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異説・桜前線此処にあり  作者: 祀木楓
第2章 藩医見習い
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呼吸困難



女性に連れられてやってきたのは、診療所から目と鼻の先にある立派なお屋敷だった。


案内されるがままに屋敷へと入る。


通された部屋では、まだ若い娘が苦悶の表情を浮かべ、それでもなお酸素をとり入れようと、必死に息をしていた。




「いつからこうなったのです?」



久坂さんは尋ねる。



「ほんのつい先程です。急に息が荒くなったかと思ったら『胸が痛い、息ができない』 と言い出しました。それからは、何を聞いても声すら出せずに苦しそうに、この状態のままで……とにかく、この子は大事な娘なんです! どうか……どうか、助けて下さいまし」



その言葉を聞くや否や、私たちは娘さんに駆け寄った。



 呼吸困難? 呼吸不全?



その娘さんは、一見して呼吸回数が多い様に感じた。



「ちょっと失礼します」



私はそう言うと、実習セットを取り出す。


とはいえ……実習セットには学生が使う程度の、本当に基本的な物しか入っていない。

 

とりあえず、私は血圧や脈拍それに体温を測った。


それと同時に呼吸数も数える。


緊急時にそんな悠長な……と思われてしまうかもしれないが、こういったバイタルを知る事は基本中の基本だ、といつかの講義で習った。



「血圧120/78mmHg、脈拍数102/分で体温36.2℃。呼吸数52/分ですね。呼吸回数が明らかに多いですね。頻脈もありますね。SPO2が測れないのが痛い……な」


SPO2とは、簡単にいうと動脈血中にどの程度の酸素があるかというもので、測定にはパルスオキシメーターという機械が要る。


しかし、そんなたいそうな物は生憎この実習セットには含まれてはいない。



「美奈、お前はこの娘の病が分かるのか?」


「そんなの分からないよ……だから、出来ることから調べてるの」


「そうだったな。お前の見立てで、他に何か異常は見当たるか?」



この娘さんは、呼吸困難感や胸痛を訴えたそうだ。


正常の呼吸回数を遥かに上回る数と、不安気な表情。


そして手指の伸展、テタニー。


胸痛を伴う呼吸困難はいくつかあると習った。


何の病がこの娘さんを、こうまで苦しめているのだろうか?




「この子、持病はありますか? このようになったことは今までありましたか?」


「いいえ、特にはありませんね。この子はとにかく丈夫なのが取り柄でしたから」


 

既往は無し……か。



「こうなる前、何をしていましたか? あとは、他のどこかの痛みを訴えたとか、何か特別な事を行ったとか……そういった事はありましたか? どんなに小さなことでも良いんです」


「痛みがあったかは分かりませんが、私が知る限るでは……多分そういったことはなかったと思います。特別なことも特には……。こうなる前、そうですねぇ……関係ないでしょうが、こうなる寸前、この子は三つ年上の姉と些か言い合いになり、その最中に苦しみ出したということ以外は何も……」



姉との口論の最中にこうなった?


これって……もしかして……。



「過換気……症候群?」



私は小さく呟く。



「何の病だ、それは?」


「簡単に言うと、息を吸い過ぎってこと! でも、ちゃんとした検査もできないし、そもそも私は医者じゃないから病名の診断なんて出来ないけど……イチかバチかとりあえず、呼吸を落ち着けることからやってみる!! これが駄目なら私にはどうにも出来ない!」



さて、過換気症候群と言えば有名なアレだ。


紙袋を口に当てて吸って……という、ペーパーバッグ再呼吸法。


しかし、他の病気が原因でこういった症状が出た場合に、勝手に過換気症候群だと決めつけてこの方法をとってしまうと、それにより病態の急激な悪化が起こり得る。


最悪の場合、死に至るケースも……。


教科書にはペーパーバッグ法が有効と書かれていたが、呼吸器系の講師はそれに否定的だった。


それにより改善する事例もあるが、必ずしもそうとは限らないから……だそうだ。




「この子の名前は?」


「お雪……です」



私は、不安気な表情を浮かべる雪さんの隣りに座り、雪さんの手をとる。



「雪さん。よく聞いて! 私に任せてくれれば大丈夫だからね」


雪さんを安心させようと私がそう告げると、雪さんはコクコクと頷いた。


「息をゆっくり吐こうね。私が十数えるから、その間息を吐き続けるように頑張ってみてね」



雪さんの手を握り背中を擦りながら、私は数を数えた。



「そうそう、上手上手! もう一度ね」



さすがとでもいうべきか、講義で教わった対処法なだけはある。


これを数回繰り返す頃には、雪さんの呼吸もだいぶ落ち着いていた。



「苦しかったよね……可哀想に」



私は雪さんの涙を、そっと拭った。



「これは……凄いな」



久坂さんは、あれ程までに苦しんでいた雪さんを、声を掛けるだけでいとも簡単に落ち着かせたことに驚いていた。



「あ、あ……本当に、本当にありがとうございます」



雪さんの母は涙を流しながら、お礼を告げた。



「雪さん。ちょっと良い?」


「…………はい」



小さく返事をした雪さんのバイタルを再度測る。



「うん、大丈夫そうだね。今、痛いところは無い?」


「大丈夫……です」


「そっか。念のため、明日また診させてもらえるかな?」


「わかりました……あの、その……ありがとうございました!」



雪さんは俯き気味に言った。






その後、屋敷を後にした私たちは診療所へと戻った。



「お、なんだ。随分と早かったじゃねぇか」



高杉さんは杯を片手に、傍らには一人の女性を侍らし、私たちを出迎える。



「高杉、お前まだ居たのか……それより、何だそのザマは」



久坂さんは高杉さんの姿に、深い溜め息をついた。



「お前らが居なくて暇だったからなぁ……先にやらせてもらったまでさな」



高杉さんは杯を持つ手をあげる。



「そんなことより、お腹空いたなぁ……」


「そう言うかと思ってなぁ、夕餉は用意させてある。お前らの初仕事を盛大に祝ってやろうじゃねぇか」


「わぁ! さっすが高杉さんは分かってるねぇ。もう、大好きっ!!」



夕餉という言葉と次々に運ばれてくる豪華な料理に、私は目を輝かせた。



「んなこと、お前に言われちゃあ……俺ぁ久坂に斬られちまうかもしれねぇなぁ?」


「そのような器の小さきことは、私はしない!」


「美奈、お前のせいで久坂が不機嫌だぞ? さて、どうする?」



高杉さんは楽しそうに呟く。



「私、久坂さんのこと……大好きだよ?」


「なっ!?」


「えっと、久坂さんや高杉さんだけじゃなくてね……伊藤さんも井上さんも、みんな大好き!! 長州って本当に良いところだね」



私は笑顔で言った。



「そ……そういうことか」


「残念だったなぁ、久坂ぁ……それにしても、こりゃあ骨が折れそうな女だなぁ?」


「ふんっ……放っておけ!!」



声を上げて笑う高杉さんを横目に、久坂さんは杯を一気に飲み干した。





高杉さんは早々に帰ってしまったが、私たちはもう少しだけと二人で飲み直すことにした。


縁側に座り、夜空に浮かぶ月を眺める。



「今日は、ご苦労だったな」


「久坂さんこそ、お疲れ様でした」


「私は何もしていないさ。それよりあの娘の病は何だったのだ?」



久坂さんは不意に尋ねる。



「あぁ、あれ? 結局、あの後ちゃんと落ち着いてくれていたし……やっぱり過換気症候群だったのかなぁ?」


「何だ、その曖昧さは……で、それはどういったものなのだ?」


「うーんとね。心の問題とかで呼吸回数とかが増えちゃったりして過換気状態……つまり、血中の二酸化炭素が減っちゃって、PHが……」


「ちょ、ちょっと待て!! 言っている意味がわからん」



淡々と説明をする私に、久坂さんは戸惑う。 



「だよね……じゃあ、後で私の教科書を読んで!」


「心得た」



久坂さんの何とも言えない表情に、私はクスリと笑った。



「でもね、あれは本当に偶然なんだよねぇ。今回は治まってくれたから良かったけど……治まってくれなかったら、どうしようかと思ったよ」


「そうだな……」


「はじめ、気胸かなんかかなぁって思ったし……。やっぱり検査ができないって不便だなぁ。本物の医師も一緒にタイムスリップしてくれたら良かったのに」



私は深い溜息を一つついた。



「私からすれば、お前の知識は素晴らしいと思うがな」


「私なんて、本当に簡単なことしか分からないから、そんなことは無いよ……それにね、ちょっとしたことを知ってたとしても技術が無いと意味がないよね」


「技術……か。そうなると蘭学になるだろうな」


「蘭学かぁ。久坂さんも蘭学を学んだんでしょう?」


「医術は藩校で、蘭学を本格的に学んだのは……対馬に遊学した際に、な」



対馬……九州や長崎、だろうか。



「じゃあ、その時の話を聞かせて?」


「そうだなぁ…………」



遊学中のことを久坂さんは話し始めた。




「ん? なんだ……寝てしまったのか。此処は診療所……なのだがな」




話の途中で反応が無い事に気づいた久坂さんは、そういうとフッと笑う。 




「まぁ良い……今日は本当に疲れたのだろうな。仕方がない……今宵はこちらに泊まるとするか」



 

久坂さんは立ち上がると、大きく伸びをした。




 

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