りも、今となっては日常茶飯事だ。
「でも…………」
「でも……何だ?」
私は振り返る。
「…………ありがとう」
月灯りに照らされた久坂サンは、いつもにも増して穏やかな表情を浮かべていた。




